巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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第二のイヴとキリストの人間格ーー古代教会における聖母マリアの教義展開について(by ヤロスラフ・ペリカン)

目次

小見出しは読みやすさを考え、管理人が任意に作成したものです。

 

ヤロスラフ・ペリカン著(関口篤訳)『聖母マリア』3章第二のイヴとキリストの人間格、p.60-73.

 

ヤロスラフ・ペリカン(Jaroslav Pelikan、1923 - 2006)は、米国のキリスト教史学者、神学者。ルター派教会の牧師の息子としてオハイオ州アクロンに生まれる。イェール大学名誉教授。マルティン・ルター全集(通称ペリカン版)の編纂者としても知られる。75歳の時に、東方正教会に改宗。*1

 

初期キリスト教世界の創世記1-3章読解

 

初期のキリスト教世界では、創世記の初めの3章を、キリストの到来を予期する文章として読む慣わしがあったらしい。そこで人々は、アダムとイヴの誘惑の話に、悪魔がキリストを誘惑する話を重ね合わせて解釈した。誘惑者(蛇)はイヴにこう言う。「それを食べると、目が開け、神のように・・・」*2

 

一方、誘惑者(悪魔)は、「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」キリストにこう言う。「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。」*3

 

ローマの信徒への手紙で使徒パウロもこれに倣う。「一人の人(具体的にはアダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように・・・。なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」*4

 

使徒パウロはIコリントの信徒への手紙において、この重ね合わせと対照をさらに詳しく展開する。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。・・・最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。*5」しかし、「下から見る」歴史にとって、最初のアダムを「土でできた者」とし、第二のアダム、すなわちキリストを「天に属する者」とすることは、甚だ重大な諸問題をもたらした。これについては本書の後半で再び触れることにしたい。

 

イヴとマリアの比定ーー教父エイレナイオス

 

この諸問題の多くにとって、イヴとマリアの比定は深い予見に満ちている。さて、ここで130年頃小アジアで生まれ、200年頃に没したリヨン(フランス中東部)の司教を登場させたい。教父エイレナイオス*6で知られるこの人物は、現存する二つの著作でこの比定を鮮やかに提示している。

 

一冊は古来知られている代表作『異端を退ける』*7。もう一冊は長らく「伝世本なし」とされてきたが、今世紀に入ってアルメニア語訳が発見された『使徒伝道の証言』。エイレナイオスは、創世記と各福音書のさまざまな要素ーーたとえば、エデンの園とゲッセマネの園、知恵の木と十字架の木などーーを対比しつつ、以下の甚だ独創的かつ息をのむ比較に到達する。

 

「人類が不幸に襲われ打ち倒され死んだのは、不従順だった処女〔すなわち、イヴ〕にその原因があったように、人類が生き返り命をふたたび得たのは、神の言葉に従順だった処女〔すなわち、マリア〕にそのきっかけがある。なぜなら主〔キリスト〕は、迷える羊を求めて戻ってくるが、迷ったのは人類そのものだった。そこで主はほかの形にはならず、アダムから受け継いだ形をとられた。こうしてアダムはキリストにおいて復活し、死ぬべき運命は永遠不死に吸収された。同様にイヴは処女マリアにおいて復活し、処女の唱道者になることにより、処女の従順で処女の不従順を打ち倒した。」*8

 

ここには「土でできた者」としての最初のアダムと、「天に属する者」としての第二のアダム、すなわちキリストの間の比定ーーさらには地と天の間の対照ーーがあるだけでなく、人間に過ぎない者、すなわち災害を招くイヴの不従順と、やはり人間に過ぎず「天に属する」のではなく「土でできた」第二のイヴとしてのマリアの、世を救う従順との対照が示されている。この両方の説話において重要なのは、悪魔にけしかけられたイヴの不従順も神に指示されたマリアの従順も、いずれも強制された結果ではなく、自由意思による行為だったことである。

 

さて、聖母マリアの教義の展開においてエイレナイオスのような学者が「2世紀の後半ーーそれ以前はさておくとしてもーーの時点で伝承の重要な証人であった*9」と指摘されると、なには差し置いても次の問いを発したくなる。「マリアを第二のイヴとする認識は、エイレナイオスの創意なのか、あるいは『それ以前からあった』考え方をエイレナイオスが単に受け継いだに過ぎないのか?」と。

 

エイレナイオスの著書『異端を退ける(異端論駁)』や『使徒伝道の証言』を読み進めると、次のような印象を禁じ得ない。「この著者は、イブとマリアの比定を、別に擁護の論陣を張るでもなく、いかにも当然のこととして云々している。著者は読者がこれをすんなり受け入れるか、またはこれを熟知している共通知識として、論を進めているに違いない。」

 

これを補強する情況証拠がもう一つある。エイレナイオスは、使徒を含む先行世代から伝えられた信仰の擁護者/伝達者をもって自ら任じていた*10。すなわち、2世紀の後半においては、「すべて命ある者の母*11」イヴとキリストの母マリアを一緒に見て、この二人を人間の歴史でもっとも重要な二人の女性と理解することが当然となっていた。

 

イヴとマリア――均衡のとれた両端の開示

 

だが、このイヴとマリアの「弁証法」がいったん世に流布すると、それは、それ自らの生命を帯び始める。ラテン語綴りのEva〔イヴ〕を逆に読むとAve〔アヴェ〕となる。ラテン語訳聖書では天使がこの言葉でマリアに呼びかける。後世、数限りない信徒が祈りの際に繰り返す「アヴェ・マリア」の呼びかけの起源である。ここからマリアという名そのものが神秘的なニュアンスを帯びるにいたる。

 

一方、イヴとマリアの不従順と従順の重ね合わせは、この両者を心理面で比較する風潮を広く生み出した。この比較でイヴへの否定的解釈ーー傷つき易い、非合理的、感情的、性愛的、心と理性でなく五感で生きようとする、わがまま等ーーが、ありふれたステレオタイプの女性誹謗として東西を問わず流布し、さまざまな国の思想と言語にその表現を見い出す。近年、このステレオタイプを求めて、初期のキリスト教の教父や中世の哲学者の著作の研究が行われたが、その例は優に1冊の書を超える量に達している。

 

ただし、その目的は、かかるステレオタイプの擁護にあるのではなく、歴史の正規にあった。同じ教父や哲学者は、もう一方ではイヴの対極にあって、これと均衡している女性像の提示にも主眼を置いた。すなわち、最初のイヴの後継者かつ擁護者として蛇の頭を砕き悪魔を負かした「強い女」マリアである。*12

 

歴史は、弁証法の一端ではなく、両端の開示を当然求める。英国の詩人ジョン・ミルトン(1608-74)は、「カトリックとマリア崇拝にあからさまに対峙した*13」にもかかわらず、代表作『失楽園』で天使がイヴに挨拶する様子を次のように描写する。

 

「汝に誉あれ!」

と天使は彼女に言った。--これこそ第二のイヴたる聖母マリアに、遥か後になって献げられる、聖なる祝福の言葉の最初のものであった。*14

 

ミルトンは、天使の祝福の言葉「アヴェ・マリア、汝に誉あれ」を引用し、これにより本章のテーマである、昔ながらの対比を呼び起こしている。しかし、プロテスタントの清教徒だったこの詩人は、均衡の一方の極としてのマリアのカトリック像が大幅に失われる文脈でこれを行なっている。従って、堕落後のアダムが処女マリアに「アヴェ・マリア」と呼びかける挨拶も、イヴのみならずマリアにもその後の歴史で自ら占めるべき立場を思い知らせるような言葉で綴られている。

 

おお、処女なる母よ、汝の上に栄光あらんことを!汝はまことに天のいと高き愛に包まれ、しかも私の血統を受けてこの世に生まれ、しかもさらに汝の胎からは、いと高き神の御子が生まれ給うとは!*15

 

ミルトンは、イヴ堕落後の心理を、苦痛に満ちたステップを追いつつ診断しているが、それは欠陥を伴いながらも、輝かしい性格分析として賞賛に値する詩行を形成している。しかし、最初のイヴから第二のイヴへ続くこの誘惑の分析を、初期キリスト教の教父や中世の哲学者からミルトンまでたどると、『失楽園』は、弁証法の一方の極をもう一方に比較して、極端に強調していることが明らかとなる。同じことはミルトン以降の多くの文学者にもあてはまる。

 

第二のイヴとしてのマリアーー「歴史循環説」への批判

 

マリアを第二のイヴになぞらえるテーマは、古代から古代後期にかけて広く支持された「歴史循環説*16」に対する批判であり、これに代わる認識でもあった。ヘロドトスの研究家チャールズ・コクレーンはこれを「典型的な状況が無限に繰り返されることを信じること」と定義し、これに対する反論としてアウグスティヌスの著作『神の国』の次のくだりを引用している。

 

「人間の歴史は、その外見にもかかわらず、一連のパターンの反復から成るものではなく、最終の目的に向かって不安定な足取りではあるが、確実な前進を行なうものである。」*17

 

アウグスティヌスによれば、歴史循環説は、「繰り返すパターン」を見分ける点では正しいが、ただ一度だけ起きて繰り返さない事象や人間の独自性を否定はできない。アダムとイヴはくり返し創造されることはなく、誘惑者にくり返し屈することもなく、園からくり返し追放されることもなかった。

 

一方、エイレナイオスが「再現」と名づけるプロセスにより、第二のアダムはイエス・キリストにおいてただ一度だけ出現し、最初のアダムのしくじりを修復した。また、第二のイヴは処女マリアの人格において出現し、エイレナイオスの表現を借りるなら、「イヴは処女マリアにおいて復活し、処女の唱道者になることにより、処女の従順で処女の不従順を打ち倒した。*18」これは繰り返しではなく再現であった。

 

「イエスの人間格」に躊躇するグノーシス派の認識に対する、教父たちの対抗

 

しかし、この章の前段で紹介したIコリントの信徒への手紙の中の言葉「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です*19」は、マリアの姿が答を提示している古代後期の第二の認識をすでに示している。

 

すなわち、「神格の人」で、これをキリスト教徒理解のイエス・キリストに当てはめるなら、ほぼ間違いなく「第二の人は天に属する」との認識が導き出される。第1章で紹介した宗教学者ルイス・ギンズバーグのコメント「真珠が貝殻の殻の中の混入物から生ずるように、旧約の消化不能な異物からも伝承が生ずる*20」傾向は、イエス・キリストとマリアについても、キリスト教のごく初期の段階からすでに始まっていた。

 

なかでも重要なのがヤコブ福音書*21である。これは外典ながら、「マリア説話の基本的史料を数多く含み、マリア伝承の伝播に貢献した*22」とされる書である。マリアが懐妊においても生誕においても未通の処女だったとの説話、マリアが分娩の苦痛なしでイエスを生んだとの説話、さらには諸福音書に言及がある「イエスの兄弟」は寡夫ヨセフの最初の結婚による子供だったとの説は、いずれもこの外典福音書に基づいている。*23

 

処女マリアにまつわるこの種の伝承で、彼女の聖なる子に「人間格」を付与することの躊躇が生じたことも、ここに付記しておきたい。その躊躇は、この外典福音書とほぼ同時代の他の資料にもすでに見ることができる。

 

イヴとマリアの関係を最初に広範に指摘したエイレナイオスは、次のような見解も披露する。ーーグノーシス派のヴァレンティヌスの信奉者の間にもこの種の躊躇があり、イエスは通常の意味でマリアから「生まれた」のではなく、母親の側にはまったく苦痛もなく、ただ受け身の形で関与するだけで*24、「水が管を通過するようにマリアの体を通過したに過ぎない」と断定した。

 

後にキリスト教の絵画は、マリアを身重の姿で表現することにより、この傾向を断固否定することになる*25。エイレナイオスが聖母マリアにこの決定的な役割を見い出したのは、人類救済の歴史におけるイエスとマリアの独自の立場を擁護するためだけでなく、「イエスの人間格」に関連するグノーシス派の、この認識に対抗するためでもあった

 

キリスト論、グノーシス主義、そしてマリア観

 

キリスト教の歴史の最初の5世紀でもっとも重要な知的テーマーーキリスト教の全歴史においても最大の知的テーマーーは、イエス・キリストの神格が創造主である神のそれと同格か否かの問題だった*26。この答には当然のことながら「テオトコス、神の母」と定められた*27マリアもかかわる。

 

神の子の全面的な神格をテーマとするこの問いは、キリスト教のもっとも初期からすでに存在していた。たとえば、誘惑者により繰り返される問い「お前が神の子なら・・・*28」である。

 

一方、2世紀から3世紀にかけての問いは、これとは全く逆の方向から発せられる。すなわち、神格の人は、言葉のあらゆる意味において本当に「人」なのかという問い、あるいは本来の「人間格」からなにか守る意味がそこにあるのかという問いである。後に、「グノーシス派」として一括される2-3世紀のキリスト教の多くの思想は、すべてこの見解を共有し、後にこれは「キリスト仮現説(Docetism)*29」と呼ばれるにいたる。

 

一方、「正統派」とされる最初期の学者は、このキリスト仮現論やグノーシス派に対抗して、イエス・キリストの人と生涯に、全面的に人間としての性格を付与すべく努めた。

 

福音書に出てくる多くの出来事が、この論争の対象となるが(例えば、普通の人間らしい飲食*30.)、両陣営の議論がもっぱら集中するのが降誕と磔刑の二点である。使徒信条の言葉を借りるなら「処女マリアから生まれ、ポンティウス・ピラトの下で受難せり」である。

 

十字架上の受難と死は、いずれの派にとっても、ニーチェの言葉を借りるなら、「人間的な、あまりに人間的な」ことの証拠でもあった。ここでは受難は神格にはふさわしくないとみなされた。神格は、両派共通の合意により(表向きの検討はほとんどなく)受難や変容に「適せず」とみなされ、神に関するキリスト教の教義に組み込まれた。*31

 

グノーシス派の指導者の一人バシリデスは、神キリストに受難を強いることに反発し、福音書に出てくる「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせた*32」との記事を根拠に、キレネ人シモンがイエスの代わりに十字架にかけられ、キリストは磔刑の屈辱をまぬがれたとの説を立てている。*33

 

この種の考え方に対するアンティオケの司教イグナティオス(35年頃ー110年頃)の反論についてバージニア・コーウィンはこう述べている。

 

「信ぜぬ者にとっては十字架の教えとキリストの死が『つまずきの石』であり続けたことは別に驚きに値しない。イグナティオスは論敵だった『キリスト仮現論』の論者がこれに反発した理由をも示している。イグナティオスの心の中では、これこそがキリストが真の人間として歴史の場面に登場したことの最終的かつ明白な証拠であった。」*34

 

使徒信条やニケア・コンスタンティノープル信条を含む初期のキリスト教信条の多くが、キリスト受難の朗唱に「ポンティオ・ピラトの下で」の句を取り入れているのも、この論争を少なくとも部分的に考慮に入れてのことと考えられる。

 

これにより、キリストを人間格の存在と定め、受難を神秘的あるいはキリスト仮現論流儀の「昔々のお話」ではなく、ローマ帝国の歴史の中で、地図上の特定の場所で起きた出来事として意識的に確認することができた。*35

 

キリストの人間格、使徒信条(「処女マリアより生まれ」)、そしてキリスト仮現論

 

しかし、ポンティオ・ピラトは、信条で唱えられる登場人物二人のうちの一人で、しかも二番目に過ぎない。第一の登場人物は言うまでもなく処女マリアである。キリストの人間格が依拠するもう一つの決定的な出来事は、使徒信条の言葉を借りるなら、「処女マリアから生まれた」の句であり、これは「ポンティオ・ピラトの下で」の句より、出る頻度がはるかに高い。*36

 

ここにおいても、キリストを全面的に人間とすることから守ろうとするキリスト仮現論(ドケティズム)は、さまざまな説明を案出する。--「降誕時に水が管を通過するように、マリアの体を通過し、通過体に影響を与えることなく、通過体から影響を受けることもなかった*37」とする比喩もその一つ。

 

この比喩とその底流をなす理論に対する反論は、イエスが処女マリアから確かに生まれた事実に他ならない。キリスト教ラテン文学の父祖テルトゥリアヌス(160年頃ー225年頃)は、マルキオン(2世紀の人、初期キリスト教会の異端的神学者)に対する反論の文章でこう述べている。

 

左は使徒ヨハネ。右はシノぺのマルキオン。(Morgan Library所蔵;MS 748

 

「マルキオン説では、キリストは想像上の形だけの幻影であり、その生誕にも人間の身体要素は全く認められないことになる。とんでもない話だと断ぜざるを得ない。キリストは『現実』だった。従って、肉を備えていた。彼は肉を備えていた。従って、彼は生まれた。(中略)キリストは断じて幻影ではない。」*38

 

この内容への賛否は別として、ロジックは明快そのものだ。救いはキリストの生と死における全面的な人間格を前提とし、その人間格は現実に生まれたことを前提とし、生まれたことは疑いもなく人間である母親を持っていることを前提とする。

 

さらにはエイレナイオス他が述べているように、イヴの自発的意思による不従順を元に戻して矯正したのがマリアの自発的意思による従順とするなら、マリアはその自発的意思から発した従順により第二のイヴとなり、さらにはキリストの人間格の主要なる保証人となる。

 

マリアは人間であったと同時に、創造主ロゴスが自らを被創造物人間に合体させた媒体でもあった*39ニュッサの教父グレゴリウス(330年頃ー395年頃)は、第一のアダムと第二のアダムを対比させ、こう述べている。

 

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ニュッサのグレゴリオス

 

「最初、神ロゴスは、土の塵から人を形づくった。しかし、今回は処女マリアの塵から人を形づくっただけでなく、自らのまわりに人を形づくった。」*40

 

アタナシウス(アレクサンドリアの司教、カトリック正統教義の確立者、295年頃ー373年)が対立したアリウス主義は、キリストの全面的神格の否定で知られているが、キリストに関する初期の多くの異説はーー一部学者によれば*41、アリウス主義そのものもーーキリストの全面的な人間格を否定するという過ちを犯していた。

 

後の学者が強調するキリストの「可視で触知可能な人間の肉」に関連して、初期の各種異説は、人間の肉体に避けがたく付随する厭うべき「具体性」からキリストを免除すべくさまざまな弁舌を弄した

 

さらに、人間の肉体より具体的なものはなく、また彼らにとって人を産むプロセスより厭うべきことはなかったため、キリストの人間格をこのプロセスから切り離すことに彼らは特に躍起となった。

 

この議論で必然的に関心の焦点となるのはマリアその人である。グノーシス派の一部は、キリストは「処女マリアからなにも受け継いでいない*42」と主張したに止まらない。(ダマスコのヨハネによれば、ただし、明らかにエイレナイオスの受け売りだが*43)イエスは「管を通過するように」マリアの体を通り抜けたと彼らは言い張った。つまり、「受け身の媒体である母親からはいっさい影響を受けていない」の意味である。

 

中世以前には通常の受胎と分娩のプロセスでも母親は父親が蒔いた「種」を育てる「畑」に過ぎないとの考え方がごく普通だったが、それを考慮してもこれは極端な誇張と断ずるほかはない。*44

 

グノーシス派のこのマリア観に対し初期の正統派の教父たちはこう主張した。「確かにイエスの受胎と降誕は、人間の父親を欠いた超自然の出来事だが、イエスはほかの人間すべてと同様に『真に生み落とされた』*45」。

 

第1章で述べたように、これより以前、「時が満ちて」到来した神の子が正しい人間格を備えていると断定するため使徒パウロは、処女降誕や処女マリアの名は直接出さないにしても、「女から生まれた*46」との表現を用いている。

 

西方教会の学者が東方正教会が見据えたイヴとマリアの対比を引き継ぎ、AveとEvaの回文にヒントを得たことは前述した通りである。第一のイヴは、創世記の言葉を借りるなら「すべて命あるものの母」であり、聖書七十人訳(LXX)はこれを「イヴ」ではなく「アダムは妻を命と名づけた*47」と読んだ。そこで第二のイヴも、自分の神の子を信じることで生きるすべて命あるものの新しい母となった。

 

ー終わりー

*1:日本語に翻訳されているヤロスラフ・ペリカンの主著一覧。

『ルターからキェルケゴールまで』(聖文舎, 1967年)

『ルターの聖書釈義』(聖文舎, 1970年)

『文化史の中のイエス―世紀を通じての彼の位置』(新地書房, 1991年)改題『イエス像の二千年』(講談社[講談社学術文庫], 1998年)

『大学とは何か』(法政大学出版局, 1996年)

『聖母マリア』(青土社, 1998年)

『聖書は誰のものか?―聖書とその解釈の歴史』(教文館, 2006年)

『キリスト教の伝統―教理発展の歴史』(教文館, 2006年-2008年)

1巻「公同的伝統の出現―100-600年」

2巻「東方キリスト教世界の精神―600-1700年」

3巻「中世神学の成長―600-1300年」

4巻「教会と教義の改革―1300-1700年」

5巻「キリスト教教理と近代文化―1700年以降」

*2:Gen.3:5.

*3:Matt.4:2-3.

*4:Rom.5:12,15.

*5:1 Cor.15:45,47.

*6:管理人注:Ειρηναίος(130年頃 - 202年)は、エイレナイオス、それからリヨンのエイレナイオスとも呼ばれ、ラテン語ではイレナエウス(Irenaeus)といい、その奪格形(Irenaeo)の教会式発音に基づいて日本のカトリック教会ではリヨンの聖イレネオや聖イレネオ司教殉教者などと呼ばれています。日本ハリストス正教会ではリオンの聖致命者イリネイと呼んでいます。訳者の関口氏はイレナエウスと訳されておられます。本ブログではこれまで「エイレナイオス」と訳してきた事情があり、一応、統一のためにエイレナイオスと管理人の方で訳させていただきます。あしからずご了承くださいませ。

*7:(原典はギリシア語だが、伝わっているのは大部分がラテン語訳)

*8:Irenaeus, Proof of the Apostolic Preaching 33 (tr.Joseph P. Smith, revised).

*9:In Brown et al., Mary in the New Testament, 257 (italics added).

*10:The Christian Tradition, 1:108-20を参照

*11:Gen.3:20.

*12:本書第6章参照。

*13:Mary Christpher Pecheux, "The Concept of the Second Eve in Pradise Lost," PMLA 75 (1960):359.

*14:John Milton, Paradise Lost V. 385-87.

*15:Milton, Paradise Lost XII. 379-46.

*16:たとえば、3世紀のギリシアの哲学者ポルフュリオスはこれを車輪の比喩で表現している

*17:Charles Norris Cochrane, Christianity and Classical Culture (Oxford: Clarendon Press, 1944), 483-84, アウグスティヌスの『神の国』第12書からの引用。

*18:Irenaeus, Proof of the Apostolic Preaching 33 (ET Joseph P. Smith, revidsed).

*19:1 Cor.15:45, 47.

*20:Ginzberg, Legends of the Bible, xxi.

*21:H.R. Smid, Proteuangelium Jacobi: A Commentary (Assen: Van Gorcum, 1975), is useful and balanced.

*22:Brown et al., Mary in the New Testament, 248-49.

*23:Proteuangel of James 19: 3-20, 17:20, 9:2.

*24:Irenaeus, Against Heresies I. vii.2, III.xi.3.

*25:Gregor Martin Lechner, Maria Gravida: Zum Schwangerschftmotiv in der bildenden Kunst (Munich: Schnell und Steiner, 1981.

*26:Adolf von Harnack, [Grundrisz der] Dogmengeschicht, 4th ed. (Tubingen: J.C. B. Mohr [Paul Siebeck], 1905), 192.

*27:第4章参照。

*28:Matt.4:3,6.

*29:地上のキリストは天上の霊的実在者としてのキリストの幻影であるとする説

*30:Ignatius, Epistle to the Trallians 9.

*31:Jaroslav Pelican, Christianity and Classical Cuture: The Metamorphosis of Natural Theology in the Christian Encounter with Hellenism (New Haven and London: Yale University Press, 1993), 328.

*32:Luke 23:26.

*33:Irenaeus, Against Heresies I. xxiv.4.

*34:Virginia Corwin, St. Ignatius and Christianity in Antioch (New Haven: Yale University Press, 1960), 170.

*35:Schaff, 1:53.に掲載されている図参照。

*36:Schaff.1:53.

*37:ap.Irenaeus, Against Heresies I.vii.2.

*38:Tertullian, Against Marcion III.xi.

*39:Richard Crashaw, "The Shepherds' Hymn," in The New Oxford Book of English Verse, 1250-1950, ed. Helen Gardner (Oxford: Oxford University Press, 1972), 314.

*40:Gregory of Nyssa, Against Eunomius IV. 3 (PG 45:637).

*41:See the discussion of these views in William P. Haugaard, "Arius: Twice a Heretic? Arius and the Human Soul of Christ," Church History 29 (1960): 251-63.

*42:Irenaeus, Against Heresies III. xxxi.1.からの引用。

*43:John of Damascus, On Heresies 31 (PG 94: 697).

*44:Peter Robert Lamont Brown, The Body and Society: Men, Women, and Sexual Renunciation in Early Christianity (New York: Columbia University Press, 1988), 111-14.

*45:Ignatius, Epistle to the Trallians ix.1.

*46:Gal 4:4; 第1章参照。

*47:Gen 3:20 (LXX).管理人注:LXX原文:καὶ ἐκάλεσεν Αδαμ τὸ ὄνομα τῆς γυναικὸς αὐτοῦ Ζωή ὅτι αὕτη μήτηρ πάντων τῶν ζώντων.