巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ男性たちは教会に来たがらないのだろうか?(by ロッド・ドレハー)

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出典

 

男性たちが教会に来たがらないーー。これは新しい問題ではありません。しかしバンクーバー・サン誌は、主日朝の礼拝の場から以前に増し男性たちが姿を消しつつある昨今の現象を見い出し、次のように報道しています*1

 

 「ナンシー・タルボット牧師は、自分が女性牧師の中ではまだ祝福された方の一人であると感じています。北バンクーバー在住のこの牧会者が主日朝、会衆席を眺める時、彼女は自分の小さな群れが少しずつではあるけれど成長しており、少なくとも10人中3人位の割合で男性が礼拝に集っていることにせめてもの幸いを感じています。

 

 というのも、男女比のアンバランスはこれよりもさらにひどくもなり得たからです。マウント・セイムール合同教会のこの牧師は、ここ最近、男性たちが静かに、しかし群れをなし、北米のキリスト諸教会から姿を消しつつある現実を痛ましい思いでみています。

 

 『なぜこのような現象が起こっているのかーーその理由に関し回答することのできる人は少ないと思います。』とタルボット師は言います。彼女は8年間、マウント・セイムール合同教会を牧会しながら、同性パートナーであるブレンダさんと共に二人の男の子を育てています。」

  

男性たちは、女性パートナーと共に二人の子を育てているレズビアン牧師の霊的権威の下に身を置くことを望んでいない、、のでしょうか。しかしもちろん、話はここで終わりません。実際、男性たちはーー表面上は一応、「保守的な教会」とされている諸教会(例:ローマ・カトリック教会)などからも姿を消しつつあります。

 

但し、これもまた新しい現象ではありません。レオン・ポドレスは1999年に本を出版し、「なぜ西洋諸国においては、男性たちよりも女性たちの方がより多く教会に行くのか?」に関する人々の問いに答えようとしています。(現在この本はPDFで読むことができます。)ポドレスは次のように述べています。

 

「戦争に関し、男性たちは(文字通りにも比喩的にも)極度の熱心さをもってきました。戦争ーー、本や文学の中での代行的戦争体験、そしてリアルな戦争体験に置き換わるような危険なスポーツや趣味などが、現代世界に生きる大部分の男性たちの人生の感情的、そして霊的支柱を提供しています。

 

 〈マスキュリニティー〉というイデオロギーが、今や男性の信仰すべき真の宗教として、キリスト教に取って代わりつつあります。私たちは『女性の宗教』と『男性の宗教』という二つの宗教が存在する社会に生きています。ーーさまざまな形態のキリスト教は女性たち、および男らしさに欠けた男たちのための宗教であり、〈マスキュリニティー〉はーー特に競争や、戦争にクライマックスをみる暴力という形においてーー男性たちのための宗教であると。」

 

しかし繰り返しますが、こういった事は1960年代の西洋において初めて発生した現象ではありません。ポドレスは「これはすでに永らくスタンダードとなっており」、教会に、より惹かれやすい男性たちは一般にいわゆる‟ソフト”な男性たちーーホモセクシャルな男性たちだけでなく、標準的な男らしい様で行動しない男性たちーーである傾向があります。なぜ  ‟男っぷりのいい男性たち” は一般に教会には寄り付かないのでしょうか。

 

自分の子ども時代を思い出しますと、私の父はめったに教会に足を運ぼうとしていませんでした。しかしそうだからといって父は神の存在を疑ったりはしていませんでした。当時、子供だった自分がどうしてそう感じたのかは正直よく分かりませんがーー、着たくないネクタイをつけ、柔和な倫理的高揚の一時間に蒸されつつ、会衆席に座っている父の姿が、なんとはなしに飼いならされみずぼらしい感じに映っていました。

 

しかしここに一つ興味深い事実があります。1999年に出版されたポドレスの著書の中でも、またバンクーバー・サン誌のレポーターも、カナダ国内の現代教会の統計結果をみた上で、「正教会だけは男性減少化の問題を抱えていない」と指摘しています。

 

私自身も初めて正教会の典礼に参加した際、まず驚いたのが礼拝に集っている男性の数の多さでした。(米国聖公会からの正教改宗者である)フレデリカ・マシューズグリーンも回想録 Facing Eastの冒頭で同様のことを述べています。

 

 「正教に関するなにかが男性たちの心に強く訴え、彼らを惹きつけるようです。そして、彼らの妻たちーー特に、よりソフトな福音主義のワーシップスタイルで礼拝することに馴染んで来た女性たちーーは一般に、この違いを消化するのにより時間を要しています。

 

 この広大にして古(いにしえ)なる盤石のような公会(communion)に参入することに対する魅力は、海軍に入隊するにも似たなにかを醸し出しているのかもしれません。それは戦場における死ではなく、数多くの苦痛な道の中での自己への死を彼らに要求してきます。そしてその中にあって神が主権者となっていくのです。

 

 私は教会の人々に『なぜあなたは正教会のメンバーになったのですか?』とアンケートをとりました。その中の二人の女性は(現在は二人とも熱心な改宗者ですが)、異口同音に次のような事を言っていました。『うちの主人が、‟僕はどうしても正教会がいい”って言ってきかなくて、、、それで私はもうぐいぐいここに引っ張ってこられたって感じです。』

 

 他の方々もやはり、改宗への経緯はご主人の考えによるものだったと言っておりーー夫たちが主導で、優柔不断な家族を伴い、正教会の門をくぐるというパターンが多いようです、、私はそういった夫たちの様子が手に取るように分かります。というのも、私の主人ゲイリーもまさにそうだったからです。ーー数年前の晩課の夜、私自身も渋ってなかなか動こうとしない妻の一人だったのです。」

 

正教会礼拝の一風景ーー詩篇51篇(LXX50篇)の詠唱


数年前、フレデリカは100人の正教会男性を対象としたアンケート調査を行ない、彼らに「あなたは男性として、正教のどんな点に魅力を感じていますか?」と尋ねました。以下、その一部を抜粋します。

 

 「男性たちの口からしばし出る言葉が『挑戦が多い “challenging”』です。正教は『受動的でなく能動的』。『正教はあなたの趣向に合わせ変わってはくれず、その反対に、あなた自身が正教に合わせ自らを変えていなければならないことを要求してくる唯一の教会だと思います。』

 

 また『正教礼拝における純然たる身体性(sheer physicality)』も魅力の一つです。肉や乳製品を絶つ周期的な断食の日々、『礼拝の間中起立し続ける、、平伏の姿勢で祈禱する、、聖餐(聖体礼儀)の前に食も水も絶つ、、』『正教は、鍛錬を通した自制に対する男たちの願望に訴えかけてくるのだと思います。』

 

 最近改宗した男性は次のようにまとめています。『正教は真剣です。それは困難です。そして自分に要求してきます。それは憐みの宗教ですが、同時にまた克己に関する宗教でもあります。私は深い処で挑戦を受けていますが、それは自己満足のためではなく聖潔の道を歩むためです。正教は厳格でごつごつしていますが、その厳しさの中に私は解放を見い出しています。そして妻も同様のことを感じています。』」

 

15年余りのローマ・カトリック教徒としての信仰生活を通し、私は自分の教区の司祭を権威ある人物として感じたことはほとんどありませんでした。もちろん、彼の礼典的権威はリアルだったと信じていますが、今ここで話しているのは彼の牧会的権威についてです。私がお世話になったほとんどの司祭は、、、なんといったらいいのでしょう、、‟ソフト” な印象を醸し出していました。

 

私はガイダンス・カウンセラーではなく牧者を必要としていました。そこには男性的な権威が欠如しており、私はそれを感じました*2。しかしこれまでの信仰生活の中で少なくとも5人のカトリック司祭たちは、男性的なあり方で霊的・倫理的権威を行使しており、私はこういった牧会者たちから大いに助けを受けました。彼らのことを想う時、私は自分自身の父親のことを思い出します。--配慮に富み、しかし力強く、権威ある父の姿を。

 

私はみなさんの通っていらっしゃる教会における男女の状況について知りたいです。あなたの教会の男女比は現在バランスがとれていますか。それとも女性たちが圧倒的多数ですか。

 

もしも状況が前者なら、あなたの教会が文化的潮流に押し流されずそれに対抗できているその秘訣はなんでしょうか。そしてもしも状況が後者なら、なぜあなたの教会からは男性がどんどん去って行くのでしょうか。あるいは男性たちが寄り付こうとしないのでしょうか。そして男性たちを教会に呼び戻すべく、あなたの教会はどんな内部改革ができると思いますか?

 

(執筆者:Rod Dreher)

 

ー終わりー