巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会と、2世紀におけるグノーシス主義者たち(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

自分で決定した正典(カノン)を披露するマルキオン(出典

 

目次

 

Bryan Cross, The Church and the Second Century Gnostics, 2008(拙訳)

はじめに

 

聖ポリュカルポスに関する前回のディスカッションの中で見てきました通り、使徒ヨハネが90歳の頃(AD97-101の間)、エペソの銭湯に、ケリントス*1がいるという事を聞き、彼はすぐさまそこから逃げ出したというエピソードがあります。

 

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すぐさま銭湯を後にする使徒ヨハネ(出典

 

その際、使徒ヨハネは次のように言ったと伝えられています。「逃げよう。さもなくば、銭湯自体が崩れ落ちるだろう。なぜなら、この中に、真理の敵であるケリントスがいるからである。」*2

 

また私たちはマルキオン*3に対するポリュカルポスの反駁をも目の当たりにしています。実際、AD154年頃、二人はローマで鉢合わせになったことがありました。その時、マルキオンは聖ポリュカルポスに訊ねました。「私のことを知っているかい?」85歳のポリュカルポスは遠まわしな言い方などを一切避け、次のようにストレートにマルキオンに答えました。「もちろんあなたの事を知っている。ーーサタンの長子であるあなたの事を。」

 

ケリントス、マルキオン、ヴァレンティヌス、ケルド等はいかなる人物であったのか?

 

ケリントス、マルキオン、ヴァレンティヌス*4、ケルドーー、彼らは一体何者だったのでしょうか。

彼らは初期キリスト教会に侵入しようとしていたグノーシス主義者(gnostics)でした。ケリントスについてはわずかな事しか分かっていません。彼は使徒ヨハネの同時代人であり、おそらくはエジプトからエペソに来た、ユダヤ人(あるいは少なくとも割礼を受けた人)であったと言われています。

 

ケルドとヴァレンティヌスはヒギヌス(136 - 140 AD)がローマ司教であった期間に、ローマにやって来ました。またマルキオンはAD140年頃、ローマにやって来ました。出身地でいいますと、ヴァレンティヌスはエジプト出身、ケルドはシリア出身、マルキオンはポントゥス出身でした。

 

それではなぜ彼らはローマにやって来たのでしょうか。なぜなら、(魔術師シモンがそうだと理解していたように)彼らは、自分たちの信仰を普及させるに当たってローマは最適の地であると知っていたからです。そして事実、ローマに上ってきた彼らは三人が三人共、教会の統治権をとろうと、ローマ司教の座をねらいました。

 

ケルドはある時点で、ローマにある教会に自分の誤りを告白し、再び教会に受け入れられました。しかし(正確な年は分かりませんが)その後ローマにある教会に破門されました。

 

一方、マルキオンについてはもう少し情報があります。マルキオンの父親はポントゥスのシノぺの司教でした。マルキオンはAD110年頃生まれ、(教区司教ではありませんが)地元の町の司教になりました。彼はその後、ある乙女との間に重大な罪を犯しかどで自分の父親によって自教会から追放されました。マルキオンはAD140年頃、ローマに到着しましたが、おそらくはヒギヌスの退位後、司教の座に昇進することをもくろんでいたのではないかと言われています。

 

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ヒギヌスHyginus第9代ローマ教皇、在位:推定136年頃ー142年頃)

 

しかしAD140年、ピウス1世(『ヘルマスの牧者』を執筆者であるヘルマスの兄弟であるとされています)が、ヒギヌスに代わり、ローマにある教会の司教として選出されました(在位155年頃まで)。AD144年に、マルキオンはピウス1世によって破門されました。

 

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シノペのマルキオン(出典

 

マルキオンはその後、独自の ‟教会” を開始し、そこに独自の司教、祭司、助祭を配置しました。この ‟教会” は広範囲に拡がり、中世までも存続していたと言われています*5。マルキオンはAD160年頃死去し、(165年頃死去した)殉教者ユスティノスは著書の少なくとも一カ所で、当時マルキオンがまだ生きていたことに言及しています。またテルトゥリアヌスは著書『マルキオン論駁』の中で、マルキオンの教えを解説しながら反駁しています。

 

ピウス1世の後継者を選出する時期(AD155年頃)に、ヴァレンティヌスは選出を試みていたようです。テルトゥリアヌスがそれについて次のように語っています。

 

「ヴァレンティヌスは自分こそ司教の座に就くだろうと予想していた。なぜなら彼は頭脳においても雄弁さにおいても図抜けていたからである。しかし別の人がその座を獲得したことに憤慨した彼は、真の信仰を持つ教会と袂を分かった。野望にかき立てられ落ち着かない霊が大抵報復の願望に燃やされるように、ヴァレンティヌスもまた、力の限りを尽くし、真理を消し去ろうとした。こうして彼は、蛇の巧妙さで特徴づけられることになったのである。」*6

 

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ヴァレンティヌス(出典

 

ヴァレンティヌスはローマの司教座獲得に失敗し、その代りにアニケトゥスがローマの司教に選出されました。この頃、ヴァレンティヌスはローマの教会によって破門され、その後、キプロスに渡り、160-161年頃、そこで死去したとされています。

 

グノーシス主義者たちは何を教えていたのか?

 

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*7

 

それでは、グノーシス主義者たちはどんな事を教えていたのでしょうか。彼らの教えの一つに、「キリストは真の肉体を持たず、苦しみもしなかった」というものがあります。(この点において彼らはドケティズム的です。)私たちは、『ヨハネの手紙』の中に、こういったグノーシス主義に対する直接的拒絶をすでに見て取ることができます。(1ヨハネ4:2;2ヨハネ1:7)。ちなみにケリントスのキリスト論は次のようなものでした。

 

「ケリントスは〈イエス〉と〈キリスト〉を区別していた。〈イエス〉は、聖潔さにおいて傑出していたが、それでも単なる人間に過ぎなかった。彼は苦しみ、死に、死者の中から蘇った。もしくはある人々の言うように、ケリントスは、『彼は最後の審判の日に死者の中から蘇り、すべての人は彼と共に蘇るだろう』と教えていた。バプテスマの時、〈キリスト〉もしくは聖霊が、至高者なる神から遣わされ、〈イエス〉の内に宿り、『知られない神』について彼に教示した。〈イエス〉と〈キリスト〉のこの結合は受難の時まで続き、その時、〈イエス〉は一人で苦しみ、〈キリスト〉は天に帰ったとされている。」*8

 

グノーシス主義は物質と霊、人性と神性を分離していました。このようにしてグノーシス主義は《受肉》を否定しています。これは多くの点において非常に重要であり、私は論文 "The Gnostic Roots of Heresy"の中でその事を詳述しました。

 

イグナティオスの手紙の中で*9、ドケティスト(キリスト仮現論者)たちが、ユーカリストを回避していたか(もしくは最小限にしかそれを受け取っていなかった)ことを前回、ご一緒にみてきました。彼らがユーカリスト(聖餐)を極力回避していた理由はまさに、彼らドケティストにとり、ユーカリストというのが真にキリストの御体および血潮ではあり得なかったからです。しかしここで私は、グノーシス主義における一つの非常に重要な ‟教会的” 含意について触れたいと思います。

 

教会的含意(One Ecclesial Implication)

 

仮にキリストが実際の物質的体を持っていなかったのなら、教会(つまり、キリストの御体)は可視的ではあり得ないということになります。

 

仮にグノーシス主義者が正しいのだとすると、その時、教会は言ってみればただ、霊的且つ不可視的なものに過ぎないということになり、そしてChurchと誤って呼ばれている可視的物はーーちょうど、マリアの息子であるイエスの物質的肉体は(人間のイエスが存在したということを認めているグノーシス主義者によれば)単に人間に過ぎないとされているのと同様ーー、単なる地上的、人造的政治機構に過ぎないということになります。

 

私たちの主イエス・キリストの真の受肉に対するグノーシス主義的否認に内在する二元論には、含意として、二重の否定が伴っています。①まずそれは、一つの可視的教会の神的性質を否定し、②その神的教会における可視的性質を否定しています。人性と神性における位格的結合なしには、可視的な神的御体は存在せず、それゆえ、可視的な神的神秘体(つまり可視的教会)も存在しません

 

そして可視的教会が存在しないのなら、教会戒規も存在しないということになります。マルキオンは自分自身の ‟教会” をスタートすることができ、自分自身の「正典」を作成することもできました*10。もし可視的教会が存在しないのなら、その時、真の知識はーー物質的手段や、司教の物理的継承や、可視的教会を通してではなくーー‟霊的に” 知られ得るのだ、とされます。

 

またもし可視的教会が存在しないのなら、どの書が霊感されているのか、私たちはいかにして知ることができるのでしょうか。ーーそう、それは ‟霊的” に言って、自分の胸中の高揚感や、私たちの霊の内的証言によって知られ得る、ということになります*11。もし可視的教会が存在しないのなら、これらの書に関し、一体誰が正しい解釈をしているのか、私たちはいかにして知ることができるのでしょうか。ーーこれに関してもまた、「これが真にして自明の意味である」とあなたに示す内的な霊的証言によります。

 

それでは自分が救われているのかどうか、私たちはいかにして知ることができるのでしょうか。これもまた、内的な霊的証言によります。位格的結合に対するグノーシス主義の否認に関する教会論的含意は、モンタニズムの一形態をとった個人主義です。

 

真の結合において(単にそう見えるだけとか、外因的な仕方ではなく)肉体を帯びるということは、自らを《個別》、《今ここに》、《時間と空間》に結合させることを意味しています。しかし《個別》は、霊的/不可視的/普遍的なものとは異なる方法において認識されます。完全に霊的なものは、諸感覚によっては知られ得ません。それは諸感覚から離れたところで知られなければなりません。

 

それゆえに、グノーシス主義は「キリストは、物質を通してではなく、個々人の心という主観性において内的に知られる」という見解を生じさせるのです。従って、(彼らの見解によれば)それは人の諸感覚を通してではなく、ましてや、汗臭く、悪臭を放ち、罪深い人間たちによる物質的、時間的継承などを通してはけっして知られ得ないのです。

 

しかし《受肉》はそこに全く異なる次元をもたらします。受肉により、キリストは、ご自身の物質的御体、特定の場所や時間におけるご自身の物理的諸行為を通し、私たちに知られ得るのです。「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9b)。私たちはキリストの御体と血潮を迂回するのではなく、それらを通して神の元に行きます。(ヨハネ6章)

 

キリストが、時間/空間におけるご自身の個別性の中で具現化(embodied)し、可視的であるがゆえに、ご自身の御体である教会もまた、時間/空間におけるその個別性の中にあって可視的です。

 

十字架上で釘づけになった主の物理的御体の脇腹から流れ出る‟物質”との結合を通し私たちがキリストに近づくように、ユーカリストにおいて、教会という御自身の御体の脇腹から日々溢れ出るその同じ‟物質”とのサクラメント的結合を通し、私たちはキリストに近づきます。

 

教会は、ーーそれがキリストの御体であり、また受肉において肉体をとられたことによりキリストが、あらゆるその個別性および可視性において物質との真実にして永久的結合を成し遂げたがゆえにーー、時間/空間において個別且つ可視的でならなければならないのです。

 

ー終わりー

 

関連記事

*1:ケリントス(ギリシア語 Kerinthos、 ラテン語 Cerinthus、 1世紀~2世紀)。小アジア出身。キリスト教と混合主義的ユダヤ教とを同一視するグノーシス派であり、ケリントスは「ケリントス派」を創始し、ナザレのイエスは「『公正賢明な人間』なのであって、また単なる人間に過ぎない」と主張しました。また、その死は「無意味」であり、「救世主」などではないと主張し、イエスは養子であったとも論じました。ケリントス派 (Cerinthian) というと、キリスト養子論を指すことが多いです。エイレナイオスによると、使徒ヨハネはケリントスへの反駁のために『ヨハネによる福音書』を書いたといいます。また、ケリントスは創世は唯一神によってでなく、「デミウルゴス Demiurge」、または「天使」らによって形成されたとも論じていました。参照。追加資料:CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Cerinthus//NPNF2-01. Eusebius Pamphilius: Church History, Life of Constantine, Oration in Praise of Constantine - Christian Classics Ethereal Library

*2:Adv haer3.3.4

*3:マルキオン(Marcion 100年?-160年?)。2世紀に活躍したキリスト教の異端者。二元的神観とキリスト仮現説によって多くの信奉者を得、初期キリスト教会に大きな脅威を与えた人物です。その生涯はほとんど不明ですが、黒海沿岸シノペの人らしく、137年頃ローマに上り、当時のキリスト教におけるユダヤ的要素の排斥、妥協的な教会の根本的改革を主張しました。この頃グノーシス派と交わったとされていますが、教説にはさほどの影響はみられないそうです。彼の過激な主張は教会にいれられず、144年頃分離して新教会を結成、パウロ書簡と『ルカによる福音書』だけを正典としました。旧約聖書と新約聖書の矛盾を突いた『対照表』 Antitheseisを著わし、またパウロ書簡や『ルカによる福音書』を最初に正典として編纂した、新約聖書正典形成史上の重要な人物です。参照

*4:ウァレンティヌス(Valentinus)。2世紀ごろ,アレクサンドリアで生まれ、ローマで活躍したグノーシス主義の宗教哲学者。生没年不詳。ウァレンティヌス派を創立。「全宇宙は充実(プレロマ plērōma)の流出からなる位階秩序をもっており、地上はその最下層の暗黒世界にすぎず、創造神は悪の力にほかならない。魂の救済とはこの世からのがれて再び充実の中へと帰ることであり、それは霊的認識(グノーシス gnōsis)によってのみ可能である」と説きました。参照

*5:cf. マルキオン派 'Marcionites', CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Marcionites

*6:Against the Valentinians, 4.

*7:SVG trace of an image of the Abraxas Stone or Gem from The Gnostics and their remains by Charles W. King, 1887. The letters are "ΙΟΩ" or "Iao" and "ΣΕΜΕΣ ΕΙΛΑΜ", "Eternal Sun".(Cerinthus).

*8:'Cerinthus' in the Catholic Encylopedia

*9:特に「スミルナ人への手紙」7章。

*10:訳注:関連記事

*11:訳注:関連記事