巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

プロテスタント救済論について(ジョサイア・トレンハム長司祭)

 

Archpriest Josiah Trenham, Rock and Sand : An Orthodox Appraisal of the Protestant Reformers and Their Teaching, 2015. Chapter II Heresies of Protestantism(抄訳)


それでは今度は、救いに関するプロテスタント教義に注目していくことにしましょう。プロテスタント救済論の最大問題は、徹底したその還元主義にあります。

 

聖書の中においても教父文書においても、救いというのは、数多くの側面をもった壮大なる成就であり、人類をあらゆる敵どもーー罪、咎、神の怒り、悪魔、悪霊、この世、死ーーから解放するものです。プロテスタント教義および実践においては、救いというのは実質上、神の怒りからの救い、です。この還元主義は以下に挙げる二点から説明できると思います。


まず一番目に、「saved」という語の使われ方です。この語は新約聖書の中に頻出しています。ギリシャ語原語ではソーゾー(σώζω)であり、新約の中でこの動詞は、ーー過去時制、現在時制、未来時制ーー、三つすべての時制の中で用いられています。さて、プロテスタント救済論は、救いを、過去の一時点における行為としてフォーカスしています。そしてその際に、エペソ人に宛てた聖パウロの御言葉が好んで引用されます。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エペソ2:8)。

 

プロテスタント救済論における決定的焦点は、①信仰により主の名を呼ぶ、→②そこから栄光ある交換が生じる、→③罪びとの罪は救い主イエス・キリストに転嫁され、イエス・キリストの義が主を信じた罪びとに転嫁される、という点にあります。この瞬間以降、罪びとは神の怒りの下にいるという状態から、恵みの下にいるという状態に抜本的に移し替えられるのです。

 

この「救い」が耐久堅持可能か否か(=一度「救われた」人が、救いを失うことはあるのか否か)を巡っては教派によって意見が分かれていますが、これら全ての諸教派に共通しているものがあります。それは何かと言いますと、ーー法廷での赦罪宣言としての救済論という観点から、過去の行為としての救済観念に焦点を当てた霊的生活が生み出されていくという点です。ですからプロテスタント信者にとっての切実な求めは、自分が「救われた」ということに確信を持つことと、それから、他の人々もまた「救われる"get saved"」よう祈り、彼らを導き助けていくことにあります。


正教クリスチャンもまた、信仰を持つことの絶大なる重要性および救われることの必要性を認識しています。しかしながら、人が信仰「のみ」により救われる、という教えに関しては、断固としてこれを拒絶しています。ヤコブの手紙2章は、私たちが信仰「のみ」では救われないということを明確に説いています。ローマ3:28のギリシア語原典に「のみ」という語は無いにも拘らず、ルターは自分のドイツ語訳に「のみ」という語を書き加えました。

 

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独:allein

 

これがその後続く、新約聖書翻訳におけるプロテスタント歪曲の先駆けとなりました*1。ルターは、「信仰のみによる義認」という彼の教理の正誤如何により、「教会は立ちも倒れもする」ということを認めていました。*2


私たち正教クリスチャンも他の人々が「救われる」ことを心から望んでいます。この点において私たちはプロテスタント信者の方々と心を合わせています。しかしながら「救われる」ことが何を意味するのかという点で私たちはプロテスタント信者の方々と意見を違えています。私たち正教クリスチャンは、救いにおける決定的瞬間をバプテスマと関連づけているのです。実にバプテスマの秘跡において、人は赦され、罪洗い清められ、教会の中に入れられ、キリストに結び付き、聖霊の宿る聖なる宮とされます。

 

バプテスマという過去の出来事が大切なのは言うまでもありませんが、それと同時に私たち正教クリスチャンは、救いというのが一回性の決定的行為であると同様、それが生涯にわたって続くプロセスであるということも強く認識しています。バプテスマの秘跡に与った時、私たちは確かに信仰によって救われました。

 

しかしながら、新約聖書はソーゾーという動詞を、(過去形だけでなく)現在形および未来形においても用いています。実際、最もおおく使われている新約聖書中のソーゾーは、過去形ではなく未来形です。それゆえ、「聖書的」であろうと努めるなら、私たちは救いというのが(全部ではありませんが)主として未来におけるリアリティーであると考える必要があります。それゆえ、正教の教えにおいては


①私たちはバプテスマを受けた時信仰によって救われる。(we are saved)
②神に近づき、キリストの掟に従って歩んでゆく中で現在進行形で救われている。(we are being saved)
③世の審判のためイエス・キリストが栄光の内に再臨される時、私たちは救われる。(we will be saved)
となります。

 

ですから、正教クリスチャンは確信を持って、「はい。私は救われています。そして同時に救われるべく邁進しています」と答えることができるわけです。新約聖書の言語では、キリスト者は現在進行形で救われているということが記されてあります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者(=σῳζομένοις, who are being saved)には神の力です。」(1コリント1:18)。

 

聖パウロはピリピ2:12で「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と言っています。大半のプロテスタント神学においては、自分の救いに関し「恐れおののく」ことは、その人に信仰が欠如している徴と受け止められますが、反対に正教徒にとってはそれは偉大なる信仰と使徒的従順の徴だとみなされます。私たちは自分の救いに関し恐れおののくよう聖書の中で命じられているからです。

 

救いは現在進行形の働きであり、神の御力や恵みだけでなく、真理のみことばを固守する私たち自身の人間意志にも関わるダイナミックにして協働的働きであるということを私たちは覚える必要があります。主イエスが炎の中に力ある御使いたちを従えて報復を伴いつつ再臨されるその時まで、私たちは自分たちを亡きものにし救いを台無しにしようともくろんでいる猛敵たちに対し大いなる闘いをしています。

 

現在という時点において私たちは多くの敵から救われなければなりません。ーー悪魔、その手下の悪霊ども。自分たちの情念。死。確かに私たちの救い主は十字架と御受難にあってこれらすべての敵どもに決定的に勝利されました。主は悪しき者を縛りました。そして私たちの罪を贖い、情念や肉欲に打ち勝つべく諸サクラメントおよび御霊を賜わってくださいました。主は死を打ち破りました。しかしながら、主の勝利への私たちの参入は、バプテスマにおいて完成したわけでもなくまたそれが最終でもありません。イエスは私たちを救ってくださり、今現在進行形で救い続けてくださっており、そして(私たちが自分たち自身を破滅におとしめない限り)やがて来たる神の御怒り(1テサ1:10)からも救ってくださいます。


救いは過去のみに関わる事項でもなく、赦罪にかんする法廷宣言でもありません。救いとは赦し以上のものです。もちろん赦しがその核にありますが、救いは救い以上のものに関わるなにかであるのです。しかしながらプロテスタント神学においては焦点は、神の内に避難することにより神ご自身から救われるという風に還元されてしまっています。

 

一度プロテスタント信者がイエス・キリストを信じ義とされると、その後「恐れおののく」べき内容はもうほとんど残っていません。特にその人が聖霊の内的証言を通し、自分は「選民」であるという確信を得、自分の救いは未来に至るまで保証されていると確信したなら尚更です。この種の教えは、人々を過信、修徳(ascetism)の欠如、神との親密性や未来の救いにかんする罪ぶかい思い込みといった弊害を生み出すと私たちはみています。

 

こうしたプロテスタント説とは対照的にパウロは自身の救いに関し次のように告白しています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(1コリント9:24、26-27)。

 

使徒パウロは自分自身が失格者になってしまう可能性を考えていたわけです。パウロはキリストによって劇的な救いを受けましたが、それにも拘らず、己の堕落した肉体や情欲といったものを含んだ数々の敵が彼にはいたのです。それゆえ彼は肉体が彼をしてその奴隷にせしめるのではなくむしろ自分の体を打ちたたいて服従させるよう努めたのです。救いを達成すべく彼は走り、拳闘し、霊的諸訓練に従事しました。


新約聖書にあるように、私たちのフォーカスは未来において救われるという希望にあります。聖パウロの次の言葉に耳を傾けてください。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われる(shall we be saved, σωθησόμεθα,未来直説受動)のは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われる(shall we be saved,σωθησόμεθα, 未来直説受動 )のはなおさらです。」(ローマ5:9-10)。

 

上の節で私たちは、自分たちの希望が主の再臨の時に救われることにあるのをみます。その日まで私たちは日々成長し、熱心に悔い改め、神の御顔を仰ぎ、主との間の亀裂をなくすよう努め、主との交わりなき祈りなき生活を改善するよう努めます。現在の働きとしてのこの救済理解ゆえに、正教伝統はかくまでに霊的生活、禁欲主義、祈りに力点を置いているのです。だからこそ私たちには『フィロカリア』(4世紀-15世紀に渡り織り込まれた壮大なる霊操集)があり、プロテスタンティズムにはそれが無いのです。それゆえに教父たちの著述の大半は聖性や聖霊獲得のテーマに集中しているのです。そしてそれゆえ、正教伝統には2000年以上に渡る地上的な諸要求の上に飛翔した聖人たちの歴史があり、プロテスタンティズムにはそれが欠けているのです。

 

ウェストミンスター信仰告白の中で表現されている改革派の贖罪観を例に挙げてみましょう。「主イエスは永遠のみたまによって、ひとたび神にささげられたその完全な服従と自己犠牲により、み父の義を全く満たされた。」(8.5)。ここに私たちは、救い主の十字架の業に適用された典型的なプロテスタント的還元主義をみることができます。救い主の贖罪というテーマに関し、新約聖書および教父たちの著述の中で表現されている伝統的キリスト教教義では、主の十字架は以下に挙げる三つの本質的方法で私たちを救いました。

①十字架上でイエスは死に打ち破った。

②十字架上でイエスは悪しきこの世の主権、勢力の上に勝利した。

③十字架上でイエスはご自身の血潮により人間の罪に対し贖いをされた。


プロテスタント信者は、法廷及び宣言的義認という救済論的枠組みを打ち立てているために、彼らは十字架に関する教えをそういった法廷的レンズを通して読み、その結果、贖罪に関する還元主義的神学を生み出しました。そしてこの神学は、死の克服および悪魔に対する勝利という伝統的強調をないがしろにしています。こうして、プロテスタンティズムの贖罪論においては神の義を満足させることが全てになり、一つの像があたかも全体像であるかのように捉えてしまったために、結局、ただ一つのその像でさえも、プロテスタンティズムにおいては歪曲されたものになっています。


プロテスタンティズムにおける最大の還元主義は、『イエス・キリストとの結合』としての救いに関する新約の教えの真髄、もしくはテオシスに対する驚くべき軽視に見い出されます。教会の神学は、ーー救済の神秘が十字架上だけで成就されるのではなく、主の最も純粋なる母である乙女マリアの胎の中で独り子であり御子が人類と永遠に結びついた、受肉のその瞬間から開始されているーーという事実を証言しています。神と人間との合一及びコミュニオンとしての救いは、新約聖書および教父文書のあらゆるページから滴り落ちています。それゆえに「キリストにあって"in Christ"」という句は、救いおよびキリスト教生活に関する聖パウロの根本的像だったのです。


プロテスタント信者の方々は、聖アタナシウスによっていとも美しく表現された教父的言説の意味を掴むことができずにいます。「神は人になられた。それによって人が神となるために。」あるいは別の格言:「本性によって神であるところのすべては、恵みにより人が成り得るものである。」

 

伝統的キリスト者にとり、上記の言葉は決して自分たちが三位一体神の第四番目のペルソナを目指す、などということを意味していません。また自分たちが被造物であることに終止符を打つとか、創造主ー被造物の区別を否定するとか、そういう意味でもありません。これは、神秘的変革の中で恵みにより生ける神と合一しようとの求めを指しています。タボル山において、神性と人性の合一により、主は、イエス・キリストという一つのペルソナの中でヒュポスタシス的に結合され、創られざる神的光が人間の体の内にそして体中を照らしました。(主イエスの変容)。

 

聖ヨハネは言います。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(1ヨハネ3:2)。やがて実現する信者たちの変容、、神との合一という言語を絶する至福の中において人間本性が復活し、神化される、、そしてイエス様が譬え話の中で仰せになったように御父の王国の中で星のように輝くようになる、、これらが信者たちの未来の姿です。これは赦しのテーマを大きく超えています。


救いに関するプロテスタント概念の悲劇的還元主義は、テオシスに関する非常に深刻な軽視を生じさせ、堕落した人間生活やその諸制限を対象化し、さらにそれを未来に投射するという過ちを犯しています。それゆえにプロテスタント信者の方々は、この世においても人間がいかに変容され得るのかということに関する理解が阻まれています。プロテスタント伝統には聖人がいません。還元主義により、天国にいる聖人たちを受容することがままならず、彼らと積極的に交わることも阻害されています。

 

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救済に関するプロテスタントの枠組みの中にあっては、天国にいる聖人たちが、地上にいるキリスト者と個人的交わりをすべく、堕落した人間のコミュニケーション規範や存在を超越することはあり得ないとされます。正教会の伝統では、御霊にあるいのち、すなわち神化されたいのちは、私たちの現在の存在を規定している堕落した諸境界を超越すると教えています。そのような人生は、贖われた人間の予型として堕落した人間の諸限界を超越した旧約の預言者たちの中に顕わされています。

 

先見者であり聖なる預言者であったモーセは、神との交わりにより非被造なる光の中で顔が変容しました(出34:29)。預言者エリシャは何キロも離れた軍事室でシリアの王アラムがどんな戦略を練っているのかを聞き、見ることができました(2列王記6:12)。天において主と合一のうちにある神の聖人たちは、堕落した人間の諸限界に縛られてはいません。聖書によると、彼らは戦う教会(Church militant)に関することに深く心を留め、それらを知ることができるのです(黙6:9-11)。


ー終わりー

 

『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』(ダヴィド水口優明司祭、ゲオルギイ松島雄一司祭訳)

 

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*1:Martin Brecht, Martin Luther: His Road to Reformation, 1483-1521, (1985), p.108.

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*2:同著p.180