巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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新旧約の啓示の連続性/非連続性・漸進性・有機的一体性に関する「改革派神学」「ディスペンセーション主義神学」「正教神学」の比較対照〔J・トレンハム長司祭に質問してみました!〕

2018年7月25日付記事の再掲載

 

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赤組と白組のリレー競走(出典

 

目次

 

赤組と白組の論争

 

Aというグループの中で、赤組と白組が論争しています。そして双方共に、「自分たちの見解こそ正統であり、相手のそれは明らかに間違っている」と主張して譲りません。

 

この場合、次に挙げる5つ以上の可能性が考えられると思います。

赤組の見解が正しい。

白組の見解が正しい。

赤組の見解が大体において正しく、白組の見解が大体において間違っている。

白組の見解が大体において正しく、赤組の見解が大体において間違っている。

赤組も白組も両方とも間違っている。(ただし間違いに濃度差はある。)

 

モルモン教陣営内の場合

 

たとえば、モルモン教陣営内で、一夫多妻制教義をめぐり、ブリガム・ヤング派と復元イエス・キリスト教会(コミュニティー・オブ・クライスト)が論争しています。後者は、創立当初から多妻婚教義は恥ずべき慣習として(正しくも)否定しています。*1

 

しかしそうだからといって、モルモン教陣営という枠組みの「外」で後者の組の正当性が認められているかというとそうではなく、実際には、ほとんどのキリスト教宗派から前者も後者も共に「異端」の裁定を受けています。(上のリストのに相当。)

 

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出典

 

福音主義陣営内の場合

 

さて、福音主義陣営内では、新旧約間の理解をめぐり、契約主義派とディスペンセーション主義派が論争しています。

 

私が翻訳したUnderstanding Dispensationalists「ディスペンセーション主義者を理解する」)の中で、著者ヴェルン・ポイスレス氏は、上のリストでいうの見解を採っておられます。

 

つまり、「契約主義の見解が大体において正しく、ディスペンセーション主義の見解が大体において間違っている」です。なぜ「大体において」なのかというと、ポイスレス教授によると、人間の設定するいかなるカテゴリーや体系も、完璧にすべての聖書の真理や側面を網羅し分析することはできないからです。(←I agree with him♡)*2

 

でも両方とも間違っているとしたら、、その場合はどうなる?

 

しかし、です。この論争においても、冒頭のモルモン教陣営内での論争と同じように、「両方とも間違っている」というリストの可能性はないのでしょうか?私をこの疑問に導いたのは、この章で、ポイスレス教授が、「契約主義神学は、その起源をプロテスタント宗教改革に持ち、ヘルマン・ウィトスィウスおよびヨハネス・コケイウスによって体系化されました。」と書いていたことに起因しています。

 

〈えっ、「契約主義神学は、その起源をプロテスタント宗教改革に持ち」?ーーってことは、この神学は16世紀以前には『存在していなかった』ってことなの?最初の1500年以上、この神学は存在していなかったってことなの?ディスペンセーション主義は19世紀に体系化された神学。契約主義は16世紀に体系化された神学。これってもしかして『どんぐりの背比べ』なのかな。外から見たら程度の差はあれ、どちらも間違っているのかな?どちらもある意味、『新奇な教え』なのかな。どうなんだろう。〉

 

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出典

〈でも自分にとっては、ゲルハルダス・ヴォスやミラード・エリクソンなどの提示する契約主義的説明はとても説得力があるなって思う。でも私個人がいくら『説得力がある』って考えたところで、それが結局、使徒的な新旧約の理解とはズレているのなら、それはやはり間違っているということになるのだろう。そしてもしもそうなら、私は自分の見解を修正あるいは破棄したい。でもここで問題になってくるのは、修正/破棄するための『ものさし』をどこに(誰に)求めるかだ。〉

 

そして私はもう、この「ものさし」を自分の個人解釈や裁断に置くことに限界を感じていました。というのも、それでは結局、本当には何も分からないからです。ーー自分の主観と判断の「外」に出ることができないのですから。すべては「個」という監獄の中で循環論的になってしまいます。

 

レフリーを探すぞぉ~!

 

そこで私はこの行き詰り状況をなんとか少しでも打破しようと次のような解決策を考えてみました。

 

レフリーを探す。(意地でも探す!)*3福音主義陣営の「外」にいて、この論争をある程度、‟冷めた目”で見ることのできるレフリーを探す。

「外」にいながらも、契約主義とディスペンセーション主義、その両方を相当に深く知っている一流の神学者を探す。

教父学のエキスパートを探す。

 

そして懸命に探し回った挙句、私は、の条件を大体において満たしていると思われる人物を見つけました。それは、聖アンドリュー正教会の主席司祭ジョサイア・トレンハム神父(51)です。

 

ジョサイア・トレンハム神父

 

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ジョサイア・トレンハム長司祭(Fr. Josiah Trenham, 1967- ; Archpriest in the Antiochian Orthodox Christian Archdiocese of North America

 

カリフォルニア州の長老派信者の家庭に生まれる。1989年ウェストモント大卒(B.A.歴史学;卒論はジョナサン・エドワーズ)。1992年、ウェストミンスター神学校卒(M.Div.)。長老派のPCA教団及びReformed Episcopal Church教団に在籍。さらにフロリダ州にあるReformed Theological Seminaryで、R・C・スプロール(組織神学)、ジョン・フレーム(弁証学)各氏に師事。

 

〔信仰の危機〕

ジェンダー・フェミニズム問題で対等主義化/リベラル化を強める自教団を去り、より保守的な長老派教団に移籍する。しかし、「うちの教団もあと25年以内に女性按手が認可されるだろう」という教団長の予見的見解に致命的打撃を受ける。

 

「もしかしたら、、、プロテスタンティズムには、世俗思想の荒波に対抗する力がないのだろうか?振り回されず堅固に立ち続けるための『錨』がないのだろうか?」とここで初めて自分の属する宗派の正当性に対する確信が揺らぎ始める。

 

「僕は自分が今すべてを注いでいるこの『教会』が、自分の子ども達が大きくなった25年後の『教会』とはもはや違っており、霧散してしまっているということを考えるのが苦しくてならない。」と妻に苦悶を打ち明ける。*4

 

〔転向〕

1993年、東方正教会に転向。2004年、英国ダラム大学で神学博士号。ダラム大学では教父学のアンドリュー・ラウス(Andrew Louth)教授に師事し、聖ヨハネ・クリュソストモスの「結婚と処女性」見解に関し博士論文を執筆。

 

教父学の専門出版社Patristic Nectar Publicationsの創始者。サンフランシスコにあるSaints Cyril & Athanasius of Alexandria Institute for Orthodox Studies顧問アドバイザー、聖カテリーン大学神学部准教授。Orthodox Theological Society of America会員。

 

著書『岩と砂ーープロテスタント宗教改革者およびその教理の正教会査定(Rock and Sand: An Orthodox Appraisal of the Protestant Reformers and Their Teaching)』(2015)で、カルヴァン主義神学を含めたプロテスタンティズムの教義を詳細分析した上でそれらを論駁している。*5

 

質問してみる

 

そこで私は、トレンハム神父に連絡をとり、次のような質問をしてみました。

 

「新旧約の啓示の連続性/非連続性・漸進性・有機的一体性および、『契約』に関する、契約主義神学(およびヴォスやG・ビールに代表されるような改革派神学)とディスペンセーション主義に関するご意見をお聞かせください。正教会の伝統的契約理解と、改革派神学の契約理解の間には調和がありますか。それとも、両者の間には違いがありますか。そしてもし違いがあるとしたら、それはどのようなものですか?」

 

すると、トレンハム神父から次のような回答がありました。

 

「ディスペンセーション主義に対するカルヴァン主義者たちの批評は、正教会の批評と同じであり、正統です。また旧約と新約の間の関係性に関する改革派の理解の大半は、正教会の教えと調和しています。あなたに推奨したいのは、聖ヨハネス・クリュソストモスの著作を直接読むことです。クリュソストモスはキリスト教会史上、最大の聖書注解者と言っても過言ではありません。そして彼は旧約と新約の間の関係性についてかなり広範囲に渡り、著述しています。自著『Marriage and Virginity According to St. John Chrysostom』を読むと、クリュソストモスが贖罪史、倫理等に関し、どのように新旧約を関連づけているのかが見えてくると思います。」*6

 

一歩ずつ進んでいく

 

「旧約と新約の間の関係性に関する改革派の理解の大半は、正教会の教えと調和しています。」ということを聞けて、本当によかったです。バラバラに点在していたものが、互いにどうつながっているのかという点で洞察をいただけたことで、自分の中の「混沌」が一歩「より明瞭」になりました。*7

このような説明をしていただけると、(All or Nothingの極端ではなく)部分部分の修正・改訂がしやすくなるのでとても助かります。また、「新旧約の啓示の関係性というテーマを考究したいのなら、教父ヨハネス・クリュソストモスを直接参照することが有益である」とのご教示にも感謝です。

 

たしかにこのスタンスなら、「契約主義神学も所詮、16世紀に出来た新奇な教えに過ぎないのではないか」という不安や循環論から一歩外に出て、そこで深呼吸しながらフレッシュに考察していくことが可能になります!

 

右にぶつかり左にぶつかりながら暗中を模索している状態ですが、主は悩める者を見捨てず、外からの助けを通し、一歩前の道を光で照らしてくださっています。本当に感謝します。

 

ー終わりー

 

www.youtube.com

*1:参照

*2:

*3:

*4:参照

*5: 

*6:

*7: