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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「夫に対する妻の恭順の掟は、新約期、『伝道目的』のために出されていたものです。しかし今日ではそういった目的はもはや有効性を持っていません。ですから、妻は夫に従う必要はないのです。」という主張はどうでしょうか。

キリスト教リベラリズムの形態 創造 VS 文化的解釈 対等主義(Egalitarianism)

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 Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 6

 

 ウィリアム・ウェブは、次のように言っています。

 

――ペテロは、「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」(1ペテロ3:1)と勧戒しています。しかし、今日ではペテロが支持する、そういった種類の「一方的で、家父長的タイプの恭順」は、「かえって、〔救われていない夫を〕不快にさせ、キリストから遠ざけてしまいかねません。」

 「ですから」とウェブは、次のように結論付けています。「この聖句に述べられている『伝道目的』というのは、現代のセッティングにおいては功を奏さない("not likely to be fulfilled")といえましょう。」Webb, Slaves, Women and Homosexuals, 107-8.

 

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ウェブ氏の提唱している新しい解釈法 A Redemptive-Movement Hermeneutic引用元

 

彼は、1ペテロ3章のこの掟が、「文化的に拘束されている "culturally bound"」と捉えた上で(同著p105)、妻たちは今日、〔夫に対する〕伝道を、その他の方法でなしていくことができると言い、次のように述べています。

 

今日の妻は、一方的な恭順というフレームワークではなく、あくまで相互恭順(mutual-submission)という枠組みの中で、夫に敬意や尊敬を示していくことで、依然として、聖書的テクストの中にあって伝道上の目的を果たしていくことができるのです。(同著 p108)

 

回答1.

この立場は実質上、「妻たちは今日、1ペテロ3:1-2に従うべきではない」と言っています。

 

ここでウェブが実質、何を言おうとしているのか私たちははっきり知らなくてはいけません。彼は、今日の現代文化にあっては、夫たちに何ら特別な権威があってはならないと言っているのです。そして未信者の夫を持つクリスチャンの妻は、1ペテロ3:1-2に従う必要はないと言っているのです。

 

1ペテロ3:1-2

同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

 

これまで何千何万という信者の妻たちが、その恭順な態度によって、未信者の夫をキリストの元に勝ち取ってきました。そして今日においても彼女たちを通して数多くの証が生み出されています。ウェブのこの主張は、そういった彼女たちの証を卑小化するものです。

 

回答2.

この立場は、クリスチャンの福音伝道を、「おとり商法的」テクニックに貶めます。

 

ウェブの主張の二番目の問題は、この主張が最終的には、1世紀のクリスチャンの福音伝道を「おとり商法」のテクに貶めてしまう、という点です。ウェブのロジックは次のようになっています。

 

1)ペテロの掟は、妻の恭順なふるまいによって未信者の夫を惹きつけるためのものである。

           ↓

2)しかしこういった未信者の夫たちがいざキリストに信仰を持ち、成長していくにつれ、彼らは徐々に、ガラテヤ3:28などの聖句から、「平等」と「相互恭順」のための『種となる思想("seed idea")』を発見するようになる。

           ↓

3)そして(ウェブによると)、夫たちは、妻の恭順を命じるこのような掟は、倫理的な欠陥のある型(pattern)であり、従って、対等主義の立場を支持すべく、こうした掟は破棄されなければならないということを徐々に学んでいくようになる。

 

従って、ウェブの論法によれば、1世紀の福音伝道の方法というのは、とどのつまり欺きの術策に他ならず、その当時、――未信者を勝ち取るべく――神の言葉は人々に、「倫理的に欠陥のある方策を用いるよう命じていた」ということになります。

 

回答3.

この立場は、新約聖書のその他の掟に対する不従順行為をも人々に促していく結果をもたらします。

 

ウェブの説明の三番目の問題点は、こういった解釈によって、他の多くの新約の掟に対する不従順にもGoサインが出され、そういった不従順行為の門戸を開く結果になっていく点にあります。

 

つまり、〔ウェブの解釈を受け入れた〕人々は、ある聖書の掟の理由が、現代文化においてもはや功を奏さないと判断するなら、「それらの掟に従う必要はない」と結論付けていくのです。例えば、地上の政府に従いなさいという掟も、その行為によってもたらされるであろう良い結果というものが基になっています。

 

1ペテロ2:13-15

13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、

14 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。

15 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。

 

しかし今日、人々は次のように理由づけすることができるかもしれません。「今日、上に立つ権威(政府)に従うことは、もはや『善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること』にはならない。なぜなら、ある社会のある政府はあまりにも過酷に福音に敵対しているため、私たちがそういった権威に従おうが否が、どのみち結果は同じだ。だから、私たちは今日、この掟に従う必要はない。」

 

回答4.

新約聖書の中には、なぜ私たちが恭順であらねばならないのか、その他複数の理由が挙げられています。ウェブのこの立場は、そういった諸理由を軽視することにつながります。

 

ウェブのアプローチの四番目の問題点は、この解釈が、新約聖書で述べられている「妻の夫に対する恭順」についてのその他の理由を卑小化する結果を生みだすことにあります。パウロはこう言っています。

 

エペソ5:22-23a

22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、、

 

同様に、「上に立つ権威に従いなさい」と言ったパウロは、その掟の理由を、「福音伝道のため」とは言わず、「上に立つ権威者というのが、あなたに善を行わせるために、神に仕える者であるからです。」と説明しています。そして続けてこう言っています。「しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」(ローマ13:4-5)

 

結語

私たちは、ウェブのこの「贖罪的運動の解釈(redemptive-movement hermeneutic)」を拒絶すべきだと考えます。そして、新約聖書を、今日の私たちにも適用されるべき神の言葉――そうです。私たちが従うべき、倫理的に清い基準の内包された「神のみことば」と受け取るべきです。

 

そして私たちは、ただひたすらに、それが神のみことばであるからというその理由によって、そしてそれらのみことばが私たちに従順であることを求めるというその理由によって、私たちは新約のすべての掟に従うべきです。

 

私たちには――ウェブの立場が示唆するように――「もし今日、1ペテロ3:1に従い、妻たちが未信者の夫に恭順であったとしても、今の現代文化の中にあっては、伝道の助けにはならないと思う。だから今日、女性たちはこの聖句に従う必要はない」と主張するような権利は与えられていません。

 

そして、そういった行為は、自分たち自身の倫理的判断を、神のみことば以上の高台に打ち据える行為に他なりません。

 

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倫理的戦いにおいて、われわれは、「計略の才に抜群に秀でた敵」に対し戦っているのである。この敵は、決定的な攻撃を虎視眈々と狙いつつ――(目的なく)気まぐれな発砲行為によって――自らの大砲のありかがどこであるかを相手に悟らせないのである。

ヨーロッパでの大戦と同じく、倫理的戦いにおいても、「静かなセクター(quiet sectors)」というのがたいがい一番、危険なのだ。こういった「ささいな罪」を通して、サタンは私たちの生活に侵入してくるのである。それゆえ、前線におけるセクターすべてを手ぬかりなく見張り、掟の一貫性について説いていくことが賢明だと思う。

J・グレシャム・メイチェン