巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「大いなるしるし」(黙12:1)――乙女マリア、身体のよみがえり、グノーシス主義、男女のセクシュアリティー(by マシュー・ベーカー神父)

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出典


Fr. Matthew Baker(♰2015), "A Great Sign" (Rev. 12:1): A Homily on the Dormition of the Theotokos, Aug.15, 2014(抄訳)生神女就寝祭の日に

 

また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。(黙示録12章1節)

 

パトモスに流刑されていた使徒ヨハネは晩年に、一つの幻を見ました。「大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。」(黙12:1)。

 

大半の注解者は黙示録からのこのイマージュを「教会」もしくは「イスラエルの残りの者」を言及するものであると捉えています。ですが別のある注解者たちは、ここにマリアのイマージュを見ています。とりわけ、マリアがシオンの娘であり、彼女が教会を予表しているという理由からです。中には(身体をともなった)彼女の被昇天のイマージュを見る人さえいます。


「大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て」(黙12:1)。乙女マリアの身体的「被昇天("translation")」の内に、教会は「大いなるしるし」を認めます。私たちの行く先について、死の持つ意味について、身体について、そして人間の関係性について私たちに告げ知らせる一つの預言的しるしを、です。

 

このしるしは私たちに語ります。――死は人間の終局的最後ではない。哲学者ハイデッガーが考えたような単なる「死に向かう存在("being-unto-death")」ではない。有限なる時間と死はわれわれの究極的地平ではない。イエスの御母は「いのちへと移された("translated unto life")」のだと。


このしるしは私たちに次のようにも語ります。――純粋なる霊の「天国」というのがわれわれの最終的所有地なのではない。キリスト者はプラトン主義者ではない!肉体は魂の監獄ではなく、また肉体は、蝶々のごとく現れ出るべく「真の自己」のために脱ぎ捨てるべき繭(まゆ)のようなものでもない。プラトンは間違っていた。神が御意図されたように、私たちの真のペルソナ(人格)は、魂だけで構成されているのはなく、それは肉体をも含んでいるのだ。人(person)の救いというのは、からだの救いをも含めたものである。そう、イエスの復活を通し、私たち一人一人は身体のうちによみがえり、回復される。――ちょうど母の胎内に宿った時のように。


「大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、」(黙12:1)。栄光の内に昇天した後も、マリアは依然として女(Woman)でした。


グノーシス主義者と呼ばれる古代異端のある人々は、「身体のうちによみがえるという部分は是が非でも克服されなければならない」と考えていました。グノーシス文書の一つである『トマスの福音書*1』には、天の御国には、男も女もない、おそらく女たちは男たちのようになるであろうということが記されてあります。こういったグノーシス主義者たちは結婚をさげすみ、特に生殖・出産を軽んじていました。彼らは自然のしがらみ(きずな)からの解放を求めていたのです。

 

今日もグノーシス主義者たちは私たちの周りにいます。今日のグノーシス主義者たちは私たちに言います。「ほら、男性、女性とか、母、父とかいうものはね、交換可能なものなんですよ。それぞれのアイデンティティーを交替して構わないんですよ。」こうして彼らは創造主なる神の善にして永続する御企図ではなく、社会のこしらえ事、人工的な自己構築像に倣っています。


しかし、教会は私たちに、この世が提示するものとは異なるしるしを差し出しています。それは、現代社会においては「反対を受ける徴」(ルカ2:34)です。「あなたはいのちへと移されました。おお、いのちの御母よ。」このしるしは言います。栄光の内に昇天した後も、マリアは依然として母(Mother)であると。


マリアの身体を伴った栄化の内に、私たちはやがて相続する御国の栄光のイマージュを前もって与えられています。それは全き形で体現化(embodied)された栄光であり、そこにおいては、被造物それぞれの相違という美はずっと保たれています。愛という自然的きずなの内にある栄光は決して消えることはないのです。そしてこの栄光の中で、誰かにとっての母、ないしは、父、そして息子や娘であるということは永続してゆくのです。

 

主の御胸によりかかった愛する弟子、十字架の横で祈った弟子に、そして全ての人に向かい、キリストはこう言われるでしょう。「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)と。人間の中で乙女マリア(パナギア)ほど高尚な人はいません。そして神学述語の中で彼女に与えられている「母」という称号ほど偉大なる称号はありません。

 

「母」というこの語は、肉体的出産という範囲をはるかに超えるなにかです。これは人間にかかわるありとあらゆる事柄、霊的きずな、神からの召命を示しています。血肉によるつながりを超えたこの霊的母性は、すべての女性に与えられた賜物であり、召命です。それは既婚、未婚、子の有無に拘らず、全ての女性に与えられています。それはまさしく賜物であり、全ての人類はそこより祝福を受け取っています。これは私たちが勝手にこしらえたなにかではなく、創造主なる神のお造りになった良き賜物です。そして今日の祝祭が私たちに示しているように、それは死をもって終わることはないのです。


ー終わりー

*1:Gospel of Thomas, logion 114