読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

懐疑と絶望に苦しむ者への慰め――ウィリアム・クーパーの生涯と信仰詩

                          

                         f:id:Kinuko:20170219075917p:plain

 

新生した信仰者が懐疑や不可知論の沼に陥ることはあるのでしょうか。他の人の心や思考のかたちは目に見えないので客観的なことは何も言えませんが、私個人に関して言えば、そうだと告白せざるを得ません。この状態に陥ると魂は、必死の抵抗にも関わらず、うす暗い淵へ底へと足を引っ張られていきます。ダビデが「泥沼」(詩40:2)と表したあの場所にです。

 

そんな時ふと、ウィリアム・クーパー(William Cowper, 1731年ー1800年)のことを思い出し、心が慰められます。彼は讃美歌作者であり、詩人ですが、生涯強度の憂鬱病に悩まされ、信仰を持ち新生した後にも、何度となくうつ病が再発し、絶望と懐疑に苦しめられ、複数回に渡り、自殺未遂に追い込まれました。

 

f:id:Kinuko:20170219074640p:plain

 

彼の手記を読むと、主を求め、魂の救いを求める真摯な思いと同時に、メランコリーや虚無感、信じたいけど信じることができない苦悶が生々しく書かれており、その苦しさが伝わって来、かわいそうに本当に辛かったんだろうなと胸が締めつけられます。例えば、療養先の田舎で彼は次のような詩を書いています。

 

「ポプラの木立が伐り倒され、その涼しい木陰も、葉擦れの音も、昔の思い出になってしまった。/歳月は矢のように飛び去るが、私の人生も例外ではない。/私もこの木立同様、まもなく埋もれてゆく。胸の上には芝生を、頭の上には一個の石を戴いて埋もれてゆく。/そして、今までの木立のかわりに、新しい木立がやがて生い茂るかもしれない。

 

私はこの情景を前にして、そこはかとなく、人の世の楽しみのはかなさに想いを馳せる。/われわれの命は確かに短い。だが人間の喜びとするものの方が遥かに永続きせず、われわれよりももっと早く死んでゆく。」クーパー「ポプラの野原」より抜粋

 

伝道者の書1:2-11

2伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。

3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

4世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。

5 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。

6 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。

7 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。

8 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。

9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

10 「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。

11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。

 

しかし、うつと絶望に苦しむクーパーを主は放置しておかれませんでした。「アメージング・グレイス」の賛美の作者として有名なジョン・ニュートン牧師が、ある事からクーパーの状態を知るに至り、それ以後、誠実に彼の魂のケアと助けのために奔走するようになったのです。

 

クーパーはニュートン牧師への手紙の中で、「本当に神さまが私の牧者としてあなたを遣わしてくださいました」と感謝の思いを綴っています。そして二人は終生の友となったのです。こうしてニュートン牧師とクーパーは心を合わせ、共に『オウルニィの讃美歌集』を編みました。

 

しかし小康状態はあっても、結局、クーパーの精神の病とうつは生涯彼につきまとって離れませんでした。なぜ信仰深く真摯な魂にこれほどの試練と苦しみが与えられたのかは分かりません。ただ神様だけがご存知です。

 

しかしながら、一つだけ言えることは、苦悶のただ中で書いた彼の信仰詩がやがて歌となり、今の今に至るまで世界中の信仰者の慰めとなり励ましとなっているという事実です。私たちの『聖歌』の中にも彼の讃美歌が3編収められています。(274番「くすしきみかみの」、288番「みかみとともなる」、428番「とうとき泉あり」)

 

特に428番の「とうとき泉あり(There is a fountain filled with blood)」は、彼にとって最も大切な詩であり、イエス・キリストの血潮による罪の赦しを信じるクーパーの全身全霊での告白だったそうです。

 


ブログ上で信仰や証を書いていらっしゃるある親愛なる姉妹に先日私は、疑問や迷いも含め、今彼女が通らされている過程をそのまま書き続けてくださいと激励しました。

 

クーパーは終生、「ああ自分のような者はだめだ。きっと神にも見捨てられているだろう」という絶望感に苦しめられ、信仰の七転八倒を繰り返していました。しかしそれでも尚、主を見上げ、主にすがり続けたクーパーの信仰の道程は、彼のまったく知らないところで、実は主によって用いられていたのです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリ12:9)

 

たとい懐疑や絶望の沼に落ち込み、苦しみもがくことがあっても、いや、そのような時にこそ、私たちは幼子のように主の胸に飛び込んでいくことができると思います。どうか今というこの瞬間にも、私たち一人一人に主の恵みと憐れみが注がれますように。アーメン。