巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

祈りの東向性(アド・オリエンテム)の霊的意味

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「私たちは皆、祈る際に東の方角(toward the East)を向いていますが、そうすることによって実は自分たちが古の故郷を再び憧憬し欣求しているということを自覚している人はわずかです。古の故郷――、そう、エデンを臨む「東」に植えられしパラダイスのことです。」

聖大バシレイオス『聖霊について』*1

 

目次

 

聖なる使徒的伝統を守り続けてくれた先人たちの努力と信仰に感謝。

 

↑ 東の方向に向かい、心からの祈りを捧げるルーマニア正教会の司祭

 

東方正教会、東方典礼カトリック教会、伝統的ローマ典礼(TLM, ラテン語礼拝)は今日に至るまでアド・オリエンテム(東向性)という1世紀からの使徒的伝統を尊守しています。私は日曜日の朝、正教会の聖体礼儀(Divine Liturgy)に与るたびに、「ああ、司祭と私たち信徒が共にイエス・キリストの再臨を待望しながら東の方向を向いて礼拝を捧げることができるっていうのはなんという恵みだろう。なんという幸いだろう」と感動を覚えずにはいられません。

 

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出典

 

「すべての異同を超えて、第二千年期のかなり遅くまで、全キリスト教圏に一つことが明らかに残りました。それは、東に向けた祈りの方向性です。これは原初からの伝統であり、宇宙と歴史、救済史の一回限りの出来事にしっかりと繋がれることと、来るべき主を出迎えることについてのキリスト教的な表現です。」(教皇ベネディクト十六世)

 

この半世紀に渡り、伝統派カトリック神父・信徒の方々がこの使徒的伝統を死守するため、さまざまな論文を書き、祈り、奮闘してこられました。これらの方々の切実なる証により、私はアド・オリエンテムという礼拝形態の深遠性、神学的豊かさに目を開かれたのです。そしてこの二千年余りに渡り、どんな迫害に遭っても、何が起こっても、聖伝を尊守し続け、乱用せず、後代にその伝統を継承してくれた東方正教会の先人たちに本当に感謝しています。これらの先人たちの尽力と信仰の積み重ねがあって今日の私たちがあることを想うとき、私の中でますます典礼が尊く、愛しいものとなっていきます。

 

古代のユーカリスト的典礼との出会い(アンドリュー・プレスラー師の証)

 

私の辿ってきた道ーーアンドリュー・プレスラー師の信仰行程【その5】より一部抜粋

 

・・・そこで私は、「聖バシリウス・ウクライナ・カトリック・ミッション」という名称で登録されている小さなコミュニティーを訪問してみることにしました。このミッションは、地元のカトリック系列の高校のチャペルで礼拝を捧げていました。初めて訪問した晩、たまたま他の団体がそこのチャペルを予約していたために、ミッションは臨時にそこの高校の図書室を借り、典礼を行なおうとしていました。テーブルやら本やらを脇の方に移し、なんとかこしらえた小さなスペースでした。

 

そしてこの場所において私は生まれて初めて直に、「ビザンティン典礼」と呼ばれる古代のユーカリスト的典礼ーーDivine Liturgy of Saint John Chrysostomーーに出会ったのです。

 

証の冒頭のところで私は皆さんに、子供時代の自分がトールキンの「中つ国」に夢中だったことをお話しましたが、Divine Liturgyは、私に、C・S・ルイスの描くペレランドラの世界を想起させました。

 

高校の図書室という不調和なセッティングであったにもかかわらず、典礼はたとえようもない美しさと崇敬で満ち溢れていました。しかもそこには自己陶酔的なものは一切ありませんでした。リトルジカルな礼拝行為は自由、有機的統一性、生ける全体性、古(いにしへ)にしていのちの豊満性に満ち、秩序立ちつつ且つ、躍動的でした。それはまた、古代イスラエルの幕屋と神殿、エデンの園を思い起こさせるものでした。Divine Liturgyは直観的レベルで私を納得させ、人知を超える平安でわが魂を満たしました。

 

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ビザンティン典礼(出典) 

 

東に向けられた典礼(アド・オリエンテム)のもつ深遠なる意味

 

ヨーゼフ・ラッツィンガー著(濱田了訳)『典礼の精神』(現代カトリック思想選書21)サンパウロ社、第二部 典礼における時間と空間、p.82-90より一部抜粋

 

 

今、略記した会堂の形態に比して、キリスト教信仰の本質から三つの革新点が挙げられます。それらは同時に、キリスト教典礼の、固有で新しい側面を際立たせるものです。

 

第一に、人々がエルサレムの方向を向かなくなったことが挙げられます。壊滅した神殿は、もはや神の臨在を示す地上の場所とはみなされなくなりました。石造りの神殿はキリスト者の希望をもはや表現しません。その垂れ幕は永遠に引き裂かれています。人は今や、昇ってくる太陽の方角、東を向きます。それは太陽崇拝などではなく、キリストについて語る宇宙世界です。詩篇19(18)の太陽賛歌は、ここでキリストに対するものと解釈されます。「太陽は花婿のようにそのねやを出て、、天の果てからのぼり出て、その果てまでめぐり行き、、、」(6-7節)。

 

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ルーマニアにある教会(出典

 

この詩篇は、創造の称賛から中継ぎの句もなく突然、律法の賛美へと移行します。それは今やキリストから理解されます。キリストは生きているみことば、永遠のロゴスであり、そして歴史の真の光です。ベツレヘムにおいて、処女である母の花嫁の部屋から現れ出て、今や全世界を照らします。東の方角はエルサレム神殿を象徴として引き継ぎ、キリストは、太陽のうちに示されて、生きている神の真の王座であるシェキナ(神雲)の場となります。

 

受肉において人間本性が本当に神の王座の場となり、そしてそれは永遠に地と結ばれて、私たちの祈りを受けやすくします。東を向いて祈ることは初代教会においては、使徒的伝承の一つと見なされていました。東に向くことの始まり、つまり神殿を仰ぎ見るのを止めることが、たとえ正確に年代を定めることができないとしても、これが最初期の時代にさかのぼるものであり、常にキリスト教典礼の(さらには個人的祈りにおいても)本質的特徴と見なされてきたことは確かです。

 

このキリスト教的祈りの「東向性」は、いろいろな意味合いと結びついています。東を向くことはまず、キリストを神と人との出会いの場として見つめることを単純に表示しています。それは私たちの祈りのキリスト論的基本形式を表します。人がキリストを、昇る太陽に象徴して見ることは、終末論的に規定されたキリスト論を示唆しています。太陽は、歴史の終局的な日の出である主の再臨を象徴しています。東を向いて祈ることは、来るべきキリストを迎えに出ることを意味しています

 

東に向けられた典礼は、いわばキリストにおいて私たちを迎える、新しい天と新しい地を目指す歴史の未来への行進に入ることです。それは希望の祈願であり、その受難と復活が私たちに示すキリストの生命に向かう途上の祈りです。

 

そのため、かなり早くからキリスト教圏の各地では、東向性が十字架によって強調されました。これは黙示録1章7節とマタイ福音書24章30節との結びつきから来たものかもしれません。ヨハネの黙示録では、「その方は雲に乗って来られる。すべての人は彼を見、ことに彼を突き刺した人々は彼を仰ぎ見る。地上のすべての種族は皆、彼の故に嘆く。そのとおりだ。アーメン。」となっています。黙示録著者はここで、ヨハネ福音書19章37節に基づいています。その箇所は十字架の場面の終りに引用された、神秘に満ちた預言のことば、ゼカリヤ書12章10節で、突然それは具体的な意味を与えられています。「自分たちが突き刺した者に、彼らは目を注ぐであろう。」

 

最後にマタイ福音書24章30節では、次のような主のことばが伝えられます。「そのとき(終わりの日に)、人の子のしるしが天に現れる。するとそのとき、地上のすべての民族は悲しみ(ゼカ12:10)、そして、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来る(ダニ7:13)のを見るであろう。」突き刺された者、人の子のしるしは十字架であり、それは今や、復活した方の勝利のしるしになりました。このように十字架と東の方角の象徴は重なり合って移行します。両方とも一つの同じ信仰を表現するもので、イエスの過越の記念を現出させ、それに来るべき方を迎えに出るという希望のダイナミズムを与えます。

 

東に向き直ることはまた、宇宙と救いの歴史が対になっていることも意味します。宇宙は一緒に祈ります。宇宙もまた救いを待ち望んでいるのです。まさにこの宇宙的次元は、キリスト教典礼にとり本質的なもので、それは決して、人間が自分たちでつくり上げた世界の中だけで行なわれるのではありません。それは常に宇宙的典礼です。創造のテーマはキリスト者の祈りの内に深く植え込まれています。もしこの関連を忘れるならば、キリスト教典礼はその大きさを失います。そのために使徒時代からの東向性の伝統を、教会建築においても、典礼執行においても、可能な限りどこでも、必ず再び取り上げなければなりません

 

会堂に比しての、二番目の革新点は、会堂では与えることのできない全く新しい要素にあります。今や東側の壁、あるいは後陣に祭壇が置かれて、その上でエウカリスチア〔=ユーカリスト〕のいけにえが執行されます。エウカリスチアは、すでに述べましたが、天上の典礼に加わり、イエス・キリストが捧げる崇拝の行為と同時化することであり、そこにおいて、キリストはその体を通してこの世の時間を取り込み、同時に絶えず自己の殻を破ってそれ自体を超えさせ、永遠の生命の交わりに導き入れます。

 

それで祭壇は、東である方が、集められた者たちの共同体に入っていくことと、また共同体がこの世の牢獄のしがらみから出ていくことを意味します。それは今や、開かれた垂れ幕を貫き通り、過越に参与し、キリストが拓いたこの世から神への「橋渡し」を通して出ていくことです。後陣の祭壇が「東」を向いていることと同時に、それ自体が東の一部であることは明らかです。人が会堂において、みことば厨子である「契約の柩」を通してエルサレムまで仰ぎ見ていたのであれば、キリスト教の祭壇によって新しい重点を得ました。祭壇において、かつて神殿が意味していたものの新しい現在的意味があるのです。

 

まさに祭壇は、私たちがロゴスのいけにえとの同時性を得るのに役立つものです。それは天を、集められた者たちの交わりの内に保ち、あるいはむしろ、祭壇は彼らをすべての地域とすべての時代の聖人たちの交わりの内に連れて行くものです。。祭壇はいわば、天が開かれる場です。それは教会空間を、閉じるものではなく、永遠の典礼の中へと開くものです

 

ー終わりー

*1:Basil of Caesarea Treatise On the Holy Spirit, 27 PG 31,192