巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

主日礼拝とはまず第一に信者のための集まりです。(by R・C・スプロール)

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牧者たちが羊を養う代わりに、道化師たちが娯楽でヤギを楽しませるような時代が、やがて教会に到来するだろう。――チャールズ・H・スポルジョン

 

 

R.C. Sproul, Good Intentions Gone Badより抄訳(here

 

「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」という諺があります。善い意図でなされるものであっても、破滅的な結果や帰結をもたらし得るということです。

 

今日の米国における礼拝革命を見るにつけ、私はそういった善意により打ち建てられている危険な道をそこに見ています。ここ数十年、アメリカ教会の礼拝スタイルを変遷させていく上での彼らの善意というのは、「失われた世界の魂になんとかリーチしよう」という思いでした。失われた世界の魂――そう、多くの点で礼拝における伝統的な形式やスタイルを拒絶した団塊世代やX世代に代表される世界の人々に、です。

 

多くの人は、教会生活というのを時代遅れでつまらないもののように感じていましたので、そういう人々のニーズを満たすべく、私たちは神礼拝の仕方にラディカルな変革を推し進めようとしてきました。

 

おそらく過去半世紀の間にそのような形で発展してきた最も顕著なモデルが、いわゆる「求道者にやさしい型(“seeker-sensitive model”)」と言われているスタイルです。

 

ここで言われている「求道者」というのは、未信者で、教会の外にいるけれども人生の意味や大切さを探求している人々のことだと定義されています。そしてそういった人々に福音を届けるべく――主日礼拝のかたちを作り直すことも含め――伝道技術の駆使し人々にリーチしようという彼らの善意は、しかしながら、聖書の中に据えられているある重要な真理を理解し損なっています。

 

初代教会をみますと、1世紀のクリスチャンたちは、主の日に集まり、使徒たちの教えを学び、互いに交わり、祈り、そしてパンを裂いていました(使徒2:42)。

 

そしてこれは、未信者のための集まりではありませんでした。信者たちが「共に集まる」という性質のものだったのです。もちろん、主が警告しておられたように、信者の間には常に、偽りの信仰告白をする者たちが紛れ込んでいました。麦と共に育つ毒麦が絶えず存在していたのです(マタイ13:36-43)。

 

しかし私たちは、毒麦たちの切実なニーズや願いを満たすことを主眼に教会を構築するようなことはしません。公同の集まりの目的――そのルーツは旧約聖書に溯ります――は、神の民が、主に賛美と敬拝のいけにえを捧げるべく、共に集まることにあります。ですから、礼拝の第一規則は、主をお喜ばせするやり方によって神礼拝をすべく、信者たちのために企図されるものでなければなりません

 

旧約聖書をみますと、神に命じられたことに従うよりはむしろ、人々が自分の好みのままに礼拝形式をこしらえた時、主の激しい怒りを買った多数の例が記載されています。

 

おそらくその中でも最も顕著な例が、レビ記10章に記されている、アロンの息子ナダブとアビフの突然の死の出来事だと思います。彼らは「主が彼らに命じなかった異なった火を主の前に捧げた」(1節)ことで、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死にました(2節)。

 

この二人の若い祭司たちの「実験的トライ」は、神の御心を損なうものでした。そしてそれに対する応答として、主はモーセを通しアロンに次のように言われました。「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす」(レビ10:3)。

 

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 (PHOTO: INSTAGRAM / PASTOR STEVEN FURTICK, Elevation church, source)

 

公同礼拝は不敬なものや世俗のものを祝うための場ではありません。X世代の人々にとっては、日曜の朝の礼拝が、スタバのような雰囲気になった方がより「いい感じ」で魅力的に映るかもしれませんが、それは到底神をお喜ばせる道ではありません。

 

また礼拝の性質を再構築しようという試みの土台として存在するもう一つの誤った前提とは次のようなものです。つまり、エレクトロニクス時代のインパクトをもろに受けている現代の世代は、文化的・文脈的影響によってあまりに変化しているため、彼らはもはや、講解説教というような伝統的なやり方ではリーチできない、という前提です。

 

20世紀の初頭、リベラル派の説教者であったハリー・エマーソン・フォスディックは、次のような指摘をしました。曰く、使徒やら預言者たちやらが何千年も前に書いた内容を聞きにいそいそと教会にやって来るような人々はもはやいないだろう、と。

 

フォスディックのような人々によると、使徒や預言者の言葉やメッセージは全く今日性を持たないものであり、それゆえ、説教のフォーカスは、多くの場合において、次第に神の御言葉の講解から遠ざかっていくようになりました

 

現代文化のさまざまな変化の中に捕らわれている人々にリーチするためには、こういった礼拝形式の変化もやむをえないし、必要であると私たちは考えています。

 

ここに存在する誤った前提というのは、ここ50年余りの間に、人類の構成性質が変化してしまったという考えです。――あたかも、理性(mind)を通しては人々の心に、もはやリーチできないとでも言っているかのように。

 

またもう一つ人々が抱いている前提(思い込み)は、神の御言葉の力はその効能性を失ってしまったので、自分たちの教会でなにかパワフルで感動的な礼拝経験をしたいのなら、御言葉以外の何か他のものにその源を見い出さねばならないというものです。

 

こういった一連の動きの意図自体は、すばらしいものかもしれません。しかしそれらがもたらす結果は、今も、そして今後も引き続き、大惨事であり続けるでしょう。

 

 

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