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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「当時のエペソの女性たちは偽りの教えを説いており、1テモテ2:12はその歴史的文脈で解釈されなければなりません。ですから、この聖句内容は、今日の教会に一般化して適用すべきではないのです。」という主張に対しての応答。【その3】

1テモテ2:12検証 対等主義(Egalitarianism) 女性牧師問題で悩んでいる方々へ

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 8

回答2.

「当時のエペソで女性たちが偽りの教えを説いていた」ということを裏付ける明瞭な証拠は、聖書の中にも見いだされず、また、聖書外の資料の中にも未だかつて見いだされたことはありません。

 

対等主義の人々は、時折、「1&2テモテの手紙の中のさまざまな箇所から、当時、女性たちが偽りの教えを説いていたことが明らかにされています」と主張しますが、そういった主張とは裏腹に、諸聖句はその事実を明示してはいません。

 

①1テモテ5:13

この聖句で、パウロは、再婚しない若いやもめたちが、「うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します」と警告しています。しかし、この聖句からは、そういった女性たちが、偽りの教理を教えていたという事実は引き出せません。うわさ話をする("gossip")というのは、私的ないしはプライベートな噂や事実を世間で言いふらすことを意味します。

 

しかし、言いふらすのが噂であるにしろ事実であるにしろ、そういった行為は、偽りの教理を教える行為と同じではありません。私たちの教会や近所にも、うわさ話好きの人がいるでしょう。しかしそういった人たちが、偽教理を説く教師たちであるかといったら、そうではありません!

 

ですから、1テモテ5:13「うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します」の「話してはいけないことまで話す」という行為は、パウロが意味していた「うわさ話」の拡張、として捉えるのが自然な解釈でしょう。「家々を遊び歩くことを覚えた」若いやもめたちが、話してはいけないことまで話し、他人の噂や不正確な情報を言いふらす、という意味合いです。

 

しかしそうだからと言って、彼女たちが、例えば、キリストの復活を否定したり、復活はすでに起こったと宣言したり、ヒメナオやアレクサンデルのように神をけがすようなことを言ったり(1テモテ1:20)、使徒20:30で警告されているように、「いろいろ曲がったことを語って、弟子たちを自分の方に引き込もうとする」ような偽教師のごとくに、偽りの教理を言い広めていたのかというと、そうとは言えません。

 

確かに、エペソにいた女性たちのゴシップに関し、パウロが憂慮していたということは明らかでしょう。しかし、女性たちが「偽りの教理を教えていた」という事に関する必要証拠は、1テモテ5:13からは見い出すことができません。

 

② 2テモテ3:6-7

 「こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」

 

この聖句が指し示しているのは、ある女性たちが、偽教師により、「たぶらかされている(led astray)」ということです。誤った教理が教会に忍び込んできた際に、何人かの男女が惑わされ、「たぶらかされる」ということはしばし起こることであって、驚くことではありません。しかし、そうだからと言って、この聖句は「女性たちが偽りの教えをしていた」ということは言っていません。ただ「たぶらかされている」と言っているに過ぎません。

 

エペソで、一人の女性もしくは何人かの女性の集団が、偽りの教えをしていたという事実を示す証拠は何もありません。しかし百歩譲って、たといその事実があったとしても、それでも対等主義者たちの主張は説得力に欠けています。なぜなら、その事実だけではまだ、女性たちが偽教理を広めるにあたって「主要な」役割を果たしていたという事は証明されないからです。

 

実際、偽教理を広めていた人物としてテモテの手紙に挙げられている名前はすべて男性です。そして、偽教理を広めるにあたって、女性が「主要な」役割を果たしていない限り、(対等主義的見解の中における、いわゆる)女性に対する「黙りなさい」という聖句は、理にかなわないものになってしまいます。

 

③ 黙示録2章のイゼベル 

〔イエスが、テアテラにある教会へ〕

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」(黙2:20)

 

対等主義の人々の中には、このイゼベルを根拠に、エペソの女性たちが偽りの教えを教えていたと主張している方々もいます。しかし上の聖句は果してそのことを実証しているのでしょうか。この聖句からはっきり分かるのは、―エペソではなく―、テアテラという別の地域の教会に一人の女性がいて、この人が偽りの教えを教え、預言者だと自称していたという事です。

 

もちろん、キリスト教会史を通し、さまざまな時期に、偽教理を教えていた女性たちが存在していただろうことを私は否定しません。しかし、テアテラという地域で偽りの教えをしていた一人の女性の存在をもって、「だから、エペソで偽りの教えをしていた女性(たち)がいたのだ」という結論に持っていくことはもちろんできない話です!

 

エペソでも誤った教えをしていた女性があるいはいたかもしれません。ただ私が申し上げたい要点は、エペソで女性たちが偽りの教えをしていたという証拠は「無い」ということです。ですから、こういう主張は、それを裏付ける明瞭な証拠のない推測ということになります。私たちは、聖書聖句の解釈を、このように、裏付けなく(強固な反証の証拠もあるような)根拠のない主張の上に築き上げるべきでしょうか。