巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ハインリッヒ・スソーの信仰詩集

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目次

 

第一部 神を求めて:欣求(ごんぐ)

 

イザヤ41:17

悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。

 

おお、いとやさしく慈愛に満ちた主よ、

わが心はあてどもなく彷徨い、独りきりです。

憔悴し、渇いています。

未だ知らぬ喜びを求め、渇いているのです。

 

幼い時から私はそれを探していました。

荒れ野を、原野を、丘陵を駆け抜け、ひたすら追い求めていたのです。

 

しかしけっしてそれに到達することはなく、見ることもありませんでした。

それでも私は探求をやめることができませんでした。

 

古の日々、私は美しく華麗なものの中に

それを見い出そうとしていました。

 

しかし、求めれば求めるほど、渇望すればするほど、

おおわが神よ、あなたはますます遠ざかっていきました。

 

端辺まで近づき、今や捕えんとした瞬間、

それは、はかない幻のように逃げていきました。

 

主よ、その実体が一体なんであるのか、私は決して知ることができませんでした。

それが何であり得ないのかということだけは、知りすぎるほど知っていたのに。

 

「それはわたしである。永遠なるわたしである。

お前を、わが子として選んだ者。

創造のはじめよりお前を選んでいた者。

永遠よりお前を選んでいた者。

 

お前が旅をはじめる前にすでにわたしはその道に立っていた。

 ーーこれからお前が進もうとしていた道の先々に。

なぜなら、民がただわたしだけに属する者とされること、

それが、わが選びし者の標(しるし)であるからだ。」

 

Heinrich Suso(1295-1366), The Chase(私訳)

 

 

第二部 神との出会い

 

申命記32:10

主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

 

今、私は汝を見、汝を見い出しました。

なぜなら、汝がこの羊を探し求めてくださったからです。

 

私は逃げ出したのです。

しかし、汝の愛はそのような私を追い続けました。

 

いろいろな所を彷徨い、道に迷いました。

しかし汝の恵みは尚も、そのような私を保ちつづけました。

 

汝だけがわが心の願いを満たしてくださるお方です。

ああ幸いなるかな、

汝のうちに憩うまでは、どんな安らぎも甘美さも味わわぬ魂は!

 

おお主よ、汝はすべてを見ておられ、すべてをご存知です。

わが内にあるこの喜び、愛、そして悲しみを打ち明けることができるのは、汝をおいて他に誰もいないということを。

  

汝のお心と、わが心の間には一つの言語(ことば)が有り、

それが互の間を行き交っています。

 

茫漠として、言葉なく、孤独なこの世にあって、

私にとっては、汝の心だけがすべてなのです。

 

主よ、わが愛はひたすら汝に注がれています。

ですからどうか、汝のお心をこの者に顕してください。

 

「愛しい者、わが栄光を知りたいと望むのか?

『わたしは有る』という至高なる存在者であるわたしを知りたいと望むのか?

 

それならば、お前の目をまっすぐにわたしに向けるがよい。

屠られ、鞭打たれた小羊を。

わたしの顔だちは誰よりも損なわれ、

姿かたちも、他のどんな人の子以上に崩され、傷を負った。

にもかかわらず、わたしのものとされた魂にとって、

わたしは人の子らにまさって麗しい。

 

お前は、太陽をその栄光により知っており、

バラを、その息吹により知っており、

火をその赤熱の光によって知っており、

そして、わが愛を、死によって知っている。

 

創造のわざの中で、

わが栄光の光線がどこで出会うのか、

恐るべきわが義と平和がどこで甘美な口づけをするのか、

永遠なる神の計画の知恵と奥義がどこで輝き出でるのか、

それを知りたいと望むのか?

 

それなら、十字架の不名誉の極みの中で、

呪われ、死にゆく人(Man)を見なさい。」

 

Heinrich Suso, The Finding(私訳)

 

主イエスのたどった小道を慕い求めて

 

ピリピ3:10-11

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者からの復活に達したいのです。

 

私のために死なれた

主のたどりしあの行程ーー、

死にゆくあの道すじを、

わが肉体に刻み込みたいと思います。

 

おおわが主よ、

汝と共に座するかの日まで

汝の受けし拒絶を共に負う者とさせてください。

 

心傷つき、たった独り たたずんでおられる汝。

慰めてくれる人をお探しになりましたが、誰ひとりとして

見いだすことができませんでした。

 

にもかかわらず、汝の心は、天国の喜び、

愛と栄光です。 

 

苦みを混ぜたぶどう酒だけが

苦しみに満ちた汝の渇きを鎮めました。

しかし汝は、永遠の丘陵より流れ出る河、

そして泉そのものであられます。

 

悲しみ、欠乏に苦しみ、辱めを受けるとき、

汝のたどりし足跡は、私にとってなんと慕わしいことでしょう。

 

渇いた者にとって、泉の水は甘く芳しいものです。

しかし、汝と共に渇きを覚えることには、

それにまさる甘美さがあります。

 

こうして、汝を拒絶するこの世に対し、

上にいる御使いたちに対し、証しをします。

汝の愛を味わう者にとり、

汝のくびきと重荷の なんと祝福されたものであるかを。

 

バラの花を集めている娘は、

次から次に それらを見い出だそうとするでしょう。

汝の後を慕い、つき従っている人にとって、

汝の悲しみの小道は、いとも麗しいものです。

 

ですから私は栄光へのこの道をひた走ります。

神の軍隊の騎士として。

 

行く手に立ちはだかる数々の敵ゆえ、

この行軍は、けっして後退することなく、

ひたすら前につき進んでいかねばなりません。

 

上を見上げると、天に星が輝いています。

数えきれないほどの星々。

なんと無数にちりばめられていることでしょう。

 

しかり。汝ゆえの苦しみ、悲しみはいかに多くとも、

その栄光は、まことに限りないものなのです。

 

  

Heinrich Suso, The Marks of the Lord Jesus(私訳)

 

敷物(The Mat)

 

イザヤ50:6 

打つ者に私の背中をまかせ、

ひげを抜く者に私の頬をまかせ、

侮辱されても、つばきをかけられても、

私の顔を隠さなかった。

 

ある冬の朝、

房の中に、ヘンリー神父がひとり腰かけていた。

ぐったりと 悲しみに沈みつつ。

 

「おお わが神よ。私はもう疲れて動けません。」

心の中で彼は語りかけた。

 

「わが兄弟たちが、私を嘲笑い、憎んでいるのです。

ああ、たった一人でもいい、

私をいとおしんでくれる人がいたなら、、

その人の小さな一言だけでも、わが暗い日々は

明るく照らし出されていたことでしょう。」

 

「でも彼らは私をあざけり、侮辱するのです。

そうすると、もはや自分の心を抑えきれなくなり、

自分の舌を制することもできず、

荒々しい言葉を返してしまいます。」

 

すると主が言われた。

「私はお前と共にいる。わたしに信頼しなさい。

汝の小さな窓を開け、そこから見えるものに目を留めなさい。」

 

哀しげな目で、ヘンリー神父は、外をのぞいてみた。

 

薄暗い中庭、

そして吹きすさぶ風。

 

「天使につきそわれ、旧友でも来るのだろうか?」

彼はひとりごちた。

 

いや、それは違った!

一匹の獰猛な猟犬が、

中庭に疾走してきたのだ。

 

ーーー

 

そこには 忘れ去られていたかのように

一枚の古びた敷物があった。

 

猟犬は走りざま その敷物をつかむと

それを引き裂き、激しく揺すり、

鉛色の中庭中を

荒々しく引きずり回った。

  

「見なさい。猟犬はお前の兄弟たちのごとくある。」

 なじみのある御声が 彼に語りかけた。

 

「愛する者よ、もしお前が敷物なら、

 お前はどうするだろうか?」

 

しずかにヘンリー神父は立ち上がり、外に出ていった。

そして敷物を抱え上げると、

それを自分の小さな房に運び入れた。

ーーあたかもそれが稀有な宝石でもあるかのように。

 

それから歳月が経った。

多くの冬が去り、夏が過ぎていった。

 

ほの暗い房の中で

しかし、彼はそれ以後、喜びのうちに歩んでいた。

そして主は彼と共にいた。

 

刺すような言葉が 彼を貫く時、

彼は自分の房に戻り、

敷物を取り上げ、そして言った。

 

「そう、これでいいのだ。

もっとも小さく、もっとも卑しい者は

ひくく横たわっている必要があるのだから。

おお主よ、汝に感謝し、汝を讃えます。

私が敷物であるゆえに。

 

冷たく人の足に踏みならされた道ばたで

それはじっと動かず平らに伏している。

人がその上を踏みにじろうとも

声を荒げず、ただじっと伏している。

なぜなら、

それは敷物だから。」

 

ややあって、彼は泣き始めた。

 

なぜなら、静けさの中で

彼の愛する主が彼に語りかけられたからだ。

 

「そのように、わたしは、もっとも小さくもっとも卑しくあった。

 喜びのうちに。

そして お前のために。」

 

「見なさい。辱しめられ、つばきをかけられたわたしの顔を。

 わたしはお前に刃向かっただろうか。

お前がもっとも小さく、卑しい者とされるとき、

その時、

わたしのことを覚えなさい。」

 

Heinrich Suso,The Mat(私訳)

 

主人の御手

 

ピリピ1:21

わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

 

「わたしにとって、生きることはキリスト」。

 

それなのに、わが日々は、ただ労苦の連続。

朝起き、骨折りつつ道を歩き、そして再び床に横たわる。

 

こんな卑しく、わびしい生活がいかにして

キリストのみ、でありえよう?

日常の必要、倦怠、争い、、

こうして平凡な日々が流れてゆくというのに?

 

その時、私は見た。

われらの主人の前に、ぶざまな一つの石が置いてあるのを。

 

「未だ誰も見たことはないが、この内側に美のかたちが在る。」

 

主は言われた。

「外側にあるものがすべて削り取られた時、栄光あるそのかたちが顕れ、汚れなき地の永遠の日の中に立つ。」

 

この地味な生活と共に現存し、

そこにキリストが宿っている。

人目には隠されたところに。

 

それでも、それだけを一途に求める単一な目には

永遠に見いだされるところのもの。

 

自我がもはや見えなくなるまで荒削りされたとき、

汝の十字架は、自我を終わらせ、

こうしてあらゆる堕落からわれらは解放される。

得るものは何もなく、ただ祝福された喪失だけがそこに在る。

 

その時、キリストだけが残られる。

以前のものは過ぎ去り、永久に消え去った。

 

こうして主に向かい、歓喜の魂は歌う!

重ぐるしいこの地上での日々のあいだ、ずっと。

 

Heinrich Suso, The Master's Hand(私訳)

 

私は何者でもない

 

ヨハネ1:21a

そこで、彼らは問うた。

「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。

 彼は、「いや、そうではない(I am not)」と言った。

 

「私はそうではない(I am not)」

おお、人の唇には受け入れがたい言葉――

 

「私は何者でもない(I am not)」

おお、私たちを再び神の元に導く言葉!

そして、かの麗しき隠れ家に至る小道を知る言葉。

 

嵐を避ける避難所、

そして暑さから身を守る木陰。

 

天のことば。

世の賢人には隠され、

子どもたちに明かされる言葉。

 

偉大なる教訓を含んだ

何者でもないという一言。

 

人間の心。

汝の母語は他にあるのだ。

そしてこれは何千という人種によって話され、

互いにみな、似通っている。

 

「私こそ一角の者である(I am)」

 我こそ富んでいて、賢く、敬虔な者ーー

 それこそが自分なのだと。

 

そうして、我こそ一角の者であろうと、

人は生き、労苦している。

 

我こそ一角の者であらんと、

人は死に、

挑み、四苦八苦し、

すべてを犠牲にしてでもそれを得ようと

血眼になっている。

 

ああ、数々の骨折り、疲労、束縛、

罪、悲嘆、そして痛みよ。

 

祝されし福音書には、

富んだ一人の男が主イエスと弟子たちを宴会に招いたことが記されている。

 

「この預言者をもてなそうではないか。」

 そのように富者は思った。

 

しかしありあまる財産に囲まれつつも、

この者には、我何者にもあらずという心が欠如していた。

 

そこに涙で泣きはらした

一人の罪深い女がやって来た。

 

「わたくしは何者でもありません(I am not)」

彼女の心はそう言いつつ、主をひたすら見つめていた。

 

傷つき、ぼろぼろに損なわれつつも、

御使いたちにまさる座におかれ、

太陽よりも明るく輝く彼女の心を、主はご覧になっていた。

 

私は何者でもない。

このお方の前にちりに伏し、

彼女の心は敬拝の喜びに満ちた歌を歌いつつ言った。

「そうです、汝こそがとこしえまでに全てのすべてです」と。

 

なぜなら主の御心は、ご自身のさまよえる 

この小さな羊の心に語りかけ、

永遠の愛のうちに、こう仰せられたからだ。

「『わたしはある』という者である」と。

 

もはや永久に彼女は渇くことがない。

彼女に必要なすべては与えられているからだ。

 

主ご自身以外に、

この地上に彼女はだれをも持っていない。

天におられるこの方以外に、

だれをも持っていない。

 

おお天的な報酬は、

永遠の相続地は、なんと麗しいことだろう。

願わしくば私が、

キリスト、このお方のためだけに、

永遠に、

とこしえに何者でもなき者であらんことを!

 

 

Heinrich Suso, I Am Not(私訳)