巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

翻訳のむずかしさ

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至聖三者(しせいさんしゃ、ギリシア語: Αγία Τριάδα, ロシア語: Пресвятая Троица, 英語: Most Holy Trinity)は、キリスト教における三位一体の神を表す正教会用語であり、日本正教会で用いられる訳語。祈祷文においては単に「聖三者」「三者」と訳されるケースも少なくないが、説教・文章・日常生活においては「至聖三者」が用いられる事が殆どである。正教会においては、正教会における定義を元に作られた神学用語を「代用となる語」に置き換える事は望ましくないことであり、至聖三者を三位一体という語に限定するのは誤りであるとされる*1。ウィキペディア「至聖三者」より

 
翻訳の働きに携わる者として、翻訳作業に伴うさまざまなチャレンジや困難を私は日々痛感しています。体系的な辞書やコンコーダンス、バイブルソフトやインターネットのない時代に日本に来、日本人に福音を伝達しようとの切実なる思いから聖書・祈祷書翻訳の働きに尽力された宣教師たち、現地指導者たちの努力はいかばかりであったかと頭が下がります。

 

その努力はキリスト者だけに限らず、旧くは儒学、漢学の受容、福沢諭吉や西周など明治期教育家たちによる術語の和訳作業など広く及び、私たちの現在の精神活動は、そういった先人たちの労苦や試行なしには成り立ち得ないものだと思います。


さてウィキペディア「至聖三者」の項には「正教会においては、正教会における定義を元に作られた神学用語を『代用となる語』に置き換える事は望ましくないことであり、至聖三者を三位一体という語に限定するのは誤りであるとされる。」とあります。しかしながら、同じ東アジア漢字文化圏に属する韓国正教会や台湾正教会は、Αγία Τριάδα(Trinity)を「三位一体」と訳すことに決定し、現在に至っています。


韓国正教会訳 三位一体(삼위일체)*2

 
台湾正教会訳 三位一體 *3

 
それでは正教神学における「三位一体(三位一體)」と他宗派神学における「三位一体」は全くイコールなのでしょうか。おそらくこういった点をどう捉え、どう対処するかにより、大きく分け、以下の二種類の選択肢が生み出され得ると思います。


選択肢1)同一訳語を選んだ上で、他宗派神学と自派のそれとにおける訳語概念になにがしかの違いがあると判断された場合、その内容を説明する。
選択肢2)他宗派神学との理解の違いをはっきりさせる上でも、この際、別の訳語を新たに造り出す。


選択肢1)、2)共に、それぞれ長所と短所があると思います。1)の長所は、他宗派の人々とディスカッションをする際、共通訳語がベースにあることで議論の要となる点そのものにフォーカスを当てやすいということが挙げられるように思います。特に英語圏では訳語の統一作業が進んでおり、ディスカッションも議論も非常に活発です。他方、短所としては、「同じ用語なのだから同じ教えをしているのだ」という具合に、むやみやたらに教派合同を推進しようとしているある種の人々に誤用・悪用されやすいという点でしょうか。(⇒宗教的無関心主義、多宗教間対話、世界統一宗教等への脅威)


選択肢2)の長所は、仮に他宗派理解の中に非正統思想が混じっていた場合、あえて訳語を違えていることでその非正統思想の流入を未然に防ぐことができる。他方、短所としては、異なる訳語が散在していることでとかく信者の間に混乱が生じやすい。また、一つの訳語がすでに日本語語彙として定着してしまっている場合、新たに訳語を造り出しても通常それはほとんど定着を見ず、人々にも理解されず、その結果、内部でしか通じないゲットー神学化してしまう負の可能性を持っているということなどでしょうか。(⇒福音宣教が大幅に阻まれる。現代社会との間の共通語不足により、社会や文化に健全な影響力を与えることが困難。教勢停滞といった弊害)


例えば、ヨハネの手紙第一2章2節のギリシア語ヒラステーリオンの訳を巡り、それぞれの聖書翻訳委員会がどれほど苦戦しているかということを水草牧師が述べておられます。

 

「神学用語において、贖い、償い、宥めがごちゃごちゃになってしまっている。英語のatonementが混乱しているのが、そのまま日本語に持ち込まれた観がある。贖いとは「買い取る」ことを意味しており、償いは「弁償する」ことを意味している。宥めは、怒りをおさめさせることを意味している。だから、贖罪ということばはおかしくて、本当は償罪といわねばならない。だが、これだけ定着してしまうとどうにもならない。ところで、ギリシャ語でヒラステーリオンということばがある。訳語としては、ローマ書3章、ヨハネの手紙第一2章2節では文語訳・塚本訳・前田訳は「宥めの供え物」、口語訳は「あがないの供え物」、新改訳第三版までは「なだめの供え物」新改訳2017は「宥めのささげ物」、新共同訳は「罪を償う供え物」である。しかし、ヘブル書9章5節では「宥めの蓋」(新改訳2017)と訳されている。」*4*5


冒頭の引用句に戻りますと、「至聖三者を三位一体という語に限定するのは誤りである。」とするよりはむしろ「至聖三者を三位一体という語に限定するのにはリスクが伴う。」といった風な、より慎重な表現にした方が、他の東アジア圏正教会の訳語方針を尊重する上でも無難なのではないかと思いました。どの地域の教会もそれぞれの歴史的文脈の中で試行錯誤しつつ最善を尽くしていると思うからです。だからこそ翻訳には改訂があり、改訂を巡る大論争があり、調停があり、現在進行形での躍動があるのだと思います。

 

訳語一つ一つには翻訳者たちの努力の汗がにじみ出ていると思います。それらに深い敬意を払いつつ、学びを深めてゆけたらと願います。

 

ー終わりー

 

参考文献

聖書翻訳の歴史 | 和訳史1 キリシタン時代の初期の聖書 | 日本聖書協会ホームページ

長澤志穂著、「日本正教会訳聖書における漢語――中井木菟麻呂の思想と信仰――」『宗教研究』89巻別冊(2016年)PDF

中村敏『日本キリスト教宣教史――ザビエル以前から今日まで』(いのちのことば社、2009年)

丸山眞男、加藤周一著『翻訳と日本の近代 』(岩波新書、1998年)

*1:高橋保行『ギリシャ正教』291頁 - 292頁、講談社学術文庫、1980年。

*2:参照元:정교회 소개 – 한국정교회 대교구(Orthodox Metropolis of Korea)

*3:参照元:三位一體 Archives - 台灣基督東正教會 The Orthodox Church in Taiwan

*4:宥めの蓋・・・・・贖い、償い、宥め | 水草牧師の神学ノート

*5:正教会訳(1985)ではヨハネの手紙第一2章2節は「挽(ばん)くわいの祭」と訳されてあります。