巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人間の自由意志と、決定論について(『ベイカー福音主義神学事典(Evangelical Dictionary of Theology)』より)

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Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, 1984("Freedom, Free Will, and Determinism"の項を全訳)

 

目次

 

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執筆担当者 ノーマン・L・ガイスラー(1932~)、キリスト教弁証家

 

はじめに

 

人間の取る選択に関しては、大きく分けて3つの基本的立場があります。①決定論(determinism)、②非決定論/自由意志論(indeterminism)、そして③自己決定論(self-determination)です。

 

決定論というのは、あらゆる人間の行為は、先行的諸要素ないしは原因の結果であるということを信じる立場です。トマス・ホッブズやB・F・スキナー等の自然主義的決定論者たちは、「人間の行動というのは、自然因果という観点を通して初めて完全に説明し得る」と主張しています。

 

他方、有神論的決定論者であるマルティン・ルターやジョナサン・エドワーズは、人間の諸行為をご統治される神の御手に辿っています。

 

また、決定論と正反対の立場が「非決定論/自由意志論」です。この見解によると、(先行的なものであれ、他のなにかであれ)人間の行為には何ら原因がありません。

 

そして三番目の立場は自己決定論です。これは、「人は自らの行動を自由に決定することができ、どんな因果的先行事情も十分にその人の行為を釈明し得ない」と信じる立場のことです。

 

決定論(Determinism)

 

人間の諸行為というのは、先行的諸原因の結果であるというこの見解はこれまで、①自然主義的な観点と、②有神論的な観点という二方向から形成されてきました。

 

自然主義的決定論(Naturalistic determinism)

 

まず自然主義的な見解では、人間を、宇宙の中のおける機械的存在の一部だとみなしています。こういった世界の中では、あらゆる出来事は先行するもろもろの出来事によって引き起こされるのですが、先行するもろもろの出来事というのもまた、それ以前に起こったもろもろの出来事によって引き起こされ・・・という具合に、これは際限なく続いていきます。

 

人間はこういった因果連鎖の一部ですから、彼らの取る行動もまた、先行的諸原因によって決定されています。そういった諸原因は、環境であるかもしれないし、その人の遺伝的気質であるかもしれません。

 

そしてそういった諸原因は、人がなす行為に関して、それこそ本当に決定的なものなので、「ある人のある行為が実際になされた仕方以外のあり方で起こり得た」と正当にも言うことのできる人は誰もいないということになります。

 

それゆえ、決定論によると、ボブさんが今、ブルーのソファーではなく、茶色の椅子に腰かけているのは、(彼の)自由な選択によるものではなく、それは、それ以前の諸要因によって完全に決定されているのです。

 

自然主義的決定論の現代的具体例としては、B・F・スキナーを挙げることができます。彼は『自由と尊厳を超えて(Beyond Freedom and Dignity)』「行動主義について(About Behaviorism)」等の著者です。

 

 

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B・F・スキナー(B.F. Skinner, 1904-1990)。20世紀において非常に影響力の大きかった心理学者の一人で、自らの立場を徹底的行動主義(radical behaviorism)と称しました。また、スキナーは系統的に行動主義心理学の一員で、他にトールマン、ハル、ガスリーなどがいます。無神論者。(参照1参照2)。

 

 

スキナーは、「すべての人間の行動は、遺伝的および環境的諸要因によって完全に支配されている」と信じています。

 

しかしこういった諸要因は人間が選択をするという事実を排除しはしません。ですが、人間のとる諸選択が自由であるという可能性は排除しています。

 

スキナーにとっては、人間のなすあらゆる選択は、先行する物理的諸原因によって決定されているのです。それゆえ、人というのは、彼の行動の道具的原因とみなされます。

 

すなわち、彼は、肉屋の主人の手の中に握られている「包丁」のような存在であり、あるいは大工さんの手の中にあるハンマーのような存在です。彼が行動を生じさせるのではありません。そうではなく、彼というのは誰か別の動作主によって行為が為される際に用いられる「道具」に過ぎないのです。

 

決定論擁護のためにしばし用いられる哲学的議論というのは次のように始まります。

 

 「あらゆる人間行動は、完全に原因がないか(uncaused;自存), 自己原因であるか(self-caused)、もしくは外的な何かによって引き起こされるかである。

 

 しかるに、人間行動は自存ではあり得ない。なぜなら、原因なく何事も起こり得ないーーつまり、何かの原因となり得ないものは存在しないからである。

 

 また、人間行動は、自己原因でもあり得ない。なぜなら、それぞれの行為は、それ自体の原因となるべくそれに先行して存在しなければならないからであるが、それは不可能な話である。それゆえ、唯一残る選択肢というのは、『あらゆる人間行動は、完全に外的な何かによってのみ引き起こされる』というものである。」

 

自然主義的決定論者は遺伝とか環境とかいったものを外的諸原因だと主張し、他方、有神論的決定論者は神こそがあらゆる人間行動の外的原因であると信じています。

 

さて、上記の議論にはいくつかの問題があります。まず第一に、この立場は、自己決定(self-determination)を「人間の諸行為がそれ自身の原因になるという教えである」と誤って理解しています。

 

例えば、自己決定論者は、サッカーの試合の中の競技がそれ自体で原因を作っているのではなく、あくまでも、選手たちが競技を遂行すると信じています。実際、試合をすることを選んだのは選手たちなのです。それゆえ、競技されたサッカーの試合の原因は、試合をした選手たちの内に見い出されます。

 

また自己決定論者は、遺伝や、環境、ないしは神といった外側の諸要因からの影響を否定してはいません。しかしながら、彼らは、「もしも〔選手たちの内の〕誰かが試合に参加しないことを選択したのなら、その人は試合に参加しないという決定をすることができていたはずだ」と考えています。

 

第二番目に、決定論のための弁証は、自滅的です。決定論者は、彼も、そして〔対話相手である〕非決定論者のAさんも両者共に、それぞれが信じていることを信じるようあらかじめ決定されていたという事を主張しなければ筋が通りません。

 

それなのに、決定論者は、非決定論者のAさんに対し、「決定論こそ真であり、それゆえあなたはこれを信じなければならない」と彼を説服しようとしています。

 

しかし純粋なる決定論の論理でいくなら、「~~すべきである」という事自体、何ら意味を持っていません。なぜなら、「~~すべきである」というのは、「それ以外のあり方ややり方になるということが可能であるし、またそうであるべきである」という事を示唆しているからです。

 

しかし決定論の論理でいくと、これはあり得ない話です。そのため決定論者は次のように弁明するかもしれません。「彼は、『あなたは決定論を信じるべきです』とAさんに語るよう、あらかじめ決定されていたのです。」

 

しかし非決定論者のAさんは次のように言い返すことができるでしょう。「私は、あなたの信じている説とは正反対の非決定論を信じるよう、あらかじめ決定されていたのです」と。

 

それゆえ、決定論は、自分に反対する立場を駆除することができません。仮に駆除できようものなら、たちまちの内に、自由意志を認める立場の可能性に門戸を開くことになりかねないからです。

 

最後のポイントですが、もしも自然主義的決定論が正しいのなら、それは、①自滅的であるか、②虚偽であるか、③何ら見解を持っていないのかになってしまうでしょう。

 

なぜでしょうか。それは、決定論が真であるか否かを決定するためには、思考のための合理的基盤が必要になってきます。そうでなければ、誰も、それが真なのか偽なのか分かりません。

 

しかしながら自然主義的決定論者は、「あらゆる思考は、環境要因などといった非合理的諸原因の産物です」と考えています。それゆえ、あらゆる信仰を非合理的なものにしています。そうすると、かような基盤の上にあっては、何びとも「決定論が真が偽か」について知ることはできないという事になります。

 

そうした上で、誰かが「決定論は真です」と主張するのなら、この立場は自滅してしまいます。なぜなら、皮肉なことに「どんな真理主張もなし得ない」という旨の真理主張が今ここでなされてしまっているからです。

 

もしも決定論が虚偽であるなら、それを道理的に拒絶することができ、別の立場の真偽性を考慮することができます。ですが、仮に、これが真でも偽でもないとします。その場合、この立場には見解が皆無だということになります(no view at all)。

 

なぜなら、真理に対するいかなる主張もなされていないからです。いずれにせよ、自然主義的決定論を真と主張することはできません。

 

有神論的決定論(Theistic determinism)

 

さて、決定論のもう一つの形態は、有神論的決定論(theistic determinism)です。

 

これは、人間の行動を含めたすべての出来事が、神によって原因(決定)されるという見解です。この見解を持つ有名な人物として、ピューリタン神学者であるジョナサン・エドワーズを挙げることができます。

 

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ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards, 1703-1758)

 

彼の主張は、「自由意志ないしは自己決定論という概念は、神の主権と相反している」というものです。

 

ーーもしも神が本当にすべての事象を統治しておられるのなら、それなら、誰も神の聖意図に反して行動することはできないということになります。それゆえ、神が主権者なる神であるためには、神は、それが人間であれ別の何かであれ、あらゆる出来事の原因とされなければなりません。

 

エドワーズはまた、自己決定論は自己矛盾していると主張しています。

 

 「なぜなら、もしもある人の意志が出来事ないしは決定に対し均衡が保たれており、あるいは無関心であるのなら、その時、彼の意志は決して作動しないはずです。なにか外的な力が均衡を乱さない限り、てんびんはそれ自体では傾きません。

 

 それと同様、まず神が〔その人の意志を〕動かしてくださらない限り、彼の意志は決して作動できないのです。それゆえ、人間の行為を自己原因(self-caused)によるものであると考えるのは、あたかも、無が何かを引き起こしていると考えるのに等しいのです。しかしながら実際には、あらゆる出来事には原因がなければならず、これを否定する自己決定論は、自己矛盾だと結論づけなければなりません。」

 

エドワーズの生きた時代に、何人かの思想家たちが上記のような彼の見解に対し異議を唱えました。彼らは言いました。「あなたのその見解は、箴言1:29-31、ヘブル11:24-26といった、人間の自由を支持する聖書的立証に反しているのではありませんか?」と。

 

それに対し、エドワーズは『意志の自由(Freedom of the Will)』という著書を記すことで彼らに応答しました。

 

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それによると、人間の自由というのは、彼が決定することをやる力のことではなく、彼が望んでいることをやる力です。そして人間の願望の原因は神であり、人は常にそれに従って行動しています。

 

それゆえ、自由というのは自存(uncaused)ではなく、神によって原因され引き起こされているのだ、というのがエドワーズの回答でした。

 

さて、自然主義的決定論と同様、有神論的決定論に対しても、いくつかの点から反論がなされ得るでしょう。

 

まず第一に、自由を人が望むところのものとして捉えるのは不適切です。人は必ずしも常に自らの望むことを為しているわけではありません。(例えば、ごみ箱の中をごそごそ点検したり、汚いオーブンをきれいにしたりする行為など。)

 

さらに、時として人は、自らがそれを実行に移そうと決心しているわけではないことを心に思い描き、それを望んでいることがあります。例えば、ひどい目に遭わされた誰かに対し復讐することなどです。

 

二番目に、ーー自己決定論の見地からみますとーーエドワーズの立場には自由意志に対する誤解があります。

 

自由な人間の諸行為は、自存(uncaused)ではなく自己原因(self-caused)です。ある事象が「自己原因である」と言うのと、それらが「無から生じた」ないしは「それら自身に先立って存在していた」と言うのは別のことです。

 

そういったものは自存、ないしは「自己原因としての存在(self-caused being)」であるということになり、もちろん、それは理に適っていません。

 

他方、自己決定論は次のように主張します。「人間による自由の行使は、『自己原因としての生成(self-caused becoming)』であり、それは矛盾していません。」*1

 

換言しますと、人は存在し、その上で、自由に自らの諸行為を引き起こすことはできるのですが、彼自身の存在の原因となることはできないのです。

 

三番目に、エドワーズの議論は、人間というものに対する欠陥ある見解に患わされていると思います。

 

人間というのは、なにか外的力がある方向に傾けない限り動くことができないような、機械(てんびん)のような存在ではありません。そうではなく、人は、人格的生ける魂(personal living soul)として神のかたちに創造された存在であり(創1:26-27;2:7)、彼は堕落後であってさえもそのかたちを保持しています(創9:6;1コリ 11:7)。

 

そしてこのかたちには、選択をなし、それに基づいて行動する能力も含まれています。それゆえ、人は人格をもった存在ですから、(天秤といった)非人格的かつ機械的な型によってそのような人格的存在の行動を描写するというのは、やはり不適切であったと言わざるを得ないでしょう。

 

それから四番目ですが、「人間の自由は神の主権と相反している」というエドワーズの見解は誤っていると思います。

 

神は主権的に、ーー人を自由な被造物として創造することによりーー各々の人間に自由をお与えになりました。そして神は主権的に、--私たちの存在を瞬間瞬間、保持し支えてくださることにより(コロ1:17)ーー、引き続き、私たちが自らの自由を行使することを許可し続けてくださっています。

 

それゆえ、神の主権は、人間の自由によって妨げられることはなく、むしろ、人間の自由を通して神に栄光が帰されます。なぜなら、神は人類に自由意志をお与えになり、人類を保ってくださっています。

 

それにより、人類は自由に行動することができ、且つ、自由意志への侵害なしに、神はご自身のすべての聖目的を成し遂げることがおできになります。ウェストミンスター信仰告白にも次の事が記されています。

 

ウェストミンスター信仰告白

第5章 摂理について

2 第一原因である神の予知と聖定との関連においては、万物は不変的かつ無謬的に起こってくる(1)。しかし同一の摂理によって、神はそれらが第二原因の性質に従い、あるいは必然的に、あるいは自由に、または偶然に起こってくるように定められた(2)

(1)行伝2:23

(2)創世8:22、エレミヤ31:35、出エジプト21:13、申命19:5(*)(**)

*出エジプト21:13と申命19:5を比較、**改革派教会訳は、列王上22:28,34、イザヤ10:6,7を欠落している。

 

 

非決定論/自由意志論(Indeterminism)

 

この見解によると、人間の行動は完全に自存であり、そこに原因はありません(uncaused)。人間の諸行為を引き起こす先行的ないしは同時的な諸原因は一切存在しないのです。

 

それゆえ、あらゆる人間の諸行為は自存であり、どんな行為であれ、それは他のいかようにも起り得ると非決定論者は信じています。

 

また非決定論者の中には、この見解を人間事象を超えた全宇宙的次元にまで拡大解釈している人々もいます。そしてその際、あらゆる出来事の不確定性を支持するべく、ハイゼンベルグの不確定性原理(独: Unschärferelation 英: Uncertainty principle)がしばし引き合いに出されます。

 

 

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この原理によると、(素粒子などの)亜原子粒子がどこにあるのか、そしてある瞬間にそれがどれくらいの速さで進んでいるのかを予測することは不可能であるとされています。

 

「従って」と彼らは言います。「素粒子の事象が生来的に予測できないのなら、複雑に入り組んだ人間の諸行為など尚一層のこと予測不可能であるにちがいない。」

 

そしてここから、彼らは人間および非人間の事象は自存だと結論づけたのです。非決定論の主唱者として有名なのは、ウィリアム・ジェームス、それからチャールズ・パースです。

 

 

ウィリアム・ジェームズ(William James、1842- 1910)、アメリカの心理学者。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表。日本の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼしました。夏目漱石も、影響を受けていることが知られています。さらに、後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』など、様々な影響をもたらしています(参照)。

 

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チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce、1839-1914)。アメリカの論理学者。プラグマティズムの創始者。*2参照 

 

 

この見解には少なくとも3つの問題があります。第一に、ハイゼンベルグの不確定性原理は因果律(causality)を取り扱っているのではなく、予測性(predictability)を扱っています。

 

ハイゼンベルグは、亜原子粒子の運動は予測不可能であり、測定不可能であると主張しているのであって、それらの運動が自存(uncaused)であるとは言っていません。それゆえ、この原理を非決定論擁護のために使うことはできません。

 

第二番目に、非決定論は(すべての出来事には原因があるという)因果律の原理を、不当に否定しています。何が原因なのかが分からないからといって、それがそのまま、「その出来事には原因がないのだ。自存なのだ」という事への証拠にはなりません。そういった知識の欠如は私たち人間側の無知の反映しているのです。

 

第三に、非決定論は、責任を伴うあらゆる行動を人間からはく奪しています。もしも人間の行動に原因がないのなら(uncaused)、彼の為した事がどんなことであれ、それらは称賛の対象にも、また非難の対象にもなり得ない、ということになってしまいます。

 

そうなりますと、あらゆる人間の行為は非合理的で非倫理的なものとされます。それゆえ、どんな行為も理に適った責任を伴うものとはなり得なくなります。

 

非決定論は、クリスチャンには受け入れることのできない見解です。なぜならもしも非決定論が真なら、①神の存在、もしくは、②神と宇宙の間に存在する因果関係を否定しなければならなくなるからです。

 

しかし勿論、クリスチャンはこのような事を受け入れることはできません。というのも、キリスト者の立場というのは、神がこの世界を創造され、摂理的にそれを保持され、その事象に参入しておられるということを信じる立場だからです(マタイ6:25-34;コロサイ1:15-16)。

 

自己決定論(Self-determinism)

 

この見解では、ある人の行為は彼自身によって引き起こされます。また自己決定論者は、遺伝や環境といった諸要素が多くの場合、人の行動に影響を及ぼしていることも認めています。しかしながら、彼らは「そのような諸要因がその人の行動における決定的原因である」という見解を否定しています。

 

無生の客体は外的原因なしには変化をしませんが、人格的主体は彼自身の諸行為を指揮することができます。前述しましたように、自己決定論者は、「出来事には原因がない」もしくは「それらの出来事はそれ自身の原因となっているのだ」という考えを拒絶しています。

 

そうではなく、彼らは「人間の諸行為は人間によって原因され得る、引き起こされ得る」と信じているのです。この見解の著名な支持者として、トマス・アクィナス及びC・S・ルイスを挙げることができます。

 

さて、自己決定論に対してなされる反論の一つに次のようなものがあります。「もしも、全てのものが原因を必要としているのなら、意志するという行為(acts of the will)もまた原因を必要としていることになりませんか?そうすると、行為をするべく何がその意志に原因したのでしょうか?」

 

この問いに対し、自己決定論者は次のように応答することができるでしょう。

 

 「Aさんに決定をなさしめたのは、Aさんの意志ではなく、Aさんの意志という手段を介し行為するAさん当人なのです。また、その人が自分の行為の第一原因なのですから、『第一原因の原因は何ですか?』と問うことは無意味です。

 

 神は、世界を創造されるに当たり、いかなる外的力からも原因されませんでした。それと同様、人は、ある行為を選択するに当たり、いかなる外的力からも原因されません。なぜなら、人間は神のかたちに造られたからであり、それには自由意志の所有も含まれています。」

 

また別の反論として、「聖書的予定説や(神の)予知というのと、人間の自由意志というのは互いに両立不可能であるように思われます」というものがあります。

 

しかしながら、聖書は明確に、堕落した人間であってさえも、選択の自由があることを示しています。(例:マタイ23:37;ヨハネ7:17;ローマ7:18;1コリ9:17;1ペテロ5:2;ピレモン14)。

 

さらに、神はご自身の予知(foreknowledge, πρόγνωσιν)に従い予定する(predestines)と聖書は教えています(1ペテロ1:2)

 

予定説は神の予知を基盤とはしていません。(もしそうなら、神は人間の選択に依存しているということになってしまいます。)また、予定説は神の予知から独立もしていません。(なぜなら、全ての神の御行為は、統合され調和しているからです。)

 

神はご自身の恩寵を受け入れる人、またそれを拒む人それぞれに関し、これを〈知りつつ決定され(knowingly determines)〉、かつ〈決定的・確定的にそれを知っておられます(determinately knows)〉。

 

自由意志に関しさらに次のような点を挙げることができます。「神の掟は、人間に対する、神聖なる "ought"(「~すべきである」)を携行しており、それが含意しているのは、人間が神の掟に対し積極的に応答することができるし、またそうすべきであるという事です。」

 

神の掟に従う責任は、神より授与された恩寵により、彼が掟に応答する能力を必要せしめます。

 

さらに、もしも人間が自由でなく、彼の為すあらゆる行為が神によって決定されているのなら、その時、神はダイレクトに悪に対する責任を負うことになります。しかしそのような結論は明確に御言葉と矛盾しています。(ハバクク1:13;ヤコブ1:13-17)。

 

それゆえ、自己決定論のある種の形態が、おそらく、「神の主権と人間の責任」に関する聖書的見解と最もよく適合しているのではないかと思われます。

 

(執筆者:ノーマン・L・ガイスラー、ヴェリタス福音神学校、南部福音神学校創立者)

 

キリスト教弁証に関する関連記事

 

An Apologetic for Apologetics – NORMAN GEISLER

 

訳者の小さなメモ書き

 

神の主権と人間の自由意志に関してですが、現在までのところ、私は、「これに関する自分の立場は~~です」と言えるような明白な見解を持っていません。

 

また本稿で、N・ガイスラー師の論考を、考察のための参考資料として紹介してはいますが、かと言って、師の見解を積極的に「推進」しているわけではありません。また、「予定説」は厳密にいって、はたしてガイスラー師のカテゴライズしている「有神論的決定論」とどのくらい一致しているのか・していないのかといった問いもあります。

 

この論争は何千年と続いており、問題の究極的解決は、おそらく主の再臨を待つより他にないのかもしれません。とは言え、ここから無限に派生していくその他もろもろの教理的課題を考える時、このテーマの重要性はやはり無視できないものがあると思っています。

 

誠実真摯かつ学的に緻密な聖書学者なら誰もが認めるように、前千年王国説・後千年王国説・無千年王国説は結局どれも100%明瞭かつ決定的な回答を持っておらず、それゆえに、このテーマに関する健全な終末論理解のための基本的研究姿勢としてはおそらく「択一的」であるよりはむしろ「相補的」であることの方が望ましいのだとするなら、もしかしたら、本稿のテーマもまた、(両極のハイパー主義を避けつつ)そういった相補的取り組みの中で、より包括的理解を目ざしていくことが大切なのかなと思わされます。

 

とは言え、「私はハイパー主義の両極端を避け、バランスのとれた『中庸』な立場に立っていますよ」と断言できる人にも、ある意味、心もとないものを感じてしまう自分がいます。

 

というのも、こういった方々が自分の立ち位置として「中庸」と考えているそのいわゆる「バランスの取れた」座標点とは、何を基準に(誰を基準に/どこが基準に/どれを基準に)測られた上での「中庸」なのか、そこが正直自分にはよく分からない場合が多いからです。

 

また自分も含め、人は往々にして、自分や自分のポジションを軸の中心(中庸)に置いて右、左への距離を測ろうとする傾向があると思います。

 

ですから、極度に悲観的な言い方をすれば、もしかしたら(自分を含めた)私たちの多くは、〔仮に神的な視点、神的な座標軸で物事の全体像を鳥瞰することができたとした場合〕、多くの事柄において、実際には、中庸などではなく、「重度のハイパー」か「軽度のハイパー」という両軸の間をウロウロしている可能性も無きにしもあらずだと思うのです。(Oh, I hope not!)

 

そしてそう思う時、私は、聖書の真理を日々一生懸命探究している仲間の信仰者たちの立場を軽率に「行き過ぎ」「極端」呼ばわりすることに非常な躊躇を覚えるのです。

 

つまり、〔神的な座標軸でみた場合〕軽度のハイパーのAさんが、〔これまた神的な座標軸でみた場合〕重度のハイパーのBさんを「あの人の聖書理解ってほんと極端だよねぇー」と測量したところで、所詮、第三者的にみれば、AさんもBさんもある種の「ハイパー主義者」であることには変わりがなく、要はそのハイパー濃度が、どのくらい濃いか/薄いかの違いだけです。

 

(*しかし誤解のないように付け加えておきますが、仮に〔最悪の場合〕それが濃度の違いでしかなかったとしても、それでも、その濃度差をできる限り、きちんと査定し、どこまでが『正統的』で『健全』な解釈と言えるのかを裁断する聖書教師・神学者の方々の尽力と努力の価値は強調しすぎてもしすぎることはないと思います。

 

例えば、外科病棟に入院されている方々は一応皆、「病人」(あるいは怪我人)というカテゴリーに入ります。しかしある医者が、「人間っていうのはね、程度の差はあれ、みんなある意味、病人なんですよ。だから、病室にいる人たちだけを『病人』扱いするの、もうやめませんか?」と言い出し、患者の具体的症状をあまり顧みなくなったとします。そうすると、その人の大義や自論はどうであれ、事実上、この人は医師としての本来あるべき役割を果たさなくなっています。

 

真に患者の回復を祈る医師なら、その患者の症状をできるだけ的確に診断し、それが十二指腸潰瘍なのか、脳腫瘍なのか、脳腫瘍ならそれが悪性のものなのか否か、そして腫瘍の広がりは現在どこまで進行しているのか・・といった問題に真剣に取り組むはずです。)

 

また、「すべての事を識別しなさい」(1テサ5:21)と仰せられた主は、私たちにさまざまな事象スペクトルを《外側から》見、緻密に検証し、それによってあらゆる逸脱(極端)から自らを守るよう、御霊によって知恵と洞察力を与えてくださっていることもまた事実です。

 

そうした上で、(ひとりよがりな独断と偏見を最大限避けるよう努力しつつ)歴代のキリスト教会の信仰的立場や教義などをも十分に参考にした上で、たしかにある現象や運動、神学的立場が「逸脱傾向にある(orあるかもしれない)」と判断するに至る場合もあると思いますし、ある意味、その営為とそこから生じてくる絶えざる自己省察(軌道修正)は、私たちの信仰のレースに不可欠な要素であるのかもしれません。読んでくださってありがとうございました。

ーーーーー

*1:訳者注:存在と生成(being and becoming)の定義:万象を存在するものとみるか生成しているものとみるかは,きわめて古くからの哲学的課題で,その両極の立場を示すのがパルメニデスとヘラクレイトスです。パルメニデスは非存在は存在しないとの原理から,非存在を前提する生成を認めず,不動不変にして一なる存在を主張しました。ヘラクレイトスは万象を相対立するものの間の抗争による生成とみましたが,その全体においてはロゴスの統一が支配するとして絶対的存在を生成の上位に認めました。(出典 ブリタニカ国際大百科事典

*2:訳者注:関連記事。