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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

リベラリズムの道を歩んでいない対等主義の牧会者のみなさまへの公開レター

福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について キリスト教リベラリズムの形態

(自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載) 

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Wayne Grudem, An Open Letter to Egalitarians about Liberalism, June 12, 2013

 

私が本書(Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism)の中で挙げている著者、神学校、出版社に関わっておられる方の多くは、個人的には自分の友人です。

 

私は友人であるみなさんに今日一つ伝えたいメッセージがあります。みなさんの多くは、私が本書で述べたように、リベラリズムの街道を下って行ってはおられません。(さまざまな理由から)みなさんは、「聖書は女性が牧師や長老になることを禁じているとは教えていない」と判断をされ、そしてその点を除けば、みなさんの神学システムは全く以前のままです。

 

そして実際、みなさんはリベラル化した方向へは進んでおられないわけですから、なぜ私が本書の中で、「福音主義フェミニズムは、リベラリズムにつながる」と主張しているのか、いぶかしく思っておられるかもしれません。

 

また私は、キリスト教会の中で、女性たちの賜物やミニストリーがますます奨励されることを、みなさんと共に望む者ですし、他の書の中において、男女両方に開かれるべきだと自分の考える重要なミニストリーの数々についても列挙いたしました。それにそもそも、みなさんのほとんどは、ご自分が教会や神学校をリベラリズムの方向に誘導しているなどとは全く考えておられないと思います。

 

実際、みなさんは心からイエス・キリストを愛しておられ、神の言葉を愛し、それをよく教えておられます。「いったい、私の下した決定のどこが、リベラル化を促進させるものなのですか?」とみなさんは問うでしょう。それに、みなさんの知り合いの方々も同じような路線を踏んでおられると思いますが、その方々にしたところで、誰もリベラルにはなっていない。ーーそう考えていらっしゃるかもしれません。

 

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事実、対等主義の私の友人の多くは、――この一点を除く――他のすべての教理的確信において、1mmだにリベラリズムの方向に進んでいませんし、今に至るまで聖書の無謬性を堅く信じ、またそれを擁護しておられます。

 

そういった友人の一例を挙げますと、スタン・ガンドライ(ゾンダーヴァン出版社の編集者)、ジャック・ヘイフォード(チャーチ・オン・ザ・ウェイの牧師)、ウォルター・カイサー(ゴードン・コンウェル神学校の元学長)、ロジャー・ニコル(ゴードン・コンウェル神学校および改革派神学校オーランド校の元教授)、グラント・オスボーン(トリニティー神学校の教授)の方々などです。

 

そしてこういった方々はエヴァンジェリカル界で重んじられている神学者であり、指導者であられます。「こういった指導者たちは、福音主義フェミニズムおよび対等主義の立場を採りながらも、なおかつ自らはリベラリズムの方向には進んでおられないじゃないですか。それなのに、あなたはどうして、『福音主義フェミニズムがリベラリズムにつながる新しい街道である』と主張しているのですか?」

  

ええ、私がそう主張しているのは、福音主義フェミニストの方々が用いている諸議論の性質そのもの故です

 

*訳者注:具体例を挙げます。


ある人がこういった対等主義的な主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外にはリベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、

 

1)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、

2)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。

 

この二点が挙げられると思います。しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。

 

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「教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進めさらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ。」

  

そしてこの警告通りのことが、現在、福音主義フェミニズムの中で起こっているわけです。本書の中で私はそれに関する証左資料を提供したしました。ですから、対等主義の友人のみなさん、私はみなさんにお願いします。どうか本書の中で私が申し上げている議論、そしてそういった議論のパターンについて熟考なさってください。

 

みなさんはこの点についてご自分は何ら問題を犯していないと考えていらっしゃるかもしれません。あるいは、ここそこに、少々不確かな解釈を採用したからといって、大局的見地からはそう問題ないと思っておられるかもしれません。しかしみなさん、ここで今しばらく立ち止まり、現在、福音主義フェミニスト運動全般において、実際に何が起こっているのか、その現実を直視してみてください。

 

 みなさんがこの現実に向き合うなら、この運動が、再三にわたり、――この聖句やあの句、もしくはこの章やあの文脈において――いかに聖書の権威をないがしろにしてきたのか、その事実に直面することでしょう。

 

実例:


でもあなたはこう考えるかもしれません。「いや、私の持ち場はあくまで小さい。だから私の対等主義的立場が他にもたらす影響はたかが知れている。」

 

しかし、戦線において、「自分のポジションはさほど重要ではない」と考えている兵士のごとく、あなたが自分のその持ち場という『一点』を譲歩してしまったがゆえに、敵に対し、大きな突破口を提供してしまう結果となり、それによって、結果的にあなたの教会の大きなセクションが損なわれる――そんなことになってしまわないでしょうか。

 

新しい論文や本を拾い上げ、そこで展開されている議論をさらさらと流し読みしながら、「うーん、まあ、確かにこの聖句についての著者の説明には納得できないものを感じるが、、、でも、少なくとも、この本は『牧会職を含めたすべてのミニストリーに女性を入れる』という自分の意見をサポートはしてくれている。ここでの議論や解釈自体は、ちょっと受け入れられないけど、でもまあ、結果論から言うと私はそれに同意できるわけだから、、、」そう言われるかもしれません。

 

こうして、次から次へと、本書で取り上げた対等主義側の諸議論が積み上げられてゆき、そして、一般信徒たちもそれらの諸説を受け入れていっています

 

実例:


しかしながら、もしもそこで提示されている諸前提や、解釈の原則が、実際には聖書の権威をないがしろにするものであるのなら、そしてそれが一度や二度ではなく、何度も何度も繰り返されているのなら、、それでもみなさんは平気でいられますか

 

「間違った理由を持ちだしてはいるけれど、結果論としては自分と同じだから」という理由で、そのような議論をあなたが許容するのなら、それは最終的に、あなたの教会の将来、そしてその土台を腐食することにならないでしょうか。

 

もし、聖書の権威を弱体化させるような、そのような主張が、あなたの現在所属しているその輪の中で今、真正面から取り上げられないのなら、それなら、将来的に、あなたは一体どのようにして、ご自分の教会および宣教団体を守っていくことができるのでしょう。

 

あなたご自身は、諸信条においてほとんど変化をみせておられないかもしれませんが、現在、あなたの指導下にあって、あなたから教えを受けている学生たちは、これまであなたが用いてきた諸原則をさらに数歩推し進め、こうして、――あなたが想像される以上に今後、彼らは、〔教会・教団で〕保持されてきたものを破棄していくでしょう。

 

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