巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人間にとっての究極目的は何だろう?――『ピューリタンの祈り』と『フィロカリア』と

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1 人生の目的
問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか。
答 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。
ウェストミンスター大教理問答

 

「神、至福な本性、すべての完全性を超える完全性、すべての善と美の創造主でありながら、善と美を超える原理。その神は、永遠の昔から、その神的原理において人間の神化(Θέωση)を決定しておられ、始めからこの目的を自分の内で考えておられたが、好機到来と思われた時に人間を創造した。」『フィロカリア』*1

 
人間はなんのために生きているのか?人間存在にとっての究極目的は何なのか?太古以来、無数の人々がこの問いを問うてきました。宗教改革カルヴァン主義神学から生み出されたウェストミンスター大教理問答の冒頭には、「人間のおもな最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」とあります。私は学生時代はじめてこの一節に出会い、言いようのない深い感動を覚えました。*2


他方、東方キリスト教正教伝統においては、神が人間の神化(主との合一)を創造のはじめより御意図され、それゆえ、人間存在にとりその人が救われ神化されることこそ人生の究極の目的であることが『フィロカリア』を通し説かれています。

 

『ウェストミンスター大教理問答』と『フィロカリア』の間には異なる人間観、神観、受肉観、義認観、ユーカリスト観が横たわっているように思われます。表現がたどたどしいかもしれませんが、私なりの言葉でいいますと、東方正教伝統の人間観では、人は罪によって損われた状態にある。でもそれはカルヴァン主義の定義するところのいわゆる「全的堕落」ではない。そしてキリストにある救いおよび神との合一により、魂だけでなく人間の身体も感覚もすべてをひっくるめた人間存在すべてが神化の恵みに与り得る、ということではないかと思いました。そのことを袴田玲教授が(東方神学における)「身体・物体の内に超越を見るまなざし」として次のように美しく活写しておられます。


 「問題となっているのは、身体をも含む人間存在全体の浄化と変容なのである。ヘシュカストたちが神を光として『見る』という時も、それは通常の視覚器官の働きによって見ているのではなく、魂もろとも変容した身体と感覚を通じて神を何らか『体験する』ことなのである。パラマスが展開したこのような身体神化の思想は、キリスト教儀礼の核心をなすエウカリスティア〔ユーカリスト〕についての議論の中で頂点に達する。

 パラマスは受肉とエウカリスティアを対比させ、両者が共に神と人間との合一であると述べる。ただし、受肉において神(神性)は人間性の全体(人間性そのもの、人性)と結びついたのに対し、エウカリスティアにおいて神(キリスト)は個々の人間(パンと葡萄酒を拝領する信徒の一人一人)と結びつく。

 それは神と人間の最も親密な合一のありかたとされ、『キリストを見たい、いやそればかりかキリストに触れたい、キリストを享受したい、キリストを自らの心の内に抱きたい、キリストを自身の内に、まさに自らのはらわたの内に受け容れたいという私たち各人の渇望を満たし……』というパラマスの表現には極めて神秘的な響きが伴う。

 ここには、『見る(視覚)』から次第に『触れる(触覚)』へと距離を縮め、ついには自らの心とはらわたの内に『受け容れ』て一つにならんとする、人間のキリストに対する愛の渇望が描き出されている。」*3


エウカリスティア(ユーカリスト、聖餐)という聖なる秘跡を通し、「キリストを見たい、キリストに触れたい、キリストを享受したい、キリストを自らの心に抱きたい、キリストを自身の中に受け容れたい」と願い求める魂と花婿イエス・キリストがこの地上においても結ばれ得るとはなんという恵みでしょうか。そしてそれを可能とせしめたのが袴田教授のおっしゃるように他ならぬキリストの受肉の神秘なのです。エウカリスティアが「身体を場とした」キリストと人間の血肉的合一であるのは、主ご自身が「人となって私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)からです。人間神化の根拠はキリストの受肉です。


 「キリストは『来たれ、私の身体を食べなさい、私の血を飲みなさい』と答え、人間の愛の渇望を受け入れて満たすのみならず、『さらに大いなる渇望』たる神化へと人々を促すという。エウカリスティアはまさに身体を場としたキリストと人間の血肉的合一であり、そこにおいて各人は『神の像』として存在するだけでなく、自ら『神々(その本質的相違を示すため、大文字の単数形で表される父なる神に対し、小文字の複数形で表記される)』となるよう招かれているのだとパラマスは力強く訴えかける。

 このように、パラマスの思想は肉なる存在である人間が肉なるままに神化することを説くものであり、それは魂の身体からの離脱を説くプラトンやプラトン主義的人間観の魅力に抗し、神の受肉や聖画像(イコン)の教義をめぐって東方神学が繰り返し確認してきた、身体・物体の内に超越を見るまなざしを受け継いでいるのである。」*4


神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことを人間存在の究極的目的としたピューリタンは次のような清洌な祈りを詩にしました。

 

「一介の罪びととして、私はカルバリーの血潮というほとりに行き、水晶のような流れの中で、何にはばかれることなく浸水します。
十字架には、貧しき者や柔和な者のための無償の赦しがあります。
そこにはとこしえに続く豊かな祝福があります。
小羊の血潮は、無限の恵みをたたえし大いなる川であり、その川の豊かさは、
たといどれだけ多くの渇き人が飲もうと決して減じることのないものです。
おお主よ、汝の血潮によって与えられしこの無償の赦しが、とこしえまでにありますように。
痛みに満ちたこの世の中にあって、それは、地上の唯一の歌、天における讃歌です。
どんな場所においても賛美の対象でありその愛とすばらしさには限りがありません。
私の心には上の世界に対する渇望があります。無数の群衆が大いなる歌を歌っている天の世界に。」*5


神を渇望するピューリタンの純粋なこの信仰に、身体・物体の内に超越を見る東方伝統のまなざし、そして主イエス・キリストとの最も親密な合一の場である秘跡としてのユーカリストが織り合わされる時、ウェストミンスター大教理問答の第一問「人生の目的」は真の意味でその満たしをみるのではないかと思います。

 

ー終わりー

*1:『フィロカリア』I巻、新世社、2007年、p. 39

*2:実際、自分の「選民」としてのステータスが天において確保されていると仮定した場合、ピューリタンの偉大な霊的書物の数々は神の栄光にかんするすばらしい感化を私たちの心にもたらしてくれると思います。

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

ただ厳格なカルヴァン主義を妥協することなくどこまでも忠実に押し進めてゆきますと、予め救いに定められた人が救われ、義認され、栄化されることを通し、「神の栄光」があらわされるだけでなく、神によって逆に予め滅びに定められている人もまた、彼が遺棄され滅びるままに捨て置かれるまさにそのことにより「神の栄光」があらわされることになるということになり――、こうしてカルヴァン主義特有の倫理的ジレンマが生じてきます。つまり、そのようなことをご自身の栄光があらわされるためにあえて為す神とは、サディスティックなモンスターではないだろうか、という呻きにも似た問いです。
「神の聖定によって,神の栄光が現われるために,ある人間たちとみ使いたちが永遠の命に予定され,他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている.」ウェストミンスター信仰告白(3:3)
もちろん熟練したカルヴァン主義クリスチャンの方々はこういった初歩的な問いや疑問に対する「回答」を持っておられます。ですが、カルヴァン主義のこういった側面がほぼ不可避的にアルミニウス主義を生み出し、両者はその確執に解決をみることなく今日までプロテスタント界を分断し、分断し続けている――というこの悲劇的状況自体がカルヴァン主義の内蔵するある体系的ひずみを物語っているように思えてなりません。

*3:『世界哲学史3 ──中世I 超越と普遍に向けて (ちくま新書)』(伊藤邦武, 山内志朗, 中島隆博, 納富信留 著)第2章 東方神学の系譜より

*4:同上。

*5:カルバリーの讃歌("Calvary’s Anthem")拙訳