未信者⇒プロテスタント・カリスマ派⇒長老派神学校⇒保守聖公会司祭⇒ローマ・カトリックへと霊的旅路をたどったテーラー・マーシャル師の証からの抜粋です。(引用元)
証し
数週間後、私は聖公会助祭に叙階されました。そしてその後時を置かずしてアングリカン司祭に叙階されました。
聖公会司祭となったテーラー・マーシャル氏(出典)
こうしてテキサス州フォート・ウォースにある聖アンデレ聖公会の助任司祭に任命された私は、大いなる喜びの内に、説教し、秘跡を執行し、司牧活動を行なっていきました。そしてある日、司祭として初めて病院訪問をするよう言い付けられたのです。
教区司祭は私に地元の病院で手術を受けることになっている一人の女性を訪問するよう言った上で私にその人の名前を書いた紙を手渡しました。まさかその日、あるラビと会話することになり、それが自分の人生全体を新しい方向に導く決定打になろうとは当時夢にも思っていませんでした。
病院に着いた私は、祈祷書を腕にかかえ、「聖職者用駐車」の付け札を受け取り、手を洗った後、上階にある待合室へと向かいました。待合室は、愛する家族の手術が終わるのを待つ人々で溢れていました。デスクに行き、受付係の人に微笑むと私は言いました。
「私の名前はテーラー・マーシャル神父です。ジョアンナ・スミスさんが手術室に入る前に彼女に面会しようとうかがいました。」
「左様でございますか。それなら向こうのドアからお入りください。」
振り向くとそこには医療ドアがありました。
「あそこからですか?」
「はい、そうです、神父様。そのまままっすぐお進みください。スミスさんはすでに麻酔専門医の方と共におられます。」
ドアの横にボタンがあり、それを押すとドアは自動的に開きました。中に入るとそれは後ろ手に閉まりました。大きな部屋がありそこには八つのベッドがありました。
「どの方をお探しでしょうか?」一人の看護士が微笑みながら訊ねました。
「ジョアンナ・スミスさんです。」
「彼女はベッド一号におられます。麻酔専門医もすでに来ていらっしゃいます。スミスさんはおそらくもう眠っておられるのではないかと思います。」
「あ、それでも結構です。」私は言いました。「彼女のために祈れればと思って。」
ベッド一号の方に近づくとはたしてその女性はすでに術用ガウンを着て眠りに入っていました。私は『共通祈祷書』の中の病人訪問のセクションを開くと、自分の右手を眠っている女性の腕の上にやさしく置きました。
すると彼女の目が急に開きました。「誰?」おびえた表情で彼女は訊ねました。麻酔がまだ完全には効いていなかったのです。
「ああ、すみません。テーラー神父と申します。手術室に向かわれる前にあなたとお祈りしたいと思ってうかがいました。」
彼女は私の祭服と襟を見ると叫びました。「私、ユダヤ人ですけど。」
「えっ、そうですか。ごめんなさい。人違いしてしまったのかもしれません。私はジョアンナ・スミスさんという方に面会にきたのです。」
「ジョアンナ・スミスなら私です。」彼女は、キリスト教の聖職者が一体なぜ祈祷書を片手に自分のベッドにかがみ込んでいるのか皆目見当がつかないでいる様子でした。
私も度肝を抜かれてしまいました。「これってもしや、先輩司祭たちが新米司祭を茶化すためにやる一種のジョークなのだろうか?」私は思いました。ともあれ心を落ち着け直し、私は彼女に訊ねました。
「どうしましょうかねえ。手術室に行かれる前にお祈り差し上げても差し支えないでしょうか。」
「ええ、ぜひ祈ってください。お願いします。」
そこで私は再度、彼女の腕に自分の右手を置くと、彼女が手術中守られるよう祈り、その後、慰めの言葉を与えました。彼女の目はうつろになっていき、やがて眠りに落ちました。
待合室に戻ると、そこに髯をたくわえた一人のラビが座っていました。そこでキリスト教司祭(←私)はユダヤ教ラビの方に歩み寄ると「ジョアンナ・スミスさんに面会予定ですか」と訊ねました。
ラビは答えました。「あ、はい。そうです。」
「それなら、こちらのドアからお入り、廊下を左手に進んでください。ベッド一号目です。彼女はもうまもなく手術室に入ると思います。」
ラビはけげんな表情をたたえ、私を見つめていました。おそらく彼は次のように考えていたことでしょう。「なんでこの司祭はジョアンナに関する一切合財を知っているんだろう?」ともあれ、彼は私に礼を言うと自動ドアの向こうに消えて行きました。
その直後、私は待合室に知り合いを見つけました。うちの教区の信徒であるスミス氏でした。「ああ、なるほど、だから私はユダヤ人女性の元に遣わされたんだ。」ようやく合点がいきました。ジョアンナはスミス氏という聖公会信者の男性と結婚していたのです。
それまで私はスミス氏の妻がユダヤ人であることを知りませんでした。彼は妻の手術のことを憂慮しており、私たちはしばらく互いに言葉を交わし合いました。するとあのラビがまた待合室に戻ってきました。スミス氏は私たちを紹介し、その後私はラビと共に、典礼や詠唱の重要性などについて短い会話を交わしました。
と、やみくもに、ラビはスミス氏に非常に珍奇な質問をしました。「ジョアンナの母親のヘブル語での名前は何ですか?」
夫はしばらく考えあぐねていました。「えーと、何でしたかねえ。分かりません。どうしてそれをお訊きになるんですか?」
「ジョアンナ本人に母親の名前を訊こうと思っていたのですが、彼女はもう眠ってしまっていました。」
「なぜ彼女の母親の名前を知る必要があるんですか?」彼女の夫は訊ねました。
するとラビは説明しました。「私たちユダヤ人は、誰かが〔病気等で〕苦しんでいる際、祈りの中で彼・彼女の母親の名前に祈願すると、神はその人に対する私たちの執り成しをより慈悲深く聞いてくださる、ということを信じているのです。」
「それって迷信じゃないかな。」とっさに私は思いました。しかしラビのこの回答を黙想している内に私はその信心の深遠性にはっと気づかされたのです。つまりこのラビは、(その子ゆえに)母親に対し祈願がなされる時、神は特に慈悲深くあられるということを信じていたわけなのです。
アングロ・カトリック伝統の中で訓練を受けた聖公会司祭として、私は聖母マリアに対し、ほんわりとした発芽程度の信心を抱いていましたので、すぐにその含意(implications)に気づきました。
マリアは重要だと思っていました。なぜなら、彼女は真に、私たちの主イエス・キリストの母であり、それゆえ、セオトコス(Θεοτόκος "God-bearer"、神の母)です。神は人間であるこの女性を、ご自身の受肉された御子を宿す、清く純潔なる器としてお選びになりました。
もしもユダヤ人が、「その人の母親に祈願することで神はより寛大に執り成しに答えてくださる」ということを信じていたのなら、マリアの名は祈願するに値するのではないでしょうか。彼女の息子であるイエス・キリストは、私たちを贖うため受難のしもべとなってくださったのではないでしょうか。
さらに、マリアは単なる普通の母ではありませんでした。彼女は御父なる神に語りかけ、"our Son”と言及することのできた唯一の被造物でした。
「なるほど、、」私は唸りました。マリアに対するカトリックの信心は健全なキリスト論的諸議論を基盤にしているだけではないのです。またマリアへの信心は教父学的であるだけでもありません。そうです、教会が聖母を敬い、彼女の名に祈願するのは、それが、ーー一家の母親の果たす霊的役割に対する深遠なる崇敬を示すーーユダヤ的慣習を継承するものであるからなのです。
この気づきは自分にとり、カトリックの諸慣習が神および神の民に関するユダヤ的理解に根付いているということに対する驚くべき確証となりました。私は旧約聖書の観点からみたカトリック伝統について研究を始め、連続性の解釈学(ベネディクト十六世)が明瞭にカトリックであるところの真正なるキリスト教を開示していることを発見しました。
ー終わりー
(↑ 著者はカトリック神学者です。)
(↑Lizzieさんは、最近、プロテスタントからカトリックに改宗された若い女性です。彼女も、その他のプロテスタント信者と同様、マリア教義では葛藤していたため、このビデオは彼女と同じような背景を持つ真理探究者にとって有益ではないかと思います。)
↓ 元改革派神学者で後に東方正教に改宗したロバート・アラカキ師の論考