巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私たちの隣人(by マリア・コルナルー)【友情寄稿】

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執筆者:マリア・コルナルー。学生コラムニスト。ギリシャ共産党員の家庭に生まれ、無神論者として育つ。大学2年の時、キリスト教(ギリシャ正教)に回心。エスティア新聞やエンディモ学術誌、Ἑνωμένης Ρωμηοσύνηςサイトなどに政治、宗教、哲学関係のエッセーや論文を多数投稿。政治哲学において独自の保守主義を展開し、共産主義や新自由主義を批判した英国の思想家ロジャー・スクルートンに関する研究を進める一方、ギリシャ正教会内の保守vsプログレッシブ対立構造分析および法制研究に取り組んでいる。アテネ在住。

 

「人がひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)。アダムを創造し、エデンの園に置かれた後、神は彼に仰せられました。こうしてアダムの生涯の連れとなるエバが造られたわけですが、「人は孤絶ではなく共生の被造物である」という神の御心はなにも男と女の関係だけに限られたものではありません。

 

それは神と人間の和解のあらゆる道程に映し出され、キリストの到来以降、教会の内にみられます。人の救済はそれゆえ、他者を通して実現されるプロセスであると理解されます。――「汝の敵を愛せよ」との掟が「律法の成就」としてキリストによって与えられている故です。従ってキリストの御言葉に真実であり続けるべく、自らの隣人を探し求めることは、すなわち神を探し求めることでもあると捉え得ることができるでしょう。なぜなら他者を愛することを通し、私たちはまた神を見い出すことができるからです。

 

「私の隣人とは誰か」という問いはキリストが地上におられた当時の聴衆者の頭に真っ先に浮かんだ問いであり、あらゆる時代において私たちキリストの弟子が自らに問い、問い続けなければならない問題です。善きサマリア人の譬えの中にあるように、この問いに対しキリストは、隣人とは誰かをきわめて的確に述べておられるように思います。すなわちここで言われている隣人とは、強盗に襲われ、殴りつけられ、半殺しにされ一人道に倒れている人のことでした。

 

そしてここで示されている愛の行ないとは、倒れているこの人を抱き起こし、最善を尽くし彼を介抱してあげることでした。――それゆえ、善きサマリア人はこの人にとっての「隣人」であったわけです。しかしながらストーリーはここで終わったわけではありません。例えば、アウグスティヌスやオリゲネスといった古代教会教父たちは、善きサマリア人の譬え話には、「堕落した人類に対するキリストの救済の働き」というもう一つのストーリーも含意されていると解釈しています。この解釈によると、追いはぎに遭い、傷ついて道に横たわっている人は、人類堕落以降の人間を表象し、祭司やレビ人といった通りがかりの人は彼を救うことのできなかったヘブライ律法や預言者たちを表しているとされています。

 

さらにここでの「善きサマリア人」は、当時のユダヤ人から異端者のレッテルを貼られながらも、自らの犠牲を通し、傷つき倒れている人を抱き上げ、彼を完全に回復させることのできた唯一の人、すなわちキリストを指しているとされています。そしてここから、「隣人に対する愛とは何か」に関する新しい意味が汲み出されます。そうです、この愛は地上的博愛精神よりもさらに深い意味をもっています。――自分の同胞がキリストとの交わりに導かれるよう手助けすること、なぜならこの御方だけが同胞の傷を癒すことができるからです。死に至るまで私たちを愛してくださったキリストの愛の像(イマージュ)が今や、同胞に対する愛を表す新しい像となりました。

 

それではこういったキリストの愛の模範に倣い、私たちが愛するべき人々は誰なのでしょう。私たちがキリストの元に導くべき人は誰なのでしょう。強盗に遭い、半殺しにされて道端に倒れている人は私やあなたにとって誰を指しているのでしょう。譬え話の中で、さまざまな人が通りがかりましたが、善きサマリア人だけが歩みを止め、実際に彼に助けの手を差し伸べました。

 

それゆえここには、偶発的出会いが在り、私たちと隣人との間の〈場所〉における近接性があります。これは隣人という語の文字通りの意味においても明らかです。すなわち、隣人とは私の傍にいる人であるということです。近接性(近さ)は多くのかたちを取り得ます。近所の人たち、同じ屋根の下、同じ界隈、同じ地域に住んでいる人――。近接性はまた、より心理学的意味において理解される時、忠誠や義務(allegiance)のかたちを取ることもあるでしょう。

 

隣人とは私たちが親近感を持つ存在ということもできるかもしれません。共通の祖先、共通の諸経験、共通の歴史、共通したものの考え方、生活共同体等ゆえに。心と心の近さということも隣人性をはかる測りになるでしょう。こういう風に考えていきますと、隣人を愛するということの真理を極めるに当り、精到なる考究など案外必要とされていないのかもしれません。というのも隣人は通常、私たちの目の前にいるからです。それゆえに、いつの時代のキリスト者たちも、自分が生まれた場所で、自分の家族や近所の人々、同国人に囲まれながらキリストの掟を遵守してきたのです。そして自らが置かれたその場において彼らは自分の周りにいる人々に愛を示してきたのでした。

 

キリスト者の人生には、自らの選択や人生経験におけるなにか例外的で並外れた要素がなければならないのではないかと私たちの多くは思いがちです。しかし実際のところ、その例外的で並外れた要素とは私たちの内にあるのではないでしょうか。そう、私たちの日常のありふれた歩みの中でキリストに従っていくことの中に。

 

そして自分たちの周りにいる人々と――彼らの態度がどんなに卑劣であっても、どんなに不敬虔なものであっても――折り合いをつけてゆこうとするこの真に並外れた業の中で、私たちは主のまことの弟子としての証を立ててゆくことができるのではないかと思います。その意味において冒頭の譬え話において問われるべきは「私の隣人は誰か?」ではなくむしろ「私は誰にとっての隣人であるのか?」ではないかと思います。つまり、彼らを助けるべきか否かを判断すべく外的範疇にとらわれる代わりに、周りにいる人々に愛を示していく上で自分の心を深く探ってみるということです。

 

そして、たとい私たちの行程が、異国の地やあるいは隠遁士のように閉ざされた隠居生活への召しを受け、隣人たちに囲まれた一般生活から引き離されることになったとしても、私たちはそれで隣人たちを忘れ去るわけではありません。彼らに対する私たちの愛は心にとどまり続け、そして折に触れ彼らのことを想います。

 

こころの隣人、です。たとい物理的隣人が変わったとしても、以前の仲間たちは優しく愛情に溢れた遠い追憶として私たちの内に生き続けます。彼らは私たちの愛する人々であり、家や国のつながりというかたちにおいて自分たちと宿命を共にしている同胞たちです。どんなに遠く離れていても、キリストが私たちを愛してくださった仕方において、私たちは彼らを愛したいと願い、彼らもまたキリストにあるいのちの驚異に導き入れられますようにと願わずにはいられません。

 

そしてそういった愛は距離の近さ遠さに関係なく、湧き出てきます。ーー祈りの中で。他の人のための祈りの中にあって、キリストの弟子は決して独りではなく、常に愛なる共生のうちに在ります。なぜならまさしくこのプロセスを通し、私たちは自分にもっとも近い場所に同胞を導くことができるからです。――自分のこころの中に彼らをかき抱き、迎え入れることによって。

 

ー終わりー