巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

父と娘

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目次

 

日本のお父さんたちは「ぬりかべ」?!

 

私はこれまで生きてきて、日本人女性の中で、「私、お父さんと一緒にいることが楽しい」と言っている人に出会ったことがありません。ええ、ただの一人も!

 

また、お父さんがそこまで嫌いというわけじゃない人であっても、お父さんと共に時間を過ごすことが「楽しい」「とにかく一緒にいたい!」と積極的に感じている人は余り多くないのではないかと思います。

 

幼い時から、お父さんというのは私たちの世界の〈内側〉というよりは、どちらかというとーーゲゲゲの鬼太郎の「ぬりかべ」のようにーー〈縁〉か〈外〉にのっそり立っている、そんなイメージがありませんか?

 

著名なフェミニスト神学者であり、秘儀的な宗教団体である「女性教会」(Women Church)の創始者であるローズマリー・R・ルーサーは、自分にとって父親とは初めから存在感のない「影のような人間」だったといい、次のように回想しています。

 

「(子ども時代の女性コミュニティーに)時たま、男性たちが戦地から戻ってきたりすると、女性たちは静かにしおらしくなりました。そしてそういった男性たちに対し、一定のおごそかな敬意が示されました。しかし、日常生活においては、彼ら男性などいなくても、私たちはしっかりやっていくことができていました。」*1

 

同信の姉妹たちとの交わりを通し、主はここ数年、私の人生にさまざまな気づきや反省、そして祝福を与えてくださっています。特に父親との関係という点で、私は彼女たちの生き方や信仰、そして知恵から本当に多くの示唆や恩恵を受けています。

 

私たちはそれぞれ皆、異なった家庭環境の中で育ち、その中で一人一人が「娘であること」の意味を問い、模索しながら、父親との関係が豊かになるよう祈り求めていると思います。

 

私やその他の姉妹たちが体験しているのは、「父親との関係の回復や深まりはどの地点からでも可能だ」ということです。現在、私たちの父親がどんな宗教や信念を持ち、どのような生き方をしていようとも、神の主権の中で、私たちは、「娘である」という存在の意義を主の内に見い出し、そこに憩いつつ、そこから進んでいくことができるように思います。

 

私たち娘が完璧でないように、私たちの父親の内にもまた〈壊れた父親像〉があるのかもしれません。しかしキリストの血によって贖われた民の内から流れ出る「生ける水の川」(ヨハネ7:38)が、今この瞬間も、深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださっていることを思う時(ローマ8:26)、そのとりなしは、娘と父親との関係にも及んでいるのだということに気づかされます。

 

私の父親は、ーー「Hi, sweety!」と娘をハグする西洋のパパ像からは100万キロほど離れたところに位置するーー、伝統的で無口でシャイな九州男児です。海外に行き始めた頃は、愛情表現の豊かな外国のお父さんたちの姿を見て、「いいなあ。すごいなあ。」と羨ましく思っていました。

 

でも、聖書的女性像を追及している道のりの中で、まず私自身の中に大きな内的変化が現れ、価値観・世界観の変化が起されました。そうすると不思議なことに「伝統的で無口でシャイな九州男児」の〈こころの言語〉がなんとなく感覚的に分かってくるようになってきました。

 

物理化学者であり哲学者であるマイケル・ポランニーが「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる、、、言葉にすることのできない認識が存在する」と言っていますが、確かに人と人とのコミュニケーションや理解にはverbalなやりとりの次元を超えた深遠さがあると思います。

 

それで、父が、ぼそっとなにかを言ったり、あるいはもぞもぞ何も言わないでいる時などでも、〈あ、お父さん、今、疲れて家に帰りたいんだな。〉とか〈今、ちょっと緊張していて、一人で部屋でゆっくり音楽を聴きたいと思っているんだな。〉とか、〈照れくさがってもじもじしているけど本当は嬉しくてたまらないんだな。〉とか、父の発しているメッセージを敏感にキャッチすることができるようになっていきました。

 

そうすると、次第にこころとこころの会話が生まれてきます。それは二、三のverbalな言葉の交わし合いであるかもしれないし、あるいは、ただそこに一緒にいるという共感空間であるのかもしれません。いずれにしても、そこに我と汝の関係があり、父と娘の目に見えない交わり、そして相互に対する語りかけと呼応があります。

 

ーーーー

三年前に「父と娘シリーズ」と題して三つの記事を書き翻訳しました。父親との関係の回復や深まりを祈り求めているすべての同胞姉妹のみなさんに、そして娘さんを持っていらっしゃる父親のみなさんに以下の記事をプレゼントしようと思います。

 

父親を求め、父親の力強い愛を求めて彷徨う日本の女性たち

(2015年11月執筆)

 

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「ある晩、ローラととうさんは、戸口にすわっていました。月は暗い大草原を照らし、風はしずまり、とうさんのヴァイオリンがひくく鳴っていました。とうさんは、さいごの音を長くのばしたまま、月の光にとけこむまでふるわせつづけていました。何もかもとても美しく、ローラはいつまでもこのままでいたいと思いました。けれど、とうさんは、小さい女の子はもう寝る時間だといいます。」

 大草原の小さな家インガルス一家の物語2より抜粋

 

1932年に出版されて以来、ローラ・インガルス・ワイルダー女史のこの『大草原の小さな家シリーズ』は世界中で読み継がれてきました。私は大人になってからこの本を読みましたが、少女ローラの目を通して語られる、力強くやさしいお父さんの姿に強く心が引き付けられました。いつもローラの心の近くにいて、ローラを助け守ってくれるお父さん。

 

多くの日本の女性たちが父親を求め、父親の愛を求め、彷徨っています。また父親も、娘とどう接していいのか分からず、疎外感に苦しんでいます。

 

私たちの多くは、ーー少女ローラがそうしてもらったようにーー父親に抱いてもらったり、愛情表現をしてもらった記憶がありません。お父さんに悩みを聞いてもらった経験がありません。お父さんに導いてもらった経験もありません。お父さんは私たちの世界の〈外〉にいる存在でした。

 

私は二十歳の時、南インドのクリスチャン家庭に何週間かホームステイしました。当時ノンクリスチャンだった私にとって、愛と清さに溢れたこの家族そのものが驚きでしたが、中でも印象的だったのが、その家のお父さんと娘さんの仲睦まじさでした。生活の隅々から、この親子が強い愛と信頼のきずなで結ばれていることが感じられました。

 

この若い娘さんは、将来の結婚相手についても、「God-fearing man(神を畏れる男性)が与えられますように」と、その導きを敬虔な父親に委ねていました。

 

「この人(=アブラハムのしもべ)といっしょに行くか。」と尋ねた家族に対し、「はい。まいります。」(創24:58)と即答した娘リベカを髣髴させるような信仰の世界がそこにはありました。

 

聖書的女性像が私たちの内で回復されていく過程で、私たちの多くは「父親」の壁にぶつかります。私たちの中の〈小さなローラ〉が父親を求めて呻き叫ぶのです。私は自分の人生に起こった具体的な出来事を通し、キリストのみからだの内にあって、そういった声にならない呻きが神に聞き入れられ、求めていたまさにその部分に癒しの川がどっと流れ込む経験をしました。

 

コロサイ人への手紙には「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(2:3)とありますが、実にキリストのうちに、宝という宝はすべて隠されており、この方のうちにあって、私たちの中の砂漠は(その砂漠がどんなにわびしく荒涼としていても)潤された園へと変えられていきます。

 

次につづく記事では、父親との関係の回復という点で私に感化を与えてくれているアメリカ・ミシシッピ州の高校生ケイガン(17)にお父さんとの事を訊いてみようと思います。

 

「あなたにとってお父さんとはどんな人ですか?」(高校生ケイガンさんへのインタビュー、2015年)

 

彼女と文通したり電話で話したりする中で気づいたのが、ケイガンにとっての父親の存在の大きさでした。

 

「お父さんが今日、~って言った。」「お父さんと一緒に出かけて、、」「お父さんが朝のデボーションの時に、、」等、彼女の会話や文章には、とにかく「お父さん」がよく登場してくるのです。

 

「アメリカの若い世代では実にたぐい稀な彼女の恭順さ・慎み深さの『鍵』は、もしかしたら父親とのこの健全で親密な関係にあるのかもしれない」と私は考えるようになりました。

 

以下は、私がケイガンにしたいくつかの質問と、それに対する彼女の答えです。

 

1.ケイガン、あなたにとってお父さんとはどんな人ですか。

 

父は、私を守り、養ってくれる人です。また私をかくまってくれる避難所であり、私の相談相手、先生、キリストにある兄弟、そして私の友です。父は頼りがいがあり、信頼できて、誠実な人です。そして、よく私を笑わせます。聖書の言葉も教えてくれ、私を正しい方向に導いてくれます。また私を危険から守ってくれます。お父さんと一緒にいると安心します。

 

もちろん私の父も完璧ではありません。でも聖書の中に書いてある父親像に倣おうと一生懸命生きてます。私は父のそういう姿が好きです。

 

でも私たちの関係は最初から良かったわけじゃないんです。かつての私たちは、同じ家に住んで、同じ物を観て、同じジョークに笑ったり、聖書を読んだりしていても、心はてんでバラバラでした。家庭内のいろいろな傷や衝突やそういう難しい問題がありました。だから回復はしんどい作業でした。

 

でもそういう問題を乗り越えてきたからこそ、今じゃ、私たち、一日も離れることができないくらい親密です。何も話さなくても、私たちは何時間も一つの空間で過ごすことができます。互いの顔の表情だけで意思疎通ができる位です。

 

私と父は、ただ一緒にいたいというそれだけの理由でいろんな事を一緒にやります。でも、プライドや自己中心が忍び込んでくる時、言い合いをしてしまうこともあります。でもその都度、関係を修復しようってお互いに歩み寄ります。一番幸せな関係って、ただ単に一緒に住むのではなく、もっともっとお互いに愛し合っていくことを学ぶことのできる、そんな関係だと思います。

 

2.お父さんとどんな風に過ごしていますか。何をして一緒に過ごしていますか。

 

私たちはほとんど何でも一緒にしています。一緒に食べ、サイクリングやジョギング、散歩に出かけます。一緒に映画を観たり、本を読んだり、歌ったりします。一緒に外にお出かけしたり、買い物したりもします。それから料理も一緒に作ります。掃除もします。遊びにも行きます。

 

時には何もせず、ただ部屋の中に静かに座っていることもあります。そんな時、ただお互いがそこにいるっていうことに安心感を覚えます。お父さんなしでは、私、どうしていいのか分からない位です!かつての傷ついた関係を主が癒してくださいました。

 

3.どんな時、お父さんに愛されてるって感じますか?

 

父が私を抱きしめてくれる時です。私がおびえている時、父は私をがっしりと腕の中に抱き入れてくれます。そんな時、すごく安心します。守られているって感じます。それから、父が自分のニーズ以上に私の事に気を配って何かをしてくれる時、「愛されてる」って感じます。

 

例えば、私も父もすごく疲れている時、父は自分の疲労以上に私のことを想って、私のために何かをしてくれます。愛の一部は、こういう無私にあると思います。そして父はよくこれを私に示してくれるんです。それを通して、私は父の愛が単なる愛着以上のものであることを知ります。これが真の愛だと思います。

 

父が自分のことを差し置いて、本当に心から私のことをケアしてくれるのが分かるからです。私がイライラしている時も父はそんな私に対処しようとしてくれます。そしてよく「愛してるよ」って言ってくれます。父が私を大切にしてくれるので、父が言葉通り、私を愛してくれているのが分かります。これこそが愛の意味するところじゃないかと思います。

 

4.最後に、日本のお父さんや娘たちに何か励ましのメッセージがあったらどうぞ。

 

お父さま方、どうか娘さんを愛してあげてください。私たち娘の感情はたしかに浮き沈みが激しい、、それは分かってます。娘さんのことが全く理解できない時もあるかもしれません。でもどうか娘さんに、彼女が大切だってことを示してあげてください。

 

彼女が今何に興味を持っているのか知ってあげてください。彼女の人生の中に誰か大切な人(学校の友達など、、)がいるとしたら、その大切な人のことも、よりよく知ってあげるようにしてください。つまり、娘さんにとって大切なことが、お父さんにとっても大切なことになるようにしてあげてください。ありがとうございます。

 

私と同年代の娘さん。お父さんに欠点があるとしても、それでもやっぱり、お父さんに素直に従ってください。もちろん、それって難しいですよね。私たちの中でどんどん自立心が芽生えてきて、親にもいろいろ意見を言いたくなります。でも愛は沈黙します。知恵を求めてください。やわらかさや思慮深さを求めてください。

 

お父さんがリードできるよう配慮してあげてください。そしてお父さんを応援してあげてください。何かお父さんのためにしてみてください。お父さんがしょんぼりしている時、あなたがお父さんの事を想っているっていうことを、お父さんに分かる形で示してください。

 

お父さんだってスーパーマンじゃないんです。だからお父さんたちも、時には私たちの励ましを必要としていると思います。そしてお父さんのことを信頼してみてください。父が何か自分にアドバイスした時、(初めのうちは、その助言が全然好きになれませんでした)、でも従った結果、今振り返ってみると、そのほとんどは私の助けになるものでした。

 

文句を言わずに従うっていうのは本当に難しいです!これはゆっくり学んでいかなければならないものだと思います。でもそこにはすばらしい報いがあります。1ペテロ3:1-7、1テモテ2:9-15、箴言11:16、21:9、19、31:10-31、1コリント14:34-38、エペソ5:22-24、コロサイ3:18、テトス2:3-5などをぜひ暗記してください。

 

こういった御言葉は、戦いの時、あなたの剣になると思います。姉妹のみなさん、どうかあきらめないでください。欠点だらけでも、それでもお父さんを愛してあげてください。そしてお父さんがこうしてほしいって言うことに素直に従ってください。それが「恭順(きょうじゅん)」なのです。読んでくださってありがとうございました。

 

たとえ実の父親に捨てられてもーーシングルマザーの家庭で育ったアンナさんの証し

 

以下は私の友人アンナさんのエッセーです。

 

Mrs.Anna, Musing and memories of an 'unwanted' child.(拙訳)

 

「ママ。どうしてわたしパパのことを知らないの?パパはどこにいる?パパはわたしたちといっしょにくらすようになるの?ねえ、パパのしゃしんをみせて。」

 

かなしい事実

 

父についての衝撃的な真実を知ったのは、私がまだ15歳の時でした。父は一度も私たちを援助したことがなく、母が胎に小さな命(=私)を宿し始めたことを知るやいなや、私たちの人生から消え去ってしまった人でした。いえ、正確にいうと、彼は去る前に、ある事をしました。――母に中絶を迫ったのです。

 

母からその事実を聞かされた時の私の衝撃は、とても言葉で言い表すことのできないものでした。

 

怒り、苦々しさ、不安定感、「私は望まれていない」という感情。それと同時に、母に対する深い、深い感謝の気持ち、彼女の勇敢な心に対する感嘆の思いが湧いてきました。

 

母は私を生かすことを選んでくれたのです!そうです、あのような渦中にありながらも、彼女はこの小さい命をあきらめたくなかったのです。悪しき操作に泣き寝入りすることを拒んだのです。

 

なぜ?

 

この事実は、その後長く私から離れませんでした。なぜ彼は私を望まなかったの?彼は私を憎んでいたのかしら。だから、その子が新鮮な空気を吸う事すらできないまま、その前に、私を葬り去ってしまいたかったのでしょうか。

 

そして父は、私が生きているのか死んでいるのか、、それを確認すべく探し尋ねても来ませんでした。ただの一度も。彼にとって私はそんなにまで「どうでもいい」存在だったのでしょうか。

 

ティーンとなっていた私が荒れ始めたのはその頃からでした。(でも私は荒れた自分の行為を正当化している訳じゃないんです。ただ事実をお話しているだけです。)自分の父から「守ってあげたい」と思われていない女の子。そう思う事自体が、私にとって拷問でした。

 

解放

 

それから長い、長い期間を経て、数々の試練や痛み、そして神を求め祈る過程を経た末に、私はついにこの苦々しさ、怒りを差し出し、自分の父を赦すことができました。今でも時々、父が今日の成人した私を見たらどう思うだろうと考えることがあります。

 

成長した娘ーー。神を探求する旅路にある娘。さまざまな夢や思い、疑いや切望感のうちに今や結婚に臨もうとしている娘。妻になり、母になり、主婦になりたいと夢見ている娘。こういった旅路を私と共に歩むことのできなかったことを知り、彼は残念に思ってくれるかしら。あの当時の自己中心的で短絡的だった自分のことを悔いてくれるかしら。

 

もしも過去をやり直せたらって彼は思ってくれるかしら。彼のちっちゃな娘を腕に抱き、手をつなぎながら外をそぞり歩き、一緒に話したり、遊んだり、笑ったりしたかったなって。

 

少女から女性へと花開いていく娘を見守り、守ってあげたかったって。そして神のお定めになった時に、わが娘を花嫁としてふさわしい男性に与える、誉れあるかの日を見たかったって。

 

神さまに望まれて私は生まれてきた

 

もう一つ私が乗り越えなければならなかったのは、「望まれていない」子としての、劣等感でした。父親から拒絶されたっていう事実は、つまり私にはそれだけの価値がなかったっていうことですもの。

 

でも、でも私は次の事実をくりかえし、くりかえし心に刻みつける努力をしました。つまり、私は愛されている子であり、神のご計画の中で生まれてきた子であることを。そして私は望まれて生まれてきた子。他のすべての子どもと同様、私も、神さまの子どもであり、そして、もしかしたら、、もしかしたら、私を守ってくれる地上の父親がいない分、むしろ他の子以上に、もっと神を求め、神に近づく歩みをしてきたかもしれないと。

 

「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」 詩篇27:10

 

ー終わりー

*1:Rosemary R Ruether, Disputed Questions: On Being a Christian, 1989, p.112