巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「マリアへの崇敬は人間の心のもっとも深奥に刻み込まれている。」マルティン・ルター

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出典

 

 

M・バジレア・シュリンク著『救い主の母の道―キリストとともに、キリストのために』エピローグより一部抜粋

 

 

ルターは生きている限り、母マリアを尊び、母マリアの祝日を聖別し、マリアの賛歌(マグニフィカート)を毎日歌っていました。

 

↑ マリアの賛歌(マグニフィカート)を毎日歌っていたルター

 

その彼が、聖書から私たちに示してくれた言葉を読むと、マリアに対する正しい態度から、私たちがいかに離れてしまっているかを感じるのです。私たち新教徒(プロテスタント)すべての考え方は、いかに合理主義に感化されていることでしょう。ルーテル教会の信仰告白書の中に、マリアは「最も深い尊敬に値する」という文章が載っているにもかかわらずです(アウグスブルグの信仰告白の説教21:27参照)。

 

合理主義は、もはや、聖なるものの秘密を何も知ろうとしません。聖なるものは、この地上のものからかけ離れており、人間の理性では理解することはできません。人は、聖なるものをただ畏れをもって崇拝するだけです。合理主義の中で、人々は、すべてを理解しようとし、理解できないものを捨て去りました。それとは反対に、聖書は、聖なるものの神秘をたいせつに扱っています。聖書は、それを分析せず、それどころか非常な慎重さをもって、しばしばその言葉を控えさえしています。

 

ですから、たとえ母マリアについて、それほど多くのことが聖書に書かれていなくても、別に驚くべきことではありません。というのも、最も重要な事実が聖書にはっきりと記されているからです。つまり、マリアは、もっとも聖なるものとかかわりがあったのです。神の子ご自身が人となられて、マリアからお生まれになったのです。彼は、マリアの子でした。それゆえに、マリアは、この聖なる領分におかれたことになります。

 

聖なるものの前に、畏れをもってとどまる者だけが、母マリアの神秘をいくらか感じ取ることができます。御使いの現れたときに、そこが聖なる地であるがゆえに、履物を脱いだヨシュアのように(ヨシュア記5:15参照)。私たちも、聖なるものに対してこうした態度をもつならば、罪深い人類の子孫であった人が、神の子の母となることが許された奇跡について、いくらか理解できるでしょう。

 

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しかし、合理主義は、理性で説明できるものだけを認めたために、今日のプロテスタント教会では、母マリアの祝日とそのほか、マリアを思い出されるすべてのものを廃止してしまいました。私たちは、母マリアに対する聖書の上でのかかわりを失ってしまったのです。そして今日なお、この合理主義の弊害に病んでいます。

 

ルターは、マリアが最高の女性であり、キリストの次にキリスト教徒の中でもっとも貴重な宝石であり、私たちがマリアをたたえても決して十分にたたえることはできないと述べています。ルターのこの呼びかけにもかかわらず、私は、生涯の長きにわたって、それを行なわなかった一人です。「いまから後、いつの世の人も、マリアを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:48)という聖書の勧めに従わなかったことを告白しなければなりません。私はこの「後の世の人々」に加わっていなかったのです。私は、聖書の中で、神に祝福されたエリザベトが聖霊に満たされて、マリアを「私の主のお母さま」と呼び、「あなたがわたしのところに来てくださるとはなんという光栄でしょう」と年老いた親族の一人として、マリアに最大の尊敬を示したかを読みました。私は、エリザベトから、真に正しい態度を学ぶことができたはずでした。しかし私は、母マリアに敬いの気持ちも、言葉も、歌さえも捧げていませんでした。マリアを称えても決して十分に称えることはできないとルターが書いていますが、私がそこまで至らなかったのは言うまでもありません。

 

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聖書がマリアについて語っていることに従って、私は母マリアの道を取り上げ、この書をかきおろしましたが、それは、自分の怠っていたことを取り戻すためでした。また、神の言葉が私たちに示している義務を果たすため、そうしたのです。過去二十年間、私が聖書を通して、祈りのうちに、マリアの道を深く考えるとき、ますます母マリアを、愛し、尊敬するようになりました。主は、私に、この恵みをくださったのです。いま、母マリアが主の母として、私たち新教徒のあいだで愛され、尊ばれるように、この書が役立つことを心から願っています。聖書に従って、愛され尊ばれることは、マリアにふさわしいことだからです。宗教改革者ルターがそれを私たちに勧めているように。

 

従順と完全な献身のうちに、あらゆる困難と試練の道を進んで受けたマリアが、いかに私を祝福してくれたかを、ここに感謝をもって告白したいと思います。なぜなら、へりくだりの道を歩み抜かれたマリアは――ルターがマリアの賛歌(マグニフィカート)の講解の中で語っているように――「優しきキリストの母」として、いかに人が神を認識し、たたえ、愛すべきかをその体験の実例において、最もよく教えているからです。神よりの召命に身を捧げたマリアを通して、再びパラダイスの門を開いてくださった神の子、世の救い主なるイエス・キリストが、私たちに与えられました。

 

このマリアに対して、いま、私たちの心の中に感謝の念が湧き起らないでしょうか。私たちに、こんなにもすばらしい贈り物をくださったマリアを、心から愛すべきではないでしょうか。

 

私たち新教徒のあいだで、使徒パウロとペテロは敬愛されています。私たちは、しばしば彼らに対して霊的な親しみを覚え、使徒の道を歩んだ彼らを尊び、彼らに感謝します。私たちは、使徒パウロなしには、イエスの福音が私たち異邦人のところには届かなかったであろうと彼に感謝するのです。また私たちは、感謝に満ちて教会の殉教者をたたえます。殉教者の血はキリスト教の種です。しかし私たちは、母マリアに対する感謝の気持ちを忘れてしまうことがあまりにもしばしばです。

 

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マリアは、私たちを囲み、私たちに定められている競争において、その証言によって私たちを強めてくれる「証人の群れ」(ヘブライ12:1参照)に属していないでしょうか。私たちは使徒たちや大天使を尊び、彼らに教団や教会を導いてもらうために彼らにちなんでその教団や教会に名前をつけます。しかるに、どうして私たちは、母としてイエスとともに最も密接に結びつき、イエスとともにその十字架の道を最初に歩んだマリアを除外するのでしょうか。

 

私たちプロテスタント教会においては、イエスに対する尊敬が減少されることを恐れて、マリアは長いあいだ尊ばれず、称賛されませんでした。しかし、まさに母マリアを含むイエスの使徒たちに対する正しい賛辞によって彼らをお選びになり、祝福され、ご自分の器とされた唯一の方であられるイエスの栄光が大きくなるのです。神に対する彼らの信仰と、愛と献身によって、神は前面に押し出され、栄光をお受けになります。。母マリアこそ、イエスを生み、育て、そして聖霊がエリザベトを通して「信じた方はなんと幸いです」と語りかけたその方です。

 

イエスは、私たちがマリアを尊び、愛することを待っておられます。神の言葉がそう語っているからです。そしてそれはイエスの御心なのです。イエスの言葉を守る人はイエスを真に愛する人です(ヨハネ14章23節参照)。

 

ー終わりー

 

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