巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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世俗の時代における福音宣教ーーサクラメント性の回復を求め、これからの道を模索するプロテスタントの指導者たち(by ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)

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ワートバーグで説教するルター(出典

 

目次

 

世俗の時代における福音宣教を考える(ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)

 

  

聞き手:チャールズ・テイラーは著書『世俗の時代』の中で、次のように言っています。「西暦1500年の西洋社会においては神を信じないことは実質的に不可能であったのに対し、2000年において、我々はそれが容易であるだけでなく、不可避であるとさえ見出すのはなぜだろうか?」

 

読者は、テイラーが、このシフトの原因の少なくとも一部分を、プロテスタントによって始められ(カトリックにも影響を与えた)16世紀、17世紀の宗教改革に帰していることに驚いているかもしれません。こういった発展のどの側面が肯定的であり、どの側面が否定的なものなのでしょうか。あなたはどう見ていますか?

 

ジェームズ・K・A・スミス:そうですね。ここには二つの側面があると思います。中世後期の宗教改革運動は、ーー二層式のクリスチャン生活というものを拒絶することによりーー、テイラーの言ういわゆる「日常生活の聖化」を強調しました。

 

どういうことかと言うと、家庭生活での雑多な仕事(家族を持ち、子育てをし、馬蹄を作り、大地を耕す等)に従事している人々も、家庭的、‟地上的”生活を喜捨した人々(修道士、祭司、シスター等)と全く同様、コラム・ディオ(「神の御顔の前」)な生活をしているのだということを宗教改革者たちは説いたのです。

 

つまり、「クリスチャン生活においては、‟オールスターチーム”というものは存在しない。私たちは皆、聖潔の道に召されており、地上のいかなる職業に従事していようとも、私たちはそこで聖潔を追及することができる」ということを彼らは説いたのです。ですから、その意味において、宗教改革は、被造物、被造性、そしていわゆる「地上的」仕事に関するより肯定的な神学を回復したということが言えると思います。

 

しかしながら、宗教改革がもたらしたその他の結果の一つが、クリスチャン礼拝の一種のdisenchantment(「脱魔術化」)でした。ーールターやカルヴァンにおいてはそれほどではなく、また少なくともツヴィングリやピューリタンのような後期改革者たちほどではなかったと思いますが。

 

そしてこの‟幻滅化”にはやはりサクラメント性への拒絶が含まれていると思います。サクラメント性というのは、御霊が物質の中にあって私たちと接触(meet)し、物質的な要素が恩寵の管であるという捉え方のことを指します。こういった要素が失われた結果どうなるかというと、キリスト教は典礼的な生の営みというよりは、一種の「教条の知的セット」のようなものになってしまいます。

 

テイラーはこれを、(「受肉」に相反するところの)「脱肉 excarnation のプロセス」と呼んでおり、多くの点で、これは宗教改革のもたらした負の副産物なのではないかと私も考えています。つまり、宗教改革者たちの持つその他の確信には従っても、この点に限って言えば、私たちはその副産物に追従する必要は必ずしもないのではないかということです。

 

実際、それゆえに、プロテスタント陣営にいる何人かは現在、このマイナス部分に解決をもたらすべく「改革派公同性 "Reformed catholicity"」を回復させようと努めています。

 

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【参考資料】世俗の時代の「護教論」ーーチャールズ・テイラーの神学的な歴史ーー(一橋大学社会科学、坪光生雄氏)

 

第一節 はじめにーー本稿の目的

 

『世俗の時代』A Secular Age(2007)が世俗性に関して描き出した長大な歴史の物語は、近代社会における宗教の位置を問う上できわめて示唆に富むものであった。

 

実際、著者であるチャールズ・テイラー(1931-)は、公共圏における宗教が主題化される際、今日最も頻繁に言及され る論者の一人である。*1

 

かねてより政治理論家として常に大きな関心を集めてきたテイラーでは あるが、近年ではこうして、宗教学 / 宗教史学におけるその貢献もひと際注目すべきものとなっている。  

 

そうしたテイラーの議論を読み解く際に一つの重要な焦点となるのは、彼が『世俗の時代』の 結論部において詳らかにした自身の神学的な信念であろう。同書が刊行される以前より、テイラーがカトリック信者としての立場から強く規範性を帯びた議論を展開していることは周知の事実で あるが*2、その神学的内実がこれほど率直に示されたことはかつてなかった。

 

テイラー思想を何らか一貫性のある全体として理解しようとするとき、彼自身の宗教的信仰を枠づける神学的背景 に注意深く光が当てられる必要があるとすれば*3、これらの記述は特筆すべき重要性を持つと言 える。

 

また同箇所は、『世俗の時代』という一著作の構成から見ても、それまでの歴史的 / 事実確認的な対象記述の埒外へと大きく足を踏み出している点において特異な性格を帯びる。

 

実際それは少なからぬ読者の内にテイラーを「レリジョニスト religionist 」として印象付けるに足るものであったかもしれない。そのような受け取り方の実際の当否はここではひとまず措くとしても、他ならぬその特異な記述が同書全体を締めくくる議論を構成する以上は、とりわけ先行する歴史叙述の記述的性格との関係において、その意義が検討されるべきであろう。  

 

そこで本稿は以下、こうしたテイラーの宗教的 / 神学的な規範性を明確にすることを目指す。 追求すべき問いは、今日という「世俗の時代」に対して、彼自身は信仰の立場からどのような評 価を与えているのか、というものである。これを問うことで、彼の神学的目標をその歴史理解との相互的な連関の下に検討することができるだろう。  

 

具体的には、まず前提として『世俗の時代』の概略を簡潔に確認した上で(第二節)、テイラーの神学的な議論を主題化して論じた二つの先行研究から本稿にとって重要な二つの論点を抽出する(第三節)。

 

第一の論点については、テイラーのテキストに即して内在的なアプローチを試みる(第四節)。このとき『世俗の時代』はもちろん、その他の関連する論考も重要な手掛かりとして取り上げることができる。続く第二の点については、他の思想家との比較によって考察を深める(第五節)。

 

ここでは、テイラーのキリスト教理解に大きな影響力をもったイヴァン・イリイチの晩年の思想を取り上げる。そして最後に、それまでの議論を総括し、先の問いに関する本稿の結論を示す(第六節)。

 

第二節 『世俗の時代』の概要  

 

以下では『世俗の時代』の概要を粗述する。ただし、同書の浩瀚な著述内容を網羅的に示すことがここでの目標ではない。本稿の目的と関連して重要ないくつかの論点に光を当て、次節以降に続く本稿の議論の前提を整えることができれば十分であろう。

 

「我々が世俗の時代に生きているということは何を意味するのか」(SA, 1)―『世俗の時代』 の長大な著述はこの簡潔な問いから始まる。著者はこの初めの問いにおいて、すでに自身の前提的な時代理解を明らかにしている。

 

すなわち、テイラーにとって現代とは「世俗的な時代」である。この認識はたとえば、彼が「西暦1500年の西洋社会においては神を信じないことは実質的に 不可能であったのに対し、2000年において、我々はそれが容易であるだけでなく、不可避であるとさえ見出すのはなぜか」(SA, 25)とより具体的に問う時、いっそう確信的に表現されている。  

 

ここに挙げられた両年代間に横たわる500年の歴史には「世俗性への転換」が含まれている。 かつて信仰はほとんどの者にとって自明なものであったが、いまやそれは「最も忠実な信者にとってさえ、数ある人間的可能性のうちの一つ」にすぎない(SA, 3)。

 

テイラーによると、この転換の意味するところは、社会科学の諸理論が今日まで力強く語り継いできたいわゆる近代化、また特に世俗化に関する「支配的な物語 master narrative」によってすっかり汲み尽くされるものではない。

 

それら主流をなす学説が依拠する世俗性理解ーー経済、政治、法などといった自律的な 諸社会領域からの宗教の排除としての、あるいは宗教的信仰と実践それ自体の衰退としての理解 ーーに抗って、テイラーは「信仰の条件 conditions of belief」に注目する視座から「世俗的であること」の意味を新たに検討する。

 

今日という「世俗の時代」に至る歴史において宗教は、支配的な物語が見込んだとおりに単に衰滅へ向かう一途を辿ったのではない。このことは今日、経験的な事実として確かであろうし、近年の社会学諸理論においても広く認識されつつある。*4

 

にもかかわらず、なおもその事実性に目を閉ざし、宗教がいわば「引き算」されることで、人間の本質ないし「人間の生の永続的な特徴」(SA, 22)が解放されていくところの過程として「世俗化」を理解する、あの支配的な見方に立つならば、今日の状況を特徴づけている本質的な新しさを理 解することはできない。

 

テイラーが信仰の条件と呼ぶものは「道徳的、精神的あるいは宗教的な 経験や探求が生じるところの、全体的な理解の文脈」(SA, 3) であり、一般に近代化や世俗化と 呼ばれているものは、この「文脈」が以前とはまるで異なるものに変容していった過程に他ならない。

 

今日の世俗性を、まさに「新しい発明、新たに構築された自己理解やそれに関連する諸実践の産物」(SA, 22)として理解しようとするテイラーには、「引き算」に基づく支配的な物語とは別の、新しい物語を語りなおす必要があった。  

 

こうして語られるもうひとつの歴史は「改革主導の物語 Reformation Master Narrative =RMN」と名づけられる。その名が示す通り、テイラーは今日の世俗性の主たる淵源を宗教改革に見出す。「すべての人に、真正の、100パーセントのキリスト者になるよう求めた」改革は、 理神論を経て結果的に「脱魔術化」を招来し、人々の生と社会を新たな訓育の下に秩序づけた(SA, 774)。

 

この新しい秩序は、過去に類例のない人間中心主義的なものであった。そこではしばしば、 生の「充実 = 十全性 fullness*5」が、人間的 / 現世的繁栄を超えるという意味でのいかなる超越をも参照する必要のない、純粋に内在的なものとして理解される。ここにテイラーが「排他的人間主義 exclusive humanism」と呼ぶ新しい道徳的立場が成立を見ている。

 

近代的な世俗性の到来は、社会においてこの立場が広く人々の手の届くオプションとなった時点と一致する。ただし、排他的人間主義が世俗的な時代において可能な唯一の立場であるわけではない。

 

テイラーはそうした排他的な理解を退けるべく、今日においては他にも、伝統的な諸種の有神論はも ちろん、無神論でありながら啓蒙主義の流れに与しない新ニーチェ主義的反人間主義やロマン主義など、多様な道徳的 / 精神的立場がありうることを確認する。

 

かつてなく増大したこれらのオプションの多元性こそがむしろ、今日の世俗性をもっとも直接的に規定するものと理解されるべきである。この多元的状況においては、いかなる立場にある者もナイーヴな自己確証からは遠ざけられる

 

「世俗の時代」とは、諸オプションが互いにせめぎあう、交差圧力に満ちた相互脆弱化の時代に他ならない。テイラーがその信仰の条件と呼んで明確化しようとしたものは、他ならぬこの多元性それ自体と、そこに生きる多様な信仰を持つ人々の自己理解を枠づける「文脈」な いし「背景的理解」であった。テイラーはこれを「内在的枠組 the immanent frame」という概念を用いて記述しようと試みる(SA, ch.15)。  

 

こうして『世俗の時代』におけるテイラーの著述は、宗教改革を逆説的な契機として近代の世俗性が成立する歴史的過程を跡付けたのち(Ⅰ~Ⅳ部)、今日の信仰の条件を分節化する結論部(Ⅴ部)へと移行する。

 

そこで明らかにされるのは内在的枠組の多元的な構成、またそこに生じる多層的なジレンマや交差圧力の諸相であった。おおむね、内在的枠組は超越への「閉鎖」と「開放」 との二極へと向かう諸力によって引き裂かれる場として理解される(SA, 555)。そこでは、ありとあらゆる信仰と不信仰の存在がそれぞれ互いに他方の確信の基盤を掘り崩しあうのである。  

 

さて、はじめにも述べたとおり、以上のような議論はテイラー自身の宗教的立場性との関連において吟味される余地がある。実際、それを試みた先行研究は複数存在し、それらは本稿の関心にとって重要な示唆を孕んでいる。次節では、それらの先行研究を検討することを通じて本稿が 探求すべき論点をより明確なものとしたい。

 

第三節 護教論的読解とその問題  

 

ラディカル・オーソドクシーで知られる神学者ジョン・ミルバンク*6によれば、『世俗の時代』 において示されたのは歴史の神学的な読解であった。*7

 

同書のいくつかの議論には「護教論の巧妙な方法」を見てとることができる。ところがその上で彼は、同書は「我々が『宗教の歴史の終 わり』に至ったことの宣言として読めるかもしれない」曖昧さをも持っていると指摘する。*8

 

テイラーが描き出したその歴史の突端に位置する世俗の時代の状況は、①宗教 / 非宗教を含む全ての立場が反省的に論争に開かれている限りにおいて、また、②長い目で見た未来へと、こうした還元不可能な宗教多元主義が進展していくと考えねばならぬ限りにおいて、そのような「終焉」として理解されるというのである。

 

先に見た通り、多元性に彩られた「世俗の時代」の信仰の条件は、いかなる立場を採る者にもナイーヴな自己理解を許さない。ミルバンクの言うテイラーの 「曖昧さ」は、彼が「世俗の時代」の継続を企図しているのか否かという点に集約される。  

これに対してミルバンクが与えた答えは明解である。彼によれば、テイラーの議論は先の整理における①に関してはその事実としての正当性を認めるが、だからといって必ずしも②のような未来を先取りするものではない。なぜなら、テイラーは将来キリスト教の普遍主義が復活する可能性を排除しないからである。

 

改革に端を発した近代化=世俗化という「堕落」から、より慈悲深く、祝祭的なキリスト教を回復させることによって、それは可能になる。また、唯一そのよう なキリスト教だけが、人類の普遍的な合意を取り付け、新しく今日的な「グローバル・キリスト 教界」を再び打ち立てることを信じ望むことができる。テイラーはこの種のキリスト教が復活することへの希望を捨てていない、というのである。*9

 

テイラーの神学的主張を今日の世俗性に向けられた批判として理解するのは、ミルバンクのようにテイラーに好意的な神学者たちだけではない。逆に、暗示的・明示的にキリスト教=有神論の優位を説くかのような彼の著述は、『世俗の時代』刊行以前から夙に批判に晒されてきたもの でもある。*10

 

当然『世俗の時代』の議論に関しては、より以上に批判的な検討がなされている*11。 たとえば、歴史学者ジョナサン・シーハンの論考はその一つである*12。シーハンによれば、『世俗の時代』の最終章「回心 conversions」には著者の神学的なヴィジョ ンが明確に表示されている。

 

テイラーはそこで、自らが描いてきた歴史的過去との関連において 「宗教はこれからどうなるのか」との未来への問いを立てる。そのテキストは「喪失の経験と脱魔術化を、来たるべき未来、来たるべき共同体への信仰に変容させる預言的瞬間」を含んでいる。

 

「未来」においては、「深みと深淵さが活気づけられ、それによって我々の浅薄で暴力的で過度に合理化されてしまった世俗の時代が抑制される」のである。*13

 

ところで、シーハンは「護教論」 という語を「歴史と神学との結合」として定義する。護教論においては、「歴史的なもの / 記述的なものが不断に規範的なもの / 規定的なものへと変容してゆく」。*14

 

この意味からすると、テイラーの預言的な物語は適切に「護教論的」と評される。シーハンによれば、テイラーが物語る のは結局のところ全てキリスト教の手の内にある歴史であった。

 

「キリスト教は、西洋の歴史であると同時に未来、また世俗的なものの起源であると同時にその修繕の方途である。それは理性の領域内に住みついてはいるが、しかし身体を伴った (incarnated = 受肉した)情熱をも約束する。それは我々の過去を批判し、我々が生きるところのものとは異なる未来を提示するのである。」*15 

 

このようにシーハンは、「未来」に世俗の時代の終わりを、またはキリスト教の勝利を見る護教論としてテイラーの歴史を読む。この「唯物論者の歴史家」は、同一のテキストの読解それ自体においては、ミルバンクのようなラディカルな神学者とほとんど異なるところがない。

 

両者が異なるとすれば、そのように理解された内容に対して下される評価においてである。シーハンにとって、護教的な歴史叙述とは「たいへん癪に障り、時おり挫折感を覚えるような」ものであった。*16

 

『世俗の時代』に示された神学的 / 規範的ヴィジョンを、いわゆる「護教論」として理解する同様の読みは、同書に対して批判を向けるのであれ好意的な評価を下すのであれ、他の論者も少なからず共有するところのものであろう。*17

 

曰く、テイラーの神学的目標は、この「世俗の時代」 に終止符を打つこと、その内在的枠組を打ち破ることにある。彼が長々と描き出した世俗性の歴史は、宗教改革というその起源からして本来的にキリスト教的な「堕落」の過程を跡付けている。 それが「堕落」である以上は、未来において新たにされたキリスト教によって乗り越えられなくてはならない、と。  

 

しかし、この読みを深めてゆくとある混乱が生じる。既述のとおり、テイラーは内在的枠組をまさしく「信仰の条件」として分析していた。すなわち内在的枠組とは、「我々がその中で自分自身の信仰を発展させるところの感覚された文脈」である。

 

信仰や非信仰に対してどんな態度をとる者にとっても、それは「通常、異議申し立てられることのないような枠組の水準にまで潜り込んで」いるもの、「たとえ想像の域を出ないとしても、しばしば我々自身がその外側にいると考えるのには困難が伴うような何か」なのである(SA, 549)。

 

内在的枠組がそのようなものである以上は、キリスト教の信仰の立場が同枠組の打破を伴わねばならぬ必然性を想定することは困難であろう。  

世俗の時代または内在的枠組が、その概念規定からして宗教的信仰や超越性を排除しないとすれば、否それどころか、同枠組が今日において信仰それ自体を可能ならしめる当の条件でさえあるとすれば、上で見た諸先行研究の見解は少なくとも批判的に再検討されてよいものとなる。

 

すなわち、「護教論」と名指されたテイラーの神学の目標は、果たして世俗の時代を終わらせるこ とにあるのか。むしろ彼の信仰や神学それ自体もまた世俗の時代によって歴史的に枠づけられているのではないか、と。  

 

こうして、本稿が次節以降で探求すべき論点が明確化される。第一に、テイラーが排他的人間主義(exclusive humanism)に対し、一貫して強力な批判を向けているという事実は注目に値する。実際これが先行研究の護教論的読解を支える一つの有力な根拠だからである。

 

テイラーによれば、世俗の時代は排他的人間主義の成立によって幕を開けた。とすると、排他的人間主義が批判されるならば、世俗の時代それ自体もまた、彼の立場からは糾弾されるべきものであるように思われる。

 

しかし注意深く問われるべきは、排他的人間主義がいかなる点で批判されるのか、という点である。排他的人間主義批判がそれ自体で世俗の時代への批判を含意するかどうかはここに係っている。

 

また第二 に、テイラーが歴史を「堕落」として描いたか否か、が重要である。先行研究はテイラーの歴史物語、つまり改革に端を発する近代化 / 世俗化 / 脱魔術化の過程を「キリスト教の堕落」として 読解した。そうであればこそ、世俗の時代は脱却されるべき桎梏ともなりえた。

 

テイラーの神学は、この堕落からの救済という「終末論的歓喜」を未来に預言するものとされている*18 。本稿は、 テイラーの神学がまさにそのような意味で「終末論的」と呼びうるような規範性を実際に含意しているのかどうか、確かめる必要がある。

 

第四節 排他的人間主義批判の神学的背景  

 

排他的人間主義という語が何を意味しているかということについては、すでに簡単に見ている。人間的な生に内在的な領域の外には、いかなる「充実=十全性」の生じる場も認めない態度、つ まり「人間的繁栄を超える終極的目標も、またこの繁栄を超える他のものへのいかなる献身も容認しない人間主義」がそれであった(SA, 18)。

 

この立場は、あらゆる超越的契機を例外なく反人間的なものとして退けるが、この排他性にテイラーは異を唱える。その批判は、はじめ「カト リック・モダニティ?」(1999)において簡潔に展開され、『世俗の時代』に一貫性をもって引き継がれた。

 

興味深いのは、前者の議論からしてすでに神学的な論理に依っていたという事実である。つまり、この批判は彼のカトリシズムに光を当てることなしには十全に理解されえない。したがって本節は、「超越」を認めない人間主義をテイラーが批判する、その神学的な論拠を問う。 そしてこれはまた、排他的人間主義はなぜ「世俗の時代」の多元的状況においてもなお正当に批判されうるのか、との問いでもある。  

まずは排他的人間主義によって排除される当のもの、「超越」とは何であるかを確認しよう。 テイラーはそれを「生を超える」こととして定義している(CM, 20)。

 

すなわち、「超越」とは、「生だけで話は終わらない」という主張のうちに把握されうる考えーー諸宗教において様々な形式をとりながらも共通して信奉されている根本的な考えーーを言表するものである。

 

ただし、テイラーはこのように述べることで、内在的な生の次元における人間的繁栄をいわば悪しきものとして、 超越性と対置しているのではない。彼はたとえばキリスト教におけるアガペーという徳を想起し ながら、超越的な善が人間的繁栄に対して必ずしも敵対的ではないということを念入りに強調している。

 

彼によれば、超越を経由することで、人間的繁栄あるいは内在的生をより以上に肯定的 なものと捉えることが可能になるのである。排他的人間主義による宗教批判はこれを見誤り、超越を、人間的な生=繁栄を阻害するばかりの単なる「断念 renunciation」と同一視する点で、まず誤りを犯していることになる。  

 

さらに、排他的人間主義に抗すべく、テイラーは自らの信じるカトリシズムの差異横断的な側面を強調する。その論理は次のようなものであった(CM, 14-15)。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ 16:15) という聖句は、他の国や文化をキリスト教の世界観に適合するよう作り替えよ、との命ではない。カトリック Catholic の原語、Katholou の意は、「全体性を通じた普遍性 universality through wholeness」として理解される。

 

ならば、 カトリックの基本的な要求は、「同一性を通じた一致 unity-through-identity」ではなく、「差異を 横断する一致 unity-across-diff erence」であるだろう。

 

その教義によれば、キリストの「受肉」 は贖罪の証しである。そして、この受肉と贖罪は、和解を、すなわちある種の「一性 oneness」 をもたらすものとされる。この「一性」は、テイラーにおいては「一人では全体性に到達できな いこと、またそのためには相補性が本質的に重要だということを知る、多様な存在からなる一性」 との表現によって明確化される(CM, 14)。

 

また同じ箇所では「相補性と同一性がともに、我々 の究極的な一性の一部分である」とも言われている。というのも、テイラーによれば「三位一体として理解される神自身の生がすでにこの種の一性」を成すからである(ibid.)。

 

彼にとって人 間の多様性は、人間が三位一体の神の似姿として造られたが故の必然である。こうして、彼は結論的に「カトリックの信仰が拡大するとすれば、献身、霊性、典礼の形式、受肉への応答などに 関する多様性の増大を伴わずにはいられない」と述べるに至る(CM, 15)。  

 

テイラーはカトリックの信仰に、究極的な全体性をなす相補的な構成の一部として差異を承認するための契機を見出している。キリスト教のアガペーを通じた人間的繁栄=内在的生の肯定の 教えは、ここではまさに彼が言う意味での、人間的な多様性の擁護そのものとして位置付けられる。  

 

以上の洞察は、後に「世俗の時代」を多元性において特徴づけた彼の狙いと齟齬なく符合する だろう。つまり、テイラーの理解において、世俗の時代がかくも多元的であるのは、それが三位一体の神の似姿である人間にとって本質的な多様性の表れであるからに他ならない。

 

だが、彼の神学は多元的な状況という事実の単なる承認を超え、さらに一歩先へ踏み込んでいる。すなわち、 彼にとって世界は単に多元的であるのではない。存在する差異のそれぞれは、ことごとくある種 の「一性」の構成的部分であり、互いに相補的な役割を担うのである。この点で、彼の言う世俗の時代は、多元的とも一元的とも評しうるものであり、いわばその間を往復する循環的な論理によって相当程度規範的 = 神学的に特徴づけられていると言える。  

 

さて、テイラーにとって排他的人間主義が問題だったのは、それが超越の契機を欠くためであっ たが、今やこのことについてより詳細に理解できる。

 

まず彼の言う超越は、人間的繁栄という善を否定しない。彼によれば、超越を認める見解に立つとしても、キリスト教的に言うとアガペーを通じて内在的諸善を肯定することができる。

 

人間主義は、確かに世俗の時代の内に一つの適切なオプションとして存在する道徳的 / 精神的源泉である。しかし排他的人間主義は、記述的には 現にオプションの一つと認められても、規範的には批判すべき対象となる。

 

ここでテイラーは生 の肯定それ自体を問題にしているのではない。問題はその排他性にこそある。超越は人間的繁栄の善性を肯定しもするが、このことは当然、生だけが善であるということを意味するのではない。

 

もし生が人間の道徳的 / 精神的な次元の全てなのだとしたら、超越を経由することによってのみ達成される理想、すなわち「差異を横断する一致」は、決定的に挫折させられてしまう。

 

テイラー にとって第一義的に重要なのは、人間を本質的に規定する多様性や差異を一性ないし全体性の中に相補的に位置づけることで、普遍的な一致を導くことであった。こうした脈絡の内に、あらゆる超越を許容しない排他的人間主義が差異をうまく扱えないということが理解される。

 

テイラーは、排他的人間主義が差異を究極的な一致へと導くための超越的な回路を原理的に閉ざしてしま う点を問題とするのである。  とすれば、排他的人間主義への批判は、世俗の時代への批判と同等ではない。

 

テイラーは、所与の多元的状況にあってその人間主義が帯びる排他性、いわば超越への敵意に対して批判を向け ているのであって、事実としての多元性それ自体をその標的としているのではなかった。

 

それどころか、排他的人間主義が批判されるのは、まさにそれが今日の多元性を十全に評価することができないという理由からである。多元性ないし差異は、超越における一致から遡られることで、 むしろ善きものとして承認されうる。このことは超越を経由した内在の肯定というアガペーの論理によって確証されていた。

 

第五節 教会と堕落ーーイリイチの終末論と「世俗の時代」  

 

次に、先ほど整理したうちの第二の論点について検討しよう。テイラーの描いた歴史はキリスト教の「堕落」を跡付けたものなのだろうか。  

 

そもそもテイラーの物語を「堕落」として読む、その根拠とは何であろうか。いくつかのこと が考えられるとしても、『世俗の時代』最終章「回心 Conversions」におけるテイラーのイヴァン・ イリイチへの言及が、この読解に直接的な一つの基礎を提供しているのは確かだろう。

 

イリイチもまた、近代が成立を見るに至る歴史を神学的なものと深く関わらせて叙述した者の一人である。 彼は晩年、「最善の堕落は最悪」との標題の下、キリスト教の受肉の神秘と自由な愛の教えが規 則や制度に姿を変えていく歴史的過程を「堕落」として描き出し、その帰結を「最悪の悪」と断 じた上、近代が抱える社会的 / 道徳的諸問題の淵源をことごとくその「堕落」にまで遡って跡付ける思想を披歴した。 *19

 

テイラーはそのようなイリイチの議論を詳細に再構成したのち、「これ は私が語ろうと試みてきた物語と多くの仕方で近づく」と述べる(SA, 741)。

 

この言明は先行研究の見解を強く裏付ける。テイラーもイリイチ同様、最善であったキリスト教の堕落によって「最悪の悪」が生じてきた過程を描いたとすれば、その物語は何よりも近代性及び世俗性に対する敵意によって方向づけられるだろうからである。  

 

このテイラーとイリイチの異同を探ることは本節の目的にとって有益だろう。まずはイリイチ の議論を手短かに確認しよう。上述した「最善の堕落は最悪」説の核にあるのは、福音の隣人愛 の教えに潜在するラディカルな新しさへの洞察である。

 

イエスの譬え話に出てくる善きサマリア 人の行動が開示したのは、一面においては破壊的であるような自由の可能性であった。それは既存の倫理 ethics の伝統的な基盤であるところの民族性 ethnos を深々と脅かすものであり、「自分が選ぶ誰にでもキリストの顔を見るという召命を受けいれた個人の自由な選択以外にはありえな い何か」である。 *20

 

この自由は、イエス・キリストにおける神の受肉という出来事なしには十全に理解されえない。神がへりくだって肉を纏った人の子となること Kenosis によって初めて、 隣人への愛が神への愛と真の意味で同じくされるからである。その愛は本来的に、隣人という具体的な誰か somebody、つまり「ある肉体 some body」にのみ向かいうる。

 

この点で隣人愛論と受肉論は一致を見る。さらに、教会論もこれに近接する。真の教会ーーイリイチが人称代名詞“she” で呼び表す教会は、まさにこの愛による結びつきが織りなす生きたネットワークに他ならない。

 

だが歴史的な教会は、自由であるべき隣人愛を制度化し、その肉的な次元を取り去ることでそれ を堕落させてしまう。この教会ーーイリイチが非人称代名詞“it”で呼び表す教会は、「新たな 愛を管理したい、場合によっては法で定めたい、それを保証する制度を創設したい、そしてそれ に反対する者を犯罪者とすることでそれを保護したいといった誘惑」に何度も捉えられてきた。*21

 

カトリック教会の歴史は、結婚や告解といった秘蹟的諸制度の発展の歴史でもある。イリイチによればこの「誘惑」に陥ることは、キリストに対する、また特にその受肉の神秘に対する裏切りに他ならない。

 

かつて彼が口を極めて非難した学校、開発、医療、交通等々の近代性の 諸相は、全てこの裏切りに淵源する。隣人愛の制度化という教会の倒錯的堕落によって、近代という「最悪の悪」が産み落とされたのである。  

 

テイラーはイリイチのこうした議論から多くを学び、実際に自らの思想に反映させる。とりわけ、彼がしばしば「コード・フェティシズム」と呼んで批判するものは、まさにイリイチが堕落の契機として描き出したような、制度的な形式性を偏愛する態度に他ならない。イリイチの書に寄せた序文*22のみならず、『世俗の時代』本文においても、テイラーは次のように述べている。

 

「コード〔= 規則〕は、最善のコードであってさえ、偶像的な罠と化すことがある。それらは我々を暴力との共犯へと誘う。イリイチは、たとえ平和愛好的で平等主義的なリベラリズムの最善 のものであっても、全身にコードの衣装を纏うことのないようにすべきことを我々に思い起こさせてくれる。我々は精神的生の中心を、コードの彼方に、コードよりも深部に、活き活きと した気遣いのネットワークの中に見出すべきだろう。これらのネットワークは、コードの犠牲になってはならず、時にはコードを覆すことすらしなければならない。こうしたメッセージは ある種の神学に由来する。しかし、それは誰の耳にも利をもって聞き届けられうるものである。」 (SA, 743)  

 

また両者は、批判それ自体においてのみならず、ここで言われている「ある種の神学」、つまりその批判の神学的背景においても近似する。テイラーもイリイチとよく似た仕方で受肉を本質化する。彼は「カトリック・モダニティ?」の中で、それを通じて贖罪がもたらされるようなものとしてキリストの受肉を特徴づけた。

 

この受肉と贖罪とが最終的に、ある「一性」、すなわち彼の究極的な神学的理想である「差異を横断する一致」を基礎づける。また、この受肉は両者の隣人愛論にとって、同様に中心的な役割を果たす。

 

テイラーにとってアガペーは、超越を経由し た内在の肯定の範型であった。アガペーとは、いわば隣人への愛と神への愛の一致であり、した がって超越と内在の一致である。この一致は、イエスにおける受肉に遡ることで、神学的に確証される。

 

先の引用した箇所に読まれる「活き活きとした気遣いのネットワーク」とは、まさにこの種の愛によって構成される「アガペーのネットワーク」に他ならない(SA, 741)。

 

『世俗の時代』においても、受肉への洞察はテイラーにとって中心的であり続ける。そこでは イリイチさながらに、受肉と歴史の運行とが深く関わりあう。RMN の筋書は、次のように「受 肉 incarnation」から「脱肉 excarnation」 への移行としても特徴づけられる。

 

「公式のキリスト教 は、私たちが『脱肉』 と呼びうるものを、すなわち具体化された、受肉した宗教的生の形態から、 よりいっそう『頭の中』にあるその形態への移行を経験してきた。このなかで並行して、『啓蒙』 や近代不信仰文化一般が進展してきたのである」(SA, 554)。

 

本来的に身体的な神秘、つまり受肉的なものは、宗教改革によって大きな転換を経験した。改革に端を発する「世俗の時代」への 移行は、「脱肉」的な宗教的生ーーより観念的で内面的なもの、「頭の中」のそれへの移行でもあった。

 

イリイチが神の受肉に対する裏切りの過程として、すなわち「最善の堕落は最悪」という「悪の神秘」の進展として西欧の歴史を描いたように、テイラーは「世俗の時代」を準備した歴史を、 宗教的生が受肉的形態から脱肉的形態へと変容した過程として描き出している。  

 

しかしテイラーとイリイチの間には、以上のような共通点よりは曖昧であるにせよ、少なくと も明白な相違点が存在する。サン・ヴィクトールのフーゴーをはじめとする中世神学や、ジロラモ・サヴォナローラのような殉教者の生のうちに回復すべき理想の一端を見出すイリイチとは異 なり、テイラーにとっては「おそらくキリスト教の黄金時代は存在しない*23」(SA,745)。

 

この 点は、はっきりと両者の差異として確認されてよい。そもそもテイラーの歴史は、信仰の条件の 「変容」ないし「転換」を描くものであった。ならば、たとえその「変容」が非常にしばしば「脱肉」を伴うものであるとしても、テイラーの用語法におけるそれは、少なくともイリイチの言う 「堕落」とは区別されるべきであろう。  

 

もちろんこの対照は両者の差異を特徴づけるものとしては未だ粗雑である。イリイチにしたと ころで、単に中世回帰を唱えた素朴な懐古主義者ではない。彼はより深い神学的ヴィジョンを示しており、それが一貫して悲観的な色調を帯びた彼の思想のうちにあって特異な一つの点、すな わち彼がじっと抱く「希望」を輪郭づけている。  

 

とはいえ、その「希望」も基本的には「最善の堕落は最悪」説の延長線上に位置づけられる。 つまり、堕落としての歴史理解はそのままの形で保たれる。

 

端的に言ってイリイチの希望とは「教会の復活」である。彼は今日を「黙示録的」な時代と定めたうえで、「近代を懐妊し、出産した ことを教会自体が恥じ入らねばならないという恥辱から教会が甦ること」を待ち望むと述懐する。 *24

 

周知の通り、カトリック神学はその長い学問的伝統において、教会が地上におけるキリ ストの神秘的身体そのものであるということを弛まず確証してきた。まさにこの理解のために、 神秘が単なる諸制度と混同されるような曖昧さも生じたのではあるが、他方でそれは、教会が近代という十字架の上で死に、その後復活するというイリイチの黙示録的 / 終末論的な希望にアナロジカルな基礎を提供しもする。イリイチにとって「死者の復活とは教会の復活のこと」に他ならない。  *25 

 

テイラーとイリイチとの間の最も重要な相違点は、おそらくこの教会論において見出される。 既述の通り、イリイチは教会の二形態(she/it)を区別した上で一方を擁護し、その堕落形態で あるもう一方を痛烈に批判した。

 

これに対し、テイラーの描き出す教会はより多声的に構成され る。テイラーによれば、キリスト教の理解に関して単純な正誤としての判断に依拠するものと、 相補的な洞察として理解の多元性を擁護するものとの二つの視座が存在するが、彼自身は明白に 後者を支持している。

 

シャルル・ペギーやジェラード・マンリー・ホプキンズといった回心者の独特な霊性を検討しながら、彼はそれらの様々なキリスト教理解、多様な軌跡を描く「信仰への旅程」が全て、教会の全歴史にまたがる「聖徒の交わり」という対話的な相互豊穣化の関係に招かれるべきであると主張する。実際、以下のように様々述べられている。

 

「一つのイシューに関する単純な正誤ではなく、そのそれぞれ〔多様な洞察〕が我々の理解を拡 張し、豊かにする新鮮なパースペクティヴを提供してくれる。問題は、それらの異なる洞察を互いにフィットさせる方法を理解することであり、またこの目的のために、背景を補うことでもある。」 (SA, 752)

 

「我々の信仰はキリスト教の絶頂でもなければ、その堕落したヴァージョンでもない。むしろそ れは、過去20世紀の全体に広がる会話 conversation に対して開かれるべきなのである。」(SA, 754)

 

「この断片的かつ困難な会話が目指すのは、聖徒の交わり the Communion of Saints である。わたしはこれを単に完成された者たち、つまりその背後に自らの不完全さを置き去りにする者たちの交わりではなく、むしろ全ての生、神へ向かう全ての旅程の交わりとして理解している。」 (SA, 754)

 

「教会ーー異なる人々や時代との交わりとしての、相互理解と相互豊穣化のうちにある教会ーー は、自分自身の真理への基礎づけを欠いた全面的な信、つまり真に異端の名にふさわしい信によって、害され、限定され、分断されてしまうのである。」(SA, 755)  

 

テイラーの理解するキリスト教は、単一のパラダイムによっては決して汲み尽くされない。「現 在や過去の秩序との固い同一化が強化されるところでは、信仰はあまりにも安易にある特定のコードや忠誠の用語によって定義可能なものとなってしまう」からである(SA, 766)。

 

この洞察は、イリイチから引き継いだ先述のコード・フェティシズム批判と強く響き合う。しかし同様の 批判の背景として受肉論や隣人愛論を共有しながらも、教会の歴史に関する評価的見解において、 テイラーは彼と一線を画す。

 

イリイチは今日という「カイロス」における教会の復活、すなわち堕落してしまった神学的最善と歴史性の再びの一致という終末論的な神秘を黙示した。

 

他方テイラーは、そのような同一化を希望する代わりに、多元性や差異を依然として内に含み保ちながら も「全ての時間にまたがる永遠性」において一致する教会のヴィジョンを描き出す(SA, 765)。 これは既存の秩序の廃棄を預言する終末論ではなく、したがって教会の歴史的性格を断罪するための峻厳さを持ちえない。

 

それら歴史的なものをも含む、あらゆる差異を架橋する相補的な会話 における一致、すなわち「聖徒の交わり」こそが、理想とされるのである。  

 

既述のとおり、テイラーにとってカトリシズムの普遍性とは「差異を横断する一致」である。 カトリシズムの普遍性は単なる同一性ではなく、むしろ諸々の差異の相補性によって特徴づけられる。これを考慮に入れれば、「聖徒の交わり」とは教会内における「差異を横断する一致」として理解される。

 

だがさらに、『世俗の時代』について弁明的に語った2010年の小論においては、 この原理はより明示的に教会の外にまで拡大・適用される。その中でテイラーは、異なる立場にある者同士が会話を通して、彼らを分かつ境界線を横断するような友情を築くことが可能である と述べている。

 

この友情は、テイラーにとってまさしくキリスト教の「すべてである。それが調和のすべて、人間の調和のすべてなのである。そしてそれは、単に教会の中でのことを意味して いるのではないし、教会の中にのみ状況づけられているということを意味しているのでもない」 (AW, 320)。

 

『世俗の時代』最終部の狙いは結局、会話と友情の構築という著者のカトリシズムの主題をキリスト教界が辿った歴史の中にも読み込むことにあったと言うことができよう。そうすることで、 テイラーは自らが描いた歴史の諸局面を「堕落」以上のものとして、何らか学ぶべき内容を持つ対話者として位置づけたのである。同書の終わりには、「何も失われてなどいない」というロバー ト・ベラーからの引用が読まれるだろう(SA, 772)。

 

第六節 結論ーー「会話」の護教論  

 

本稿の目的は、テイラーの「世俗の時代」に対する評価的な態度を問い、彼の神学的目標をそ の歴史理解との関連において明確にすることであった。そのために本稿は、先行研究がテイラーのテキストに読み取ったような護教的性格について検討を試みてきた。

 

具体的に明らかになった のは大きく二つーー

①テイラーは神学的な根拠から排他的人間主義を批判するが、それは「世俗の時代」そのものへの批判とは同等でないということ、そして、

②テイラーはイリイチと多くの 重要な神学的洞察を共有するとはいえ、堕落としての歴史理解を同じくしているとは思われないということ、である。

 

これらのことから、テイラーの「護教論」というものがあるとすれば、少 なくともそれは宗教と世俗との対抗関係において理解されるような意味での「護教論」ではありえない、という本稿の結論が導かれる。  

 

テイラーは『世俗の時代』の中で「近代的なキリスト教意識」が抱えるジレンマについて語っている(SA, 651-656)。それは「カトリック・モダニティ?」においても主題化された、神への 献身と人間的繁栄とが孕む緊張である。

 

このジレンマは簡単には解きほぐし難く、どちらかの陣営への一方的な肩入れによっては解決されえない。実際、近代の人間中心的転回はキリスト教に とって肯定的な利をもたらした。その転回によって、たとえば人類の大多数を救済の外側へと追いやるような地獄の教義や、贖罪に関する法規 - 懲罰的モデルによる理解(超アウグスティヌス 主義)が衰退する。

 

当然のこととして暴力や苦痛を神聖なものとする解釈学は受容し難いものと なり、神的暴力という概念それ自体も批判に晒される。だが、テイラーはこれらすべてのことを 近代の転回が神学にもたらした正しさとして評価するのである。  

 

彼にとって重要なことは決して、神と人、超越と内在、宗教と世俗との間に引かれた戦線の両側に分かれて敵対的な論争を続けることではない。

 

「護教論」という言葉によって通常意味され るものが、反世俗、反近代、反科学、反人間主義等々といった形で特徴づけられるのだとすれば、 それはテイラーの神学とは相容れぬ何かであろう。

 

すでに何度も見ているように、彼の神学的目 標は諸々の差異を横断する一致であり、またその一致にとって根本的な契機となる「会話」の喚起なのであった。

 

「思うに、我々がひどく必要としているのは、多くの異なる立場の間になされる会話である。宗教的、非宗教的、反宗教的、人間主義的、反人間主義的等々といったそれらの立場を、我々は 相互に戯画化しがちだが、必要なのは、他の者にとっての「十全性」が意味しているものを理解しようと試みることである。私が我慢ならないのは、その会話を止めようと前に出てくる立 場 conversation-stoppers(25)なのだ。〔中略〕もちろん私は、こうしたことを望むことについて、 神学的に規定された私自身の理由を持っているが、同時にまた、この会話の価値について広く 「重なりあう合意 overlapping consensus( *26」を打ち立てることが我々に可能であることをも 知っている。」(AW, 318)  

 

結局のところ、グラハム・ウォード が述べている通り、「世俗の時代はそれ自体としては善くも悪くもない *27」。内在的枠組は、排他的人間主義による閉鎖を許容する一方で、多様な差異を抱え込んでいるという点においては、異なる立場間の会話を前提する条件でもある。

 

テイラーの 神学にとって重要なのは何よりこの「会話」であり、彼が批判の対象とするのはその遂行を妨げるものである。この批判性は、明らかに排他的人間主義へ向けられたのと同種のものであるが*28、 近代ないし「世俗の時代」一般への敵意は必ずしも含意しない。  

 

たしかにテイラー自身、あるところで『世俗の時代』の試みが一種の護教的意図の下になされたことを認めている。「しかしそれは特別キリスト教的なものでも、有神論的なものでさえない」 (CI, 407)。

 

彼はただ「会話」の持つ価値を擁護しているのであり、それについては多様な立場 からそれぞれの根拠に基づいて「重なりあう合意」が形成されうる。テイラーが『世俗の時代』 の結論部で行なったのは、少なくとも彼にとっては明白であってよいもの、つまり自らが依拠す るところのその神学的根拠を公にする「全面的開示 full disclosure」であった(CI, 407)。

 

彼はそれをただ自身の「率直さ frankness」のために示したが、多くの先行研究はその言明を、キリスト教以外の立場に対抗し、自らの優越を確証しようとするような「護教論」として理解した。

 

本稿のこれまでの議論から明らかなのは、この読解が実際誤りを含んでいるということである。 おそらく、テイラーの企図する「護教論」と、テイラーを「護教論」として読むこととの間に はしばしば大きな懸隔がある。

 

彼の議論が自身も認めるように何ほどか「護教論」的な性格を帯 びるのだとすれば、それはあくまで、立場を異にする他者との会話、友情、相互理解といったも のが、彼の理解するカトリシズムの理想である限りにおいてである。

 

この理想は、次のような箇 所にも明瞭に表されている。

 

「共に生きることで我々は、誰であれ一人きりで生きるよりも十全な生を送ることができる。性 急に論争の武器へと手を伸ばす代わりに、我々はこれまで自らと全く無縁のものであったような声に耳を傾けた方が良い。その声の音調は、もし我々がそれを理解するように強いられることがなければ永遠に知られざるものだったかもしれない。この寛大な好意を、たとえそれを我々 に向けては決して拡げてくれない人々に対してさえも、拡げなくてはならないということを 我々は見出すだろう。」(SA, 754)

 

略号  本文及び注において、テイラーのテキストを引用・参照するに際しては、典拠を(以下の略号 , 頁数)として 示した。  

CM  “A Catholic Modernity?” in A Catholic Modernity?: Charles Taylorʼs Marianist Award Lecture, ed. by J.M. Heft, New York, Oxford: Oxford University Press, 1999, pp.13-37.  

SA  A Secular Age, Cambridge, Massachusetts and London: The Belknap Press of Harvard University Press, 2007.  

AW  “Afterword: Apologia pro libro suo” in Varieties of Secularism in a Secular Age, ed. by M. Warner, J. VanAntwerpen, C. Calhoun, Cambridge, Massachusetts and London: Harvard University Press, 2010, 300-321.  

CI  “Challenging Issues about the Secular Age” in Modern Theology, 26:3, 2010, pp. 404-416.

*1:Social Science Research Council が主宰する The Immanent Frame というプロジェクトは、世俗主義を巡って活発に交わされる今日の議論の中心を成しているが、その名からもわかるように、テイラーの議論によって強く触発され、動機づけられている。同一文脈上でとりわけ頻繁に言及される論者としては、テイラーの他に、ユルゲン・ハーバーマスやホセ・カサノヴァらの名を挙げることができる。

*2:これがとりわけ明白なのは“A Catholic Modernity?”においてであろう。だがこの一連の議論は Sources
of the Self: the Making of the Modern Identity (Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press,1989) の終りで既に予告されていたものでもある。

*3:いかなる自己も何らかの道徳的源泉と存在論的に緊密不可分であるとした Sources of the Self の議論を念
頭に置けば、この必要は承認されるべきであろう。

*4:90年代初頭、ホセ・カサノヴァは宗教の「脱私事化」を論じ、世俗化理論の刷新を目指した。また近年ではユルゲン・ハーバーマスが「ポスト世俗化」の標題の下、今日における宗教と政治的公共性との関係を主題化している。

*5:テイラーによれば、人は皆、自身が送る生を「何らかの道徳的 / 精神的輪郭を持つものとして」見ており、それぞれの活動や状況のうちのどこかには、それをする人の生が「より十全で、より深く、より重要で、より賞賛されるべき」ものとなるような「充実=十全性」が含まれているという(SA, 5)。

*6:

〔管理人註〕関連記事

*7:John Milbank, “A Closer Walk on the Wild Side,”(Michael Warner, Jonathan VanAntwerpen, Craig
Calhoun, eds., Varieties of Secularism in a Secular Age, Cambridge, London, Harvard University Press, 2010, pp. 54-82).

*8:Ibid., p.81

*9:Ibid., pp.81-82

*10:たとえば、Stephen Mulhall, “Sources of the Self ʼs Senses of Itself: A Theistic Reading of Modernity”(D.Z. Phillips ed., Can Religion Be Explained Away?, Basingstoke: Macmillan Press, 1996, pp. 131-160.)、Ian Fraser “Charles Taylor’s Catholicism”(Contemporary Political Theory, 2005, vol. 4, pp.231-252) など。

*11:たとえば、Saba Mahmood, “Can Secularism Be Otherwise?,”(Varieties of Secularism in a Secular Age,
pp. 282- 299), Talal Asad, “Thinking about Religion, Belief, and Politics”(Robert A. Orsi ed., The Cambridge Companion to Religious Studies, Cambridge: Cambridge University Press, 2011, pp.36-57)など。

*12:Jonathan Sheehan, “When Was Disenchantment?: History and the Secular Age”(Varieties of Secularism
in a Secular Age, pp. 217-242.).

*13:Ibid., p.232.

*14:Ibid., p.240

*15:Ibid., p.240.

*16:Ibid., p.240

*17:たとえば、José Casanova, “A Secular Age: Dawn or Twilight?”(Varieties of Secularism in a Secular
Age, pp.282-299) もその一つである。

*18:Milbank, “A Closer Walk on the Wild Side”, p.79.

*19:Ivan Illich, The Rivers North of the Future: The Testament of Ivan Illich, ed. by David Cayley (Toronto: House of Annansi Press, 2005). 臼井隆一郎訳『生きる希望―イバン・イリイチの遺言』藤原書店、2006年。

*20:Ibid., p.56. 前掲訳書、110頁。

*21:Ibid., p.47. 前掲訳書、96頁。

*22:Ibid., pp. ix-xiv. 前掲訳書、11-18頁。

*23:この箇所は精確には、その前文にある「[現存する]文明から批判的な距離を取りながら、それでもなおそれを擁護しようとする者たち」にとって妥当するものである(SA, 745)。だが文脈上、テイラーがこの立場の少なくとも近くに自身を位置づけていることは確かであるだろう。

*24:Illich, Rivers North of the Future, p179. 前掲訳書、302頁。

*25:Ibid., p.180. 前掲訳書、303頁。

*26:リチャード・ローティは、同様の表現で宗教を批判的に特徴づけた (Richard Rorty, “Religion as Conversation-Stopper,” in Philosophy and Social hope, London, Penguin Books, 1999, pp.168-174.)。

*27:Graham Ward, “History, Belief and Imagination in Charles Taylorʼs A Secular Age” in Modern Theology,26:3, 2010, p.348.

*28:このように、テイラーが批判するのは広く「会話を止める者」であるから、その矛先は内在的枠組の極端な「閉鎖」に立つ排他的人間主義だけでなく、当然その逆の立場、すなわち同様の極端さで「開放」を擁護する「狂信」にも向けられる。だが後者は前者に比べてその数においても劣り、また事実上、前者が享受している今日の知的ヘゲモニーとしての位置からは相当遠ざけられているため、それへの批判的言及は相対的に限定的なものに留まっている(SA, 551)。