巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ジェンダー包括訳(gender-inclusive)聖書が私たち女性にとって有害である10の理由(by メアリ―・A・カスィアン)

f:id:Kinuko:20200225164218p:plain

 

Dr. Mary A Kassian, 10 reasons why the new NIV is bad for women(拙訳)*前ブログに掲載されていた翻訳記事です。

 

目次

 

はじめに:「言葉」を変にいじくり回すなら「意味」も変にいじくり回されてしまう

 

今年の初めに(2011年)、NIVの包括訳バージョンが刊行されました。この新版は、聖書の中の男性ジェンダー用語に対して何千という変更を加えています。

 

包括訳聖書を持っているのは、今時「最先端をいく」「クール」なクリスチャンとしてのトレンド・マークといった感があります。でも誤解しないでください。私は最先端が悪いといっているわけじゃないんです。私だって新しいもの好きです。でもこと包括訳聖書に関して言うなら、この聖書が教理の点で正確さに欠いているという点で私は憂いています。

 

言葉を変にいじくり回すなら、意味も変にいじくり回されてしまいます。

 

真摯な聖書学者の方々は、なぜNIV(新国際訳2011)や、NRSV(新改訂標準訳)や、CEB(共通英語聖書)などに重大な欠陥があるかということを説明しておられます。こういった方々の論稿を読んでみたい方は、Gender Neutral Bible Articlesをチェックしてください。

 

また、教理的な面での不正確さ、そして露骨な政治的アジェンダというこの二点以外にも、私がこういった包括訳聖書を受け入れることができない理由があります。もちろん、出版社側は善意でこれを刊行され、純粋に、「これが女性たちの助けになれば」と思ってくださっているに違いありません。でも私の目から見れば、包括訳聖書というのは、女性たちの助けになるどころか実際はその逆に、女性にとって害になるものです。

 

ええ、私はこの点を強調したいです。本当にこれは私たち女性にとって「害」になるものなのです!以下、私は自分がどうしてそのように考えているのか10の理由を書き綴っていきます。

 

1.包括訳聖書は、ジェンダーという深遠なシンボリズムをぼかし、不明瞭にしています。

 

ジェンダーには深遠で、宇宙的な意味があります。神様は男性像(manhood)、女性像(womanhood)、結婚、性などを創造することにより、キリストと教会との間にある愛をご表示されたのです。

 

ですから、私たちが聖書に書かれてあるジェンダー用語を勝手にいじることで、ジェンダーのシンボリズムが不明瞭にされてしまいます。その結果、神について、そして福音についての真理理解が、より困難なものになっていきます。

 

2.包括訳は、ジェンダー自体を――それが本来指し示すもの以上に――賞揚しています。

 

聖書のジェンダー用語を変えるという行為は、すなわち、「そういった用語が私たち(人間)に関わるものである」という主張を内に秘めています。

 

しかし、そうではありません。聖書というのは、究極的には、男性や女性のことを言っているのではありません。それは、人の子であり神の子であるイエスについて言及している書なのです。そうです、聖書は、男性たちを賞揚しようという目的で男性ジェンダー用語を多く用いている訳ではなく、それは「かの御方」(THE Man)――主の花嫁を贖うために究極の代価を払ってくださった唯一無二の御方――を賞揚し、高めるために用いているのです。

 

3.包括訳により、女性像(womanhood)というたぐいなき美しさが損なわれています。

 

聖書のジェンダー用語をぼかすことで、ジェンダーの区別が曖昧にされます。その結果、女性像というかけがえのない役割や美しさが損なわれ、その価値がおとしめられています。

 

4.包括訳はかえって女性を排除する結果になってしまっています。

 

ジェンダー包括訳聖書は、女性を「集合的全体の一部」として内包するのではなく、かえって女性たちを〈他者〉として締め出してしまっています。

 

神は集合的に男性と女性を「アダム」(ヘブライ語 ‘adam、創5:2参照)と名付けられました。それは何を意味するのでしょう。そうです、その事により、「男性も女性も共に同じ状態にある。そして、それに対し、主は共通の答えを備えておられる」ということを示唆しているのです。

 

男性も女性も共に「アダム」(‘adam)であるゆえに、両者共に、最初の人アダムによって等しく代表(represented)されています。そして罪により、両者共に堕落し、救い主を必要としています。

 

福音のすばらしい知らせは何かを言いますと、その両者共、第二の人――つまり最後のアダムである――イエス・キリストによって等しく代表されているのです。神が男性と女性をアダム(‘adam)と名付けられた時、神にはすでに「最後のアダム」のことが念頭にあったのです。

 

ですから、現代人の機嫌を損ねまいと、この「アダム」という箇所を私たち流の考えで「包括的」と思える何か他の用語で置き換える時、神学的な意味は損なわれ、結局、私たちは女性を排除してしまうことになるのです。

 

もし女性がここではっきりと「アダム」とみなされていないのなら、一体どうして私たちは、「最初の人アダム」によって代表され得ましょう?いえ、それだけではありません。一体どうして第二の人であり、最後のアダムであるイエス・キリストによって、私たち女性は代表され得るというのでしょう?

 

ジェンダー包括訳聖書は、「女性にやさしい訳」、つまり女性をより包括している聖書であるとされています。しかし逆説的なことに、神学的に全く逆のことがなされています。そうです。この訳は集合的全体から、女性を排除してしまっているのです。

 

5.包括訳は女性を貶めています。

 

ジェンダー包括訳聖書は、結局のところ、「女性というのは本来、頭が鈍く、聖書の中で「男」とか「兄弟たち」と書かれている箇所が包括的用語であるということさえ機敏に悟ることができないほど私たち女性は愚鈍な存在である」ということを暗示してしまっています。

 

だから男性の聖書翻訳者の先生方は、そんな愚かな私たち女性のために言葉を置き換えたり、いろいろ努力しなければならない、、率直に申し上げます。私はこのような聖書訳から、女性の知性に対する軽蔑心を感じています。

 

6.包括訳は女性を脆弱な存在と見下しています。(It patronizes women)

 

かわいそうな娘たち。私たち女性の感情が傷つかないようにと、翻訳者の方々は聖書の言葉を変える必要性を感じておられるのです。女性っていうのは、ちょっとしたことですぐ気分を害したり腹を立てたりするから、、、と。でも一部の女性たちが、聖書の用語のことで腹を立てたりするから聖書の言葉を変えるというのは、結局、女性を見下していること(patronizing)にならないでしょうか。

 

7.包括訳は、女性に対する神の態度に疑問を差し挟む結果を生み出しています。

 

ジェンダー用語に変更を加えるというのは、「神様は、女の子にも男の子にも同じだけの〈放送時間〉を与えなくちゃいけないのよ!」という前提に基づいた行為です。

 

両者の間にある相違を最小限にしようという試みは、結局、神様は私たち女性の気持ちを十分に配慮してくれていなかった、、と言っているようなものです。そこから導き出される自然な結論として、神様は明らかに女の子よりも男の子の方を気に入っておられる、ということになります。そういった結論は間違っています。そしてそのような前提自体、間違っています。

 

8.包括訳は神様の知恵に疑問を差し挟む結果を生み出しています。

 

〈かわいそうな神。神は私たちの助けを必要としているのです、、神はあんまり賢明な方じゃないので、ちゃんとした用語を選ぶことができなかったんです。だって神様は、現代に生きる私たち人間のようには啓蒙されてもいないし、賢くないんですもの!さあ、だから私たちはこういう事態をおさめるべく、問題解決に乗り出し、「神のかたち」をアップデートし、現代女性のご気分を損ねないような聖書の訳づくりをし直さなくちゃならないんです。〉

 

9.包括訳は、御言葉を「書き換える」という行為をさらに奨励してしまっています。

 

「クリスチャンというのは、神に対する畏れもなく、自らの聖典をいじくり、勝手に書き変えることのできる人たちなんですね!なんと〈大胆不敵〉な人たちでしょう!」と、あるイスラム教徒の方がびっくり仰天しておられました。

 

そうです。現時点ですでに私たちは、「人間」に対するジェンダー用語を勝手に書き変える〈大胆不敵さ〉を持っているのですから、今後は「神」に対するジェンダー用語さえも書き変えていく*1、そういった〈大胆不敵さ〉をも近い将来、発揮していくことになるのではないでしょうか。

 

今後、さらに多くの聖書翻訳者が、「神の名をアップデートしなくちゃならない。そうすれば神はより〈ジェンダー包括的〉な方になるだろうから」と感じるようになるに違いありません。

 

「父母(ちちはは)神」「イエス――女性と男性の子」「天空にある、存在の偉大な源」「神・女性神(Goddess)」などという用語は、聖書の中にある男性ジェンダー用語よりもはるかにジェンダー包括的な神性の概念を伝えることができる、と彼らは考えているのです。

 

みなさん、もはや無邪気ではいられません。私は長年、フェミニスト神学について研究してきました。ですから分かるのです。自己を名づける(naming self)という行為は、世界を名づけることにつながり、それはやがてを名づけることにつながっていくのだということを。これは本当に〈大胆不敵〉な行為です!

 

10.包括訳は女性を真理から引き離します。

 

私は同胞女性のみなさんを愛しています。深く。私はみなさんがキリスト・イエスの中で癒され、すこやかにされていくことを願ってやまない者です。ですから、もし私が聖書のことでペコペコお詫びし、御言葉の有する装飾なき美しさと力を受け入れないなら、、、

 

そして、ある人々にとっては「愚かな物」であり「つまずきの石」とみなされているけれども、実際には義と聖化そして贖いをもたらす神の力であり知恵である御言葉を宣べ伝えることをしりごみするなら、私は結局、みなさんにひどい仕打ちをすることになってしまいます。

 

神様および主の言葉を「もっと現代人に耳障りのいいものにしよう」と試みる時、私はみなさんを最終的に失望させることになります。そうです。そういった行為により、私たちは十字架の言とその力を空虚なものにしてしまうからです(1コリント1:17-30)。

 

ジェンダーおよびジェンダー用語は重要です。これは女性のアイデンティティーの本質に触れるものであり、神のご性質および福音の本質に触れるものです

 

こういったものに関する聖書の教えを私たちが「改良」することができるなどと思うのは非常に間違っています。大きな鳥瞰図でみると、創造のはじめから、ジェンダーに関する神のご計画は私たち人間についてというよりも、むしろ主ご自身に深く関わりのあるものであったことが分かります。

 

このようにして主がご自身の栄光を顕そうとお選びになった言葉やイメージ(象徴)、やり方などを私たちは完全には理解できないかもしれません。でも私たちは次のことに信頼を置くことができます。そうです、それら神様がお選びになったものは正しくふさわしいというだけでなく、それはまた良いものなのです。とても良いものなのです!そしてそれは私たち女性にとっても、とても良いものなのです!

 

 

おわりに:善戦するに値する戦い

 

言葉は時と共に変わるものであり、それ故、翻訳というものは容易な作業ではありません。でも私は、クリスチャンが、文化的「パレード・ワゴン」に我先に飛び乗って、包括語でもって神様の聖なる書物をアップデートしようとしている様子に心を痛めています。

 

そういう事をしておられる方々は、自分たちが何をしているのか、、そこに実際、何がかかっているのか、その深刻さを自覚していないようにお見受けします。私の教え子の中には外国人留学生もいます。その中には、神様の概念についての理解で相当苦労している生徒たちもいます。

 

なぜなら、彼らの母国語の聖書には、原語の中に存在しているジェンダーの概念がしっかり反映されていない、あるいは訳されていないからなのです。私たちの母語の中に付与されているジェンダーの性質、その言語学的概念を失うことで、私たちはとても大切で本質的な何かを失っていくことになります。

 

私たちの母国語の中に存在するジェンダーの区別を保持していくことは、善戦するに値する戦いです。なぜなら、この問題をめぐっては、まさしく非常に大きなものがかかっているからです。

 

ですから女性のみなさん、どうか、ジェンダー包括聖書というワゴン車に飛び乗らないでください。勇敢であってください。政治的アジェンダに左右されないでください。あくまでも正確にジェンダー語を訳出している聖書にこだわり続けてください。なぜなら、究極的にいって、包括語および包括訳聖書というのは私たち女性を害するものなのですから。

 

―おわり―

 

関連記事

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com