読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

【悩み相談】男性牧師の「権威の下で」なら、女性は会衆に聖書を教えることができると思うのですが、どうでしょうか。

聖書的男性像・女性像Q&A(相補主義) 女性牧師問題で悩んでいる方々へ 1テモテ2:12検証

John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016

 

Q. 男性牧師の「権威の下に」あるのなら、女性が教会で会衆に聖書を教えることは可能ではないでしょうか。しかも、その男性牧師は、彼女が教えている間も、ちゃんと彼女を監督し続けてくださっているのです。それだったら、構わないのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 

応答:

教会でなされる、あらゆる種類の「教えるミニストリー」が、牧師・長老の認可の下になされるーこれは、正しいことです。しかし、教会の指導層が、その権威を用い、事実上、女性が教会内の「教職」として機能することを認可するという事は間違っています。(つまり、「teaching elder」等の正式名称こそないかもしれませんが、事実上(de facto)、この女性は教職としての機能を果たしているわけです。)

 

「女性が教えること」を聖書的に是認するために、二種類の基準が満たされなければなりません。一つは、(長老等)教会の霊的監督の承認を得ることです。

 

そして二つ目は、①その女性を、事実上、男性グループの霊的牧者として機能するような立場に位置させる、という文脈や教えのあり方を避ける。②その教えの性質それ自体が、主より与えられた権威に基づく「男性たちの良心」に重圧を与えるような、そのような種類の教えを避けるという基準(criterion)です。

 

そういった行為は、パウロが1テモテ2:12で言っている内容を侵害しています。牧師には、聖書が「してはいけない」と禁じているなにかに対し、それをする許可を下してもいいという、そのような権利は与えられておらず、許されてもいません。なぜなら、牧師たちは、聖書の御言葉そのもの以上に高い権威を持ってはいないからです。

 

 

f:id:Kinuko:20161221160103p:plain

翻訳後記:

*この部分で人知れず悩み、良心の葛藤を覚えていらっしゃる方は実際、多くおられると思います。そういった方々のために、さらに詳しい説明を追加しておきたいと思います。(以下、Evangelical Feminism and Biblical Truth, Chapter 9 より一部引用)

 

~~~~~~

 

「男性牧師の『権威の下で』なら、女性は会衆に聖書を教えることができると思うのですが、どうでしょうか」という悩み相談は、エヴァンジェリカル教界でよく聞かれます。この悩みを持っている多くの人々は、本当に心から教会内における男性リーダーシップを望んでおられ、それゆえに、あえて「(男性である)牧師や長老の権威の下にそれがなされるなら、、」という部分を強調しておられるのです。

 

またこれは、対等主義著述家の一般的な見解ではありません。というのも、通常、彼らは「男性だけが牧師・長老になるべきだ」とは考えておらず、また、「聖書を教えるにあたって女性たちは男性の認可を得る必要がある」とも考えていないからです。

 

しかしながら、CBMWのオフィスには、上記のような疑問や葛藤を抱えた人々から電話やメールが多数寄せられています。もしもある女性が、「牧師や長老の権威の下に」説教をするなら、その時、この女性は聖書に従っていることになるのでしょうか。ご一緒に考えていきましょう。

 

回答1:

牧師や長老は、聖書のみことばに反する(disobey)行為を、他の人に認可することはできません。

 

ここで要(かなめ)となる問いは、「聖書は実際、何と言っているか?」です。そして聖書は、「あなたがたは、集会において、男性による権威(male authority)を保持しなさい」とか、「女性は、男性牧師・長老の権威の下にない限り、男性に教えてはいけない」とか、そういうことは言っていません。むしろ聖書はストレートに「私は、女が教えたり、男を支配したりすることを許しません。」と言っているわけです(1テモテ2:12)。

 

それでは、ある教会の牧師もしくは長老には、「聖書のこの御言葉を女性たちが破ってもいいという認可を与える」、そのような正当な権利があるのでしょうか。もちろん、その方々にそのような権利はありません。聖書が「やってはいけない」と命じていることを行ない、そして、「いえ、でも、あくまで私は、長老たちの権威の下にそれをやっていますので。」と理由付けをすることは、はたして正当化されるのでしょうか。どうでしょうか。

 

他の例でこれを考えてみましょう。ある人がこのようなことをあなたに言ってきました。「お金がどうしても必要なので、今日、銀行強盗をするつもりです。それに対し、私の牧師もゴーサインを出してくださいました。だから私は彼の権威の下にあるのだと信じます。」

 

「結婚生活で苦しんでいます。だからやむをえず、ある異性の方とお近づきになりたいと思っています。うちの教会の長老たちもそれを認めてくださっています。ですから、私は依然として長老たちの権威の下にあると信じます。」

 

「刑務所に入れられるような目に遭いたくないのです。それで今、少し偽証行為をやっております。それに対して私の牧師は認可してくださっており、それゆえに、私は牧師先生の権威の下にそれをやっていると理解しております。」

 

もちろん、上記のような発言は荒唐無稽なものでしょう。しかしここから浮かび上がってくる一般原則があります。それは何かといいますと、「牧師、長老、祭司、監督、その他いかなる教会指導者であれ、人々に『あなたは神のみことばに従わなくてもいい』という許可を下す権威はない」ということです。

 

しかしある人はこうおっしゃるかもしれません。「でも私たちは、教会内における男性 headshipという聖書の『一般原則』に敬意を払っているのです。」しかしパウロは「教会で、『男性 headship に関する一般原則に』敬意を払いなさい」とは言わず、「私は、女が教えたり、男を支配したりすることを許しません」(1テモテ2:12)と言っています。

 

聖書が実際に言っていることに変更を加え、その上で、自分たちの作った新しい「聖書の一般原則」に従えばそれでよいという、そのような権利は私たちにありません。

 

また、聖書の中のある具体的な教えを取り出し、それを抽象化しつつ、そこからある一般原則(例:「男性headship」の原則)を引き出した上で、「私たちは、この『一般原則』により、この原則の範疇に属する聖書の具体的掟に関しては、これらに従わなくても許されるのです」とする、そのような権利も私たちには付与されていません。

 

自分たちの望むままに、聖書から一般諸原則を引き出し、そうした上で、こういった諸原則が自分たちの状況においてどのように適用してゆくのか、それぞれが自在に意見を作り出してゆくー、そのような自由も私たちには与えられていません。そのようなことが許されるなら、人々は、自分にとって都合の悪い聖書の掟なら何であれ、このやり方でかわし、うまく切り抜ける方法を見い出していくでしょう。そうなると、私たち自身が、自らに対する法(law)となり、もはや神の言葉の権威の下にある者ではなくなってしまいます。

 

回答2:

諸教会に宛てて出されたパウロの諸指示に対し、「あなたがたの長老たちの権威の下にそれがなされるならば、、」と付け加えることは、とりもなおさず、それらの掟に付与された神より来る権威を空虚なものとし、それらを、(神の掟ではなく)単なるアドバイスのレベルまで引き下げてしまうことになります。

 

回答3:

これでは実際のところ、「成人男性に対して聖書を教えるという行為」に関し、男性と女性の間には何ら相違がないということになってしまいます。

 

もしある女性が、「教会の長老たちの権威の下にある時にのみ、私は成人男性に聖書を教えようと思います」と言ったとします。すると、どうでしょう。結局、この女性は聖書を教える男性と何ら変わりはないということになります。

 

どんな教会のどんな男性であれ、その教会の長老(もしくは牧師)の権威による認可なしには、公的に聖書を教えることはできません。原則的に言って、教会で聖書を教える人は誰であれ、その教会の統治権威(例:長老会、役員会、評議会)の下にあることが求められています。それは男性、女性共に求められているものです。

 

それゆえ、「長老の権威の下にあるなら、、」という立場に立っている人々は、「成人男性に聖書を教えるという行為」に関し、男性ができることと、女性ができることの間に違いはまったくないということを実質上、言っていることになります。

 

はたしてそれがパウロの本当に意味するところだったのでしょうか。「私は、女が教えたり、男を支配したりすることを許しません。」(1テモテ2:12)とパウロが言った時、彼がここで言及していたのは、女性たちにだけ適用されるべき内容ーそれではなかったのでしょうか。

 

【参考資料】