巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

カトリック改宗か正教改宗かの最終判断はやはり一筋縄ではいかない。(その3)

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出典
 

:あのね、この前、東方正教の某神父様から心のこもったメッセージをいただいたの。私が「以前の愛」――ローマ・カトリシズムという異端――にUターンしてしまうのではないかと危惧され、「悪しき者(=サタン)にあなたが惑わされることのないようお祈りしております」と書き送ってくださったの。一方、私が東方典礼カトリック教会にいて迷っていた時、そこのカトリック神父様も上の正教神父様と全く同じ警告をしてくださった。――でも真逆の方向から。彼は、私が「悪しき者(=サタン)に惑わされてしまっているがゆえに」カトリック教会を離れようとしていると危惧しておられたの。

 
両サイド共に(それぞれの立ち位置からみて)私が悪しき者に騙されているとお考えになっている。東方に向かったら私はサタンに騙されたことになり、西方に向かっても私はサタンに騙されているってことになるよね。


こういう感じの「絶対」主義は、求道者をついには不可知論の崖に追い込んでしまうって思うんだけど、どうだろう。あなたが私と似たような状況にあったら、どんな対応をすると思う?私は両サイドからくるこういった言葉を額面通りに受け取る傾向があるので、それで精神が消耗してしまう。どのコミュニオンにいても、「自分は悪しき者に騙された結果、今ここにいるのかもしれない。その可能性をゼロにすることはできない」って常に懐疑に苦しめられることになるの。私は「リベラル派」のクリスチャンにはなりたくないけど、あらゆる形態における忠実過激主義(extremism)もやはり避けたいと思う。リベラリズムと同様、忠実過激主義も人間の精神に害を及ぼすと思うの。


求道者の友:聖トマス・アクィナスはたしか次のようなことを言っていたと思う。――二つの信仰グループがある。一方のグループは謙遜に溢れているけど、残念ながら諸異端や誤った諸教義を信じてしまっている。もう一方のグループは謙遜さに欠け、高慢だけれど、教義面に関していえば、完璧な正統諸教理および真理を保持している。聖トマスによれば、前者のグループの方が天国でより良い場にいることができるそうよ。


確かに、あらゆる偽りの背後には巨大な偽り者であるサタンがいる。それは真であり、聖書的でもある。あらゆる誤教理の背後にもサタンはいる。それも真実。でも、私たちが真理の探究者であり続け、イエス・キリストに属する者であり、神様の忠実さおよび主権に寄り頼み、常にみこころを求めることにコミットしているのなら、私たちは巨大な偽り者であるサタンを恐れる必要はなく、必要以上に悪しき者に注目すべきではないと思う。私たちは神様の御手の中にあり、私たちが真実に求め続ける限り、聖霊は私たちを導いてくださるということに私たちは確信を持っていいと思うよ。


:そうだね。うん。


求道者の友:真理の探究者が、対岸サイドの教義を調べている際に、霊的指導者が、彼・彼女に向かって、「あなたは悪しき者に騙されている」と言うのは賢明ではないと思う。なぜなら真理が何であるかを究明するにあたり、両サイドの諸見解や信仰を調べることは必要不可欠なプロセスだから。それなしにはどちらが真なのかそもそも識別できない。真理に到達するにはやはりそれなりの時間が必要であり、求道者は一人ひとり特別な旅路を通ってくるという事実をそれぞれのコミュニオンの霊的指導者の方々がもっと尊重してくださるとうれしい。そして「あなたは騙されている」と言う代わりに、なぜ当該信仰共同体では○○の教えを信じているのかをより良く説明してくださるとうれしい。そうすれば、私たち求道者は熟考し、識別するためのさらなるデータを得ることができるから。


:ありがとう。とても励まされた。願わくば、葛藤や迷いも含めた私たちの真理探究が、主の愛を求める魂の切望のしるしとして、花婿イエス・キリストによって受け入れられますように。

 

ー終わりー

 

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