巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「ローマ16:2の女性執事フィベは、『指導者』であり『支配者』であって、使徒パウロの上に立つ人でした」という主張はどうでしょうか。

                         

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     ケンクレヤ(フィベの仕えていた教会はこの地域にありました。ギリシャ)

 

フィーベはまた多くのプロスタティスの一人でした、、スィドゥラーは、その言葉は新約聖書の他のどの個所にもなく、他のギリシャ文学の中ではいつも支配者、指導者または保護者を意味することに注目しています。

彼は、また、パウロがテサロニケ人への手紙第一5:12においてそのことばの動詞形を用いるとき、それは「~を支配する」と訳され、テモテへの手紙第一 3:4~5 ; 5:17では監督、祭司、そして執事を指しているということも指摘しています。今日では「指導者的長老」ということばを好む教会もあります。

 

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世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのか(Gender or Giftedness by Lynn Smith)」p 40,41(傍線、強調点はブログ管理人によります。)

 

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 7より翻訳

 

ローマ16:2でフィベは「多くの人を助け(a patron, prostatis)、また私自身をも助けてくれた人です(新改訳)」と記されています。ESV訳では、patron、NASB訳ではhelper、NIV訳ではhelpとなっています。

訳者注:日本語訳では、岩波訳、新共同訳、塚本訳、口語訳がそれぞれ「援助者」と訳し、前田訳は「助け手」、それから文語訳は「保護者」と訳しています。それから、その他の英語訳では、欽定訳ーa succourer、Holman訳ーa benefactor、NETーa great help、Darbyーa helperとなっています。)

 

しかしアイダ・スペンサー他、幾人かの対等主義の人々は、こういった訳語に異議を唱えています。スペンサーによれば、この聖句が意味しているのは、フィベがパウロ上に立つ指導者であり、支配者であったということなのです。

 

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 プロスタティスの動詞形プロイステーミ(proistemi)は、文字通りに訳せば「立つ、前ないしは上に置く」を意味します、、、フィベは、「他の人々の上に立ち(監督する:set over)女性」ないしは「前に立つ人」です。

 新約聖書でプロスタティスと呼ばれていた人は〔フィベ以外〕一人もいません、、彼女は多くの人の上に立つ指導者であり、そしてパウロの上にさえ立つ指導者だったのです!、、

 属格と共に動詞形プロイステーミが用いられる時、それは「私は監督する、私は~のかしらである」、、「私は統治する、指揮する」「監視すべく前に立つ」という意味になります、、

 名詞プロスタティスは「多くの」「私の」という属格と共に用いられ、それが意味するのは、フィベがこれらの人々の上に置かれ、監督する人物であったということですフィベこそ、男性の上に権威を持っていた――しかも、この場合、偉大な使徒パウロの上にさえ権威を持っていた――明瞭にして、称賛に値する女性の例なのです。Spencer, Beyond the Curse (1985), 115-16.

 

筆者注:ルース・タッカーもスペンサーのこの見解に同意し、引用しています。Tucker, Women in the Maze (1992), 100. それから、Brown, Women Ministers (1996), 167. また、シンディー・ジェイコブスも、「フィベが指導者であった」というこの見解に同意し、Trombley, Who Said Women Can't Teach (1985), 194-95の著書から引用しています。(Jacobs, Women of Destiny (1998), 181-82)。しかしジェイコブスは、1テモテ3:4-5、12(p.182)の「動詞peritoneum」の議論をベースにトロムブリーを引用しているのですが、そもそもperitoneumというギリシャ語は存在しませんし、-eumで終わるギリシャ語動詞というのは皆無です。)

 

回答1.

どの英語訳にも存在しない解釈に対しては、非常に慎重になるべきです。

 

本書の中で取り扱っている他の多くの対等主義見解にも当てはまりますが、私はここで一つ一般的戒言を出したいと思います。どの英語訳にも見い出されず、また実際、その聖句や欄外注にある意味に近くありさえもしない語義を新たに提唱する際には、私たちは広範囲に渡る確かな証拠を提出しなければならないということです。

 

本記事で取り上げている事例もまたそれに該当します。スペンサーの提唱している「指導者」という翻訳は、「助け手」や「援助者」("helper," "patron,""benefactor")などと著しく異なっています

 

それに加え、そういった解釈が、新約聖書に見い出される他の聖句内容と明らかな衝突・相反を生じさせるなら、その見解の正当性はますます疑わしいものになっていきます。本ケースにおいても、同じことが言えます。使徒パウロという人はエルサレムの使徒たちでさえも自分を支配する者ではないと考えていたのです。

 

彼の使信と同様、パウロの使徒職も、「人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」(ガラ1:1、11-12)のです。

 

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                                   エルサレム会議(使徒15章)

 

エルサレム教会で「重(おも)だった人たち」の地位もパウロのそれより優るということはありませんでした。なぜなら、「彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから」(ガラ2:6)、そして、続けてパウロは、自分がいかに公然とペテロを叱責したかについて述べています(ガラ2:11-14)。

 

それゆえ、スペンサーの主張は、「使徒パウロが自分自身のことを、イエス・キリスト以外、他のどんな人間の指導者の下に従属する者でもないと考えていた」という新約聖書の明確な証言と矛盾しています

 

回答2.

最近のギリシャ語諸辞典は「patron(後援者)」ないし「helper(助け手)」という意味をもっとも確からしいものとして定義しています。

 

最新の二冊のギリシャ語辞典は、プロスタティスに「指導者」という意味を与えていません。また、BDAG辞典は、プロスタティスを「woman in a supportive role, patron, benefactor(支援する役割を担う女性、支援者後援者)」と定義し(p885)、関連する男性名詞プロスタテース(prostates)を「one who looks out for the interest of others, defender, guardian, benefactor(他の人の福利に気を配る人、擁護者、保護者、後援者)」と定義しています(p885)

 

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また、ロー・ナイダ辞典(Louw-Nida)は、「a woman who is active in helping--'helper, patroness...'(助けるのに熱心な女性ー‘助け手、支援者’)」と定義しています(1.459)。一方、より古いセイヤーの辞典には、確かに「properly a woman set over others(厳密には、他の人々を監督する女性)」と記載されています(Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament (1901), 549.)が、これは男性形プロスタテースとの関連においての説明であり、実例は示されていません。

 

そして、次の意味において、それが実際いかなる意図を持つものであったのかが説明されています。というのも、そこにはローマ16:2からの直接の参照が記載された上で、次のように記されてあるからです。「a female guardian, protectress, patroness, caring for the affairs of others and aiding them with her resources(女性保護者後援者、他の人の世話をし、自分の財をもって彼らを助ける人)。」(p.549)

 

回答3.

スペンサーは、ここでトリッキーな語彙議論を展開しています。彼女は本来の名詞プロスタティスについては定義せず、その代りに、関連動詞であるプロイステーミを定義しようとしているのです。一つの単語というのは、それに関連する他の全ての語彙の持つ全ての意味を包含しているわけではありません。

 

「Aという単語はBという単語に関連している。そして単語Bには○○という意味がある。よって、単語Aにもまた、○○という意味がある」というのは妥当ではありません。

 

ある言葉は、それの関連語の持つ全ての意味を有しているわけではないのです。これは人間言語の持つ単純な事実です。例えば、butterfly(チョウ)という語は、「butter」と「fly」という語に関連した言葉です。しかしそうだからと言って、butterflyが、「飛び方を学んだ一かけらのバター」という意味になるわけではありません。単語間の関係性というのは非常に複雑であり、それゆえ、私たちは、――関連諸語ではなく――その単語自体の語用に主要な重きを置くべきです。

 

もちろん、同根語は往々にして同じ意味を共有することがあります。しかし常にそうであるとは限りません。例えば、autograph(署名), automatic(自動), automobile(自動車), autopsy(検視)はそれぞれ異なる意味の言葉です。ですから、ある語の意味を取り上げて、それをそのまま他の関連語にインポートすることは本来できないのですが、上記の議論において、まさにその事が行われています。

 

ギリシャ語の例も取り上げてみましょう。もし誰かが、次のような主張をしたと想定してみてください。「ヘブル6:6の『もう一度十字架にかけて』の本当の意味は、『死から復活する』なのです。なぜかというと、ヘブル6:6の動詞「anastauroo」は、「anastasis」という『復活』を意味する語の関連語であり、どちらの言葉も、接頭辞 anaと、それに付随する動詞 histemi(「立つ」)から来ているからです!」

 

もちろん、こういった主張は荒唐無稽なものですが、ローマ16:2を基に、フィベが「指導者」だと主張している人々によって展開されている議論もまた、これと同種のものです。

 

しかし、仮に名詞プロスタティスが動詞プロイステーミと関連しているとして、それなら、私たちはこの二語の意味が少なくとも何らかの形で関連していると考えるべきなのでしょうか。それは確かではありませんが、ある名詞と、それに関連する動詞が往々にして似た意味(meanings)を持っているということは想定できます。

 

しかしながら、たといそれを受諾したにしても、スペンサーたちが読者の方々に明かしていないのは、実は、関連動詞プロイステーミにはまた、「to have an interest in, show concern for, care for, give aid(関心を持つ、配慮を示す、ケアする、助けを与える)」(BDAG,870)という意味もあるという事実です。

 

そしてこういった意味が、ローマ16:2で使われている名詞プロスタティスの内包する意味のように思われます。ですから、たとえ私たちが関連する意味をそこに見るとしたにしても、名詞プロスタティスを説明するに当たり、スペンサーは不正確にも、動詞プロイステーミの選択的引用(selective citation)に依拠しています。

 

ローマ16:2には、プロスタティスと同根(histemi)の別の動詞も使われており、もしかしたら、パウロは二つの言葉をかけ、語呂合わせをしていたのかもしれません。というのも、パウロはここで「、、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい(paristémi, παρίστημι)。彼女は多くの人の援助者(prostatis, προστάτις)であり、またわたし自身の援助者でもあった」(ローマ16:2、口語訳)と言っているからです。

 

翻訳後記:

普段あまり目立たない聖書のこの一節にこんなに注目し考察する機会が与えられ、今、とても満ち足りた思いでいます。フィベ姉妹が仕えていた教会の位置するケンクレヤ(Cenchrea)は、現在私が住んでいる所(アテネ)から車で約1時間半くらいの所にあります。

 

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この節から感じられるのが、苦難の多かった伝道者パウロは、フィベ姉妹の存在によって大いに励まされていたということです。caring, aiding, supportive(ケアする、助ける、支援する)というような意味を含むプロスタティスという語はまた、フィベ姉妹だけでなく、「助け手」として創造された私たち女性皆にふさわしい言葉ではないかと思いました。

 

それから、もしもローマ16:2で、パウロが実際に語呂合わせをしていたのだとしたら、「助ける」という意味の paristémiというこの動詞もまた、私たちにとって味わい深い言葉ではないかと思いました。この語は、「παρα <傍らに+ιστημι<立つ」という二語から成っており、人と苦楽を共にしつつ、その人の「傍らに」「立ち」続ける、という支援者・サポーター・助け手としての本来のあり方をよく表しているのではないかと思います。

 

現在、使徒パウロはこの地上にいませんが、私たちの周りには主のために奮闘している伝道者の方々がいます。私自身もまた、こういった伝道者の方々を背後で支え、応援し、para-istemiし続ける、そのような静かなプロスタティスとして、キリストのからだの中に息づくことができたらと願っています。