巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義クリスチャンと聖母マリア(Θεοτόκος)(by ロバート・アラカキ)【後篇】

 【前篇】からの続きです。

 出典

 

目次

 

Robert Arakaki, Why Evangelicals Need Mary, Reformed-Orthodox Bridge, 2012(抄訳)

 

マリアの処女性——聖書的立証

 

福音主義クリスチャンが為す反論の一つは、「マリアが永遠に乙女である*1」つまり、マリアの永続的処女性(perpetual virginity)に対する正教信仰への異論です。

 

マリアのイコンはどれも額と両肩に三ツ星やダイアモンドが描かれていますが、これはキリスト誕生以前、誕生さなか、誕生後のマリアの処女性を表象しています。これは曖昧な巷の伝承のたぐいではなく、AD533年、コンスタンティノープルにおける第五回全地公会議で、普遍教会の根本教義として規定されたものです。

 

福音主義クリスチャンにとっての主要点は、「聖書は何と教えているか?」です。マリアの永続的処女性の是非にかんする聖書データを鑑みる際、私たちは聖書記録がこの点に関しいかにあいまいであるかに驚かされます。

 

キリストがおとめマリアより生まれたことを擁護するための聖書立証テキストを収集することは福音主義者にとってきわめて容易なことです(イザヤ7:14、マタイ1:18-25、ルカ1:26-38)。しかし、マリアにはイエス以外に実子たちがいたということを主張する際、福音主義クリスチャンは薄氷を踏み始めます。この主張をするにあたり、彼らはマルコ6章2-3節を引いてきます。

 

安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 (マルコ6:2-3)

 

この聖句が教示しているのは、イエスがマリアの息子であるということであって、(イエス以外に)マリアにその他の息子たちや娘たちがいたということを教示しているわけではありません。上記の四人とマリアとの関係は、ここの聖句からは明瞭ではありません。

 

マリアが彼らの母であったというのはこの箇所の読みとして一つの可能性ではありますが、唯一不可避な読みというわけではありません。もう一つの読みとしては、彼らはヨセフの息子たちであり、彼らはヨセフがマリアと婚約する以前の結婚において生まれた子たちである、というものです。

 

歴史的キリスト教理解では彼らは以前の結婚によって生まれたヨセフの息子たちであるとされています。プロテスタントの理解は最近のものです。

 

もう一つ興味深い聖書データとして挙げられるのは、確かに聖書はマリアがヨセフと婚約していたということを示しているものの、マリアとヨセフが結婚したかについては明確には述べていないということです。1世紀のパレスチナでは婚約というのは厳粛なる儀式であり、男性と女性は互いに将来を約束し合いました。これは婚姻に先立つ婚約の二段階プロセスの一部です。

 

ヨセフとマリアが結婚したことをマタイとルカが決して言及していないという事実は、彼らが婚約したけれども性的結合を通した関係完成の第二段階を踏んでいなかったという解釈を間接的に支持しています。

 

マタイとルカが、マリアとヨセフの関係を描写するのに、「結婚する」γαμεωという語ではなく、「婚約する」μναομαιという語を用いているのは注目に値します(マタイ1章18節、ルカ2章5節)。聖書からの証拠に照らし、福音主義クリスチャンの方々はマリアがヨセフの婚約者ではあったけれども完全には彼の妻ではなかったという可能性に対しオープンである必要があるでしょう。

 

福音主義者はマタイ1章25節「男の子が生まれるまで(‘εως)マリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」の箇所を指し示します。多くの福音主義者にとってここの聖句の読みは、「マリアがイエスを産むまでヨセフはマリアと性的関係を持つことを控えていたが、イエス出産後、彼はマリアと性的結合関係を持った」というものです。

 

しかしながらこの聖句の読み方はその他にも複数あります。ギリシャ語の接続詞‘εωςは必ずしも、beforeとafterの鋭利なる時間的区分を示しているわけではありません。‘εωςの意味領域はbeforeとafter双方の連続性を許しています。

 

例えば、大宣教命令の聖句(マタイ28:19-20)においてキリストは、ご自身が世の終わりまで(until, ‘εως)いつも私たちと共にいるということを約束してくださっています。ここの聖句をもって、「それじゃあ、キリストの再臨の『後』にはキリストはもはや私たちと共におられなくなるのだ」と解釈する福音主義クリスチャンは皆無でしょう。誰もそのような解釈はしません。

 

それだけではありません。福音主義クリスチャン にとってさらに厄介なのは、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンを始めとするプロテスタント宗教改革者の中で、そのような解釈を施していた人は誰一人いないという事実です*2。カルヴァンは、マリアの永続的処女性を否定していた人々を糾弾し、そのような解釈は聖句の意味に適合していないと批判しつつ次のように言っています。

 

「ヘルヴィディウスはこの聖句に異議を唱え、ある時期、教会の中で騒動を起こしていた。彼はこの聖句から演繹し、マリアは最初の出産の時まで乙女であったに過ぎず、その後は、彼女の夫との間に他の子たちをもうけたと主張していたのだ。マリアの永続的処女性はヒエロニムスによって熱烈にそして厖大なる筆量で擁護されている。・・ヨセフは〔マリアがイエスを〕出産するまで彼女と性的結合関係がなかったということであるが、これとてそれと同時期に適用されるにすぎない。その後何が起こったかに関しては、ヨセフは何も言っていない。」*3

 

歴史的コンセンサスという観点でいえば、東方正教、ローマ・カトリック、元々の宗教改革者たちはいずれも皆、マリアの永続的処女性に関し見解の一致を見い出しています。マリアが永遠に処女であるということを否定している福音主義者は、歴史的メインストリームから外れた所にぎこちなくわが身を置いていることになります。

 

マリアの永続的処女性—神学的角度

 

20世紀初頭、勃興する神学リベラル派に対抗し、強固に処女懐胎の教理を擁護してきた福音主義クリスチャンが、マリアの永続的処女性を受容するのにかくまで苦戦しているのはなんとも皮肉なことではないでしょうか。

 

これらの人々は、マリアはキリストを産んだ後、ヨセフと普通の性的関係を持ち、その後数人の子をもうけたということを強く主張しています。不思議でならないのが、なぜプロテスタント信者は、マリアがヨセフと性的関係を持ったということを神学的ドグマに類似したなにかにせしめようとしているのか、という事です。

 

マリアの永続的処女性を受け入れるのに困難を覚えている人がいるとすれば、それは他でもない(処女懐胎を否定している)リベラル派の人々でしょう。しかしながら正教に関心を持っている福音主義クリスチャンにとっておそらく最大の問題は、「なぜそもそも正教はマリアの永続的処女性をそこまで深刻に取り扱っているのか?」という戸惑いと疑問でしょう。なぜこれが一大事なのでしょう。

 

マリアの永続的処女性が私たちの救いとどのように関連しているのでしょう。罪の赦しにフォーカスを置くプロテスタントの救済論パラダイムを用いるなら、マリアの永続的処女性は周辺的・末梢的なことです。しかし正教の救済論パラダイムを用いる時、それは重要です。なぜなら正教パラダイムは義認論だけでなくキリストにおける私たちの救いの全体性にフォーカスを置いているからです。

 

マリアの永続的処女性は私たちの義認ではなく、キリストにある聖化および栄化に関係しています。私たちの救いはマリアの救いに関係しているのです。なぜならイエスはただ単に個々人を救うためだけでなく人類を救うために来られたからです。マリアがキリストによって救われたように、私たち一人一人も救いを受けます。

 

マリアは私たちの救いの原型(prototype)です。モデル・ルームの類比で考えてみましょう。ハワイには数多くの計画コミュニティー地区があります。車を走らせると私たちはしばし、だだっ広い敷地に出くわします。そこには何もなくただ開発者による住宅開発計画の看板が立っていたり、あるいは参考にモデル・ルームが設置されていたりします。

 

ここでいう開発者とは神のことであり、多くの幸せな家庭でいっぱいの未来の計画コミュニティーは、やがて来たるべき贖われた人類を表象しています。マリアはモデル・ルームです。マリアは私たちを救うキリストの偉大なる御力を証左する生ける証拠です。救いというのは漠然とした遠い未来に起こるなにかであるに限らず、セオトコスの生涯の中において、私たちは自らの究極的救いにかんする具体的証拠を持しているのです。

 

聖化はキリストにある私たちの救いにおいて不可欠な要素を形成しています。すばらしいことに、数々の罪が赦されるだけでなく、キリストは私たちのような不敬で穢れた者たちを受け取り、ご自身の聖なる神殿の中で奉仕するにふさわしい聖なる者へと造り変えてくださるのです。私は礼拝の中における聖性の触知的感覚を正教の中に見出してきました。

 

 出典

 

Divine Liturgyの中における神の聖さを経験することで私は、9カ月という期間、マリアがキリストを胎の中に宿していたことの重要性を理解することが少しずつできるようになりました。キリストを胎内に宿していたことにより、マリアは非常に深遠なる方法で聖化の経験をしていたのです。

 

マリアの永続的処女性は、《受肉》がリアルにして永続する諸結果をもたらしていることを示しています。マリアがキリストを彼女の人生に受け入れた時、彼女は内的にも肉体的にも変化を遂げました。

 

セオトコスとしてマリアは旧約聖書の元型(archetypes)の成就です。契約の箱舟、至聖所、燃える柴、マナの入った金の壺、神殿の中の聖なる燭台、金の香壇、神秘的に芽を出したアロンの杖、エゼキエルの神殿の封じられた東の門等です。

 

旧約聖書においては、一度なにかが聖別され、聖なる用途に用いられたなら、それを通常一般の諸目的に再利用することは神聖冒涜とみなされます。キリストを胎に宿したマリアにおいて、私たちは旧約のいかなる元型をもはるかに凌ぐなにかを見い出します。キリストを宿した後にマリアが他の子を宿すというのは譬えていってみれば、司祭が聖餐の聖杯にソーダを注ぐようなものです。もしくはイスラエルの民が至聖所を収納ルームとして用いるようなものでしょう!

 

正教クリスチャンにとって、「マリアは他にも子らをもうけた」とか「マリアはヨセフと性的関係を持った」といったようなプロテスタント的考え方は、聖性に対する驚くべき感覚欠如を示すものとして捉えられています。

  

マリアの永続的処女性はまたキリストにある私たちの究極的救いに関連しています。彼女が永遠に乙女であることは、やがて来たるべき生の預言的予表です。サドカイ人たちに対しイエスは次のように仰せられました。

 

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マルコ12:25)

 

結婚と性的結合が現時代に特有なものだとしたら、処女性と独身制はやがて来る世に特有のものです*4。乙女であり且つ母であるマリアは両時代をつなぐ架け橋です。マリアは、子をもうけた創世記の中の第一のエバのようでありますが、それと同時に彼岸の生を予表する第二のエバです。それゆえ、マリアは二つの時代をつないでいるのです。*5

 

この点に関し、著名な福音主義神学者であるジョージ・ラッドは著書The Presence of the Futureの中で、「現在の成就および未来における終末論的完成(1974:133)」と記しています。マリアは神に対し「はい。」とお答えし、この世の救い主を産んだことで人類史の経路に変化をもたらした第二のエバです。

 

しかし「マリアはその他の母親たちと同様、子持ちだった」というプロテスタント見解を採用するなら、その時、マリアは現在の堕落した時代の中に直属している一般の女性であるということになってしまいます。そこには来たるべき時代を予表する決定的な神的介入はどこにもありません。

 

《受肉》は歴史の中に消えていった9カ月限定の輝点だったのではなく、むしろ“eucatatrosphe”的なもの、つまり、人類に善がもたらされるべく時間の中のある瞬間に起こり、且つ末永く広範囲なる諸結果をもたらし続けている出来事なのです。

 

祈りのパートナーとしてのマリア

 

福音主義クリスチャンにとってもう一つのハードルは、マリアに向かって祈るという正教慣習です。私たちはマリアに、自分たちと共に祈ってくれるよう嘆願します。つまり、「祈りのパートナー」になってほしいと頼んでいるわけです。

 

自分たちが必要としているものをくださいとマリアにお願いはしません(必要の満たしはただ唯一神だけがなすことができるからです)。祈りの中に共に連なってほしいと彼女に嘆願しているのです。

 

プロテスタントの友人と信仰の話を分かち合おうとしている正教クリスチャンは、プロテスタントの方々が、信者とキリストの間に仲介者を置くいかなる試みをも恐れているという点をよくよく認識することが必要でしょう。そして私たち正教クリスチャンにとって、神と人との間の仲介者は唯一イエス・キリストお一人であるという点をプロテスタントの友人たちにしっかり伝えることが肝要だと思います。(1テモテ2:5)

 

マリアに関する正教会の理解は御言葉に基づいています。そして祈りに関する正教の理解は、「communion of saints(ἁγίων κοινωνίαν)」(使徒信条)という古代の教義に基づいています。

 

正教クリスチャンは、自分たちが単独で祈っているのではなく、多くの証人たちに絶えず雲のように囲まれており(ヘブル12:1)、現在進行形で行なわれている天的礼拝に集っているのだという事実を深く認識しています(黙示録5章、7章)。

 

執り成し手としてのマリアの役割についてですが、自分がかつての母教会(United Church of Christ教団)の宣教委員長を務めていた時、トム・テルフォード師から次のような心あたたまる逸話を聞いたことがありました。

 

 「かつて私は近郊の老人ホームにおられる三人の敬虔な聖徒たちの元を訪れたことがありました。私はまずグラディースに会いに行きました。ドアをノックしましたが、彼女の視力はかなり衰えていました。「グラディー姉、私が誰か分かりますか?」「トミーでしょ!」そして彼女は私をぎゅっと抱きしめました。彼女と話しながら私はここで終日何をして時間を過ごしているのですかと訊ねてみました。

 彼女は言いました。「ここに来てごらんなさい。そしたら分かるから。」見ると、そこには黄ばんだノートがあり、そこに52人の宣教師の名前が記されてありました。「私はね、この人たちのために祈りながら一日一日を過ごしているの。ほら、トミー、あなたの名前、ここにありますよ。」*6

 

グラディースが来る日も来る日も欠かさず誠実に為していることを、天においてマリアも日々欠かさず為しているのです。グラディースはこの世の旅路を終え、主にまみえた後も、トム・テルフォードのために祈ることをやめないでしょう。マリアおよび天にいる聖人たちは地上にいる私たちのために熱心に祈ってくれているということを私たち正教クリスチャンは信じているのです。

 

プロテスタンティズムの心の傷跡(Protestantism’s Emotional Scars)

 

マリアに対するプロテスタントの回避現象は、そのルーツを、宗教改革における心理的トラウマに辿ることができると思います。ローマ・カトリシズムとプロテスタント宗教改革の間の宗教論争によって、西ヨーロッパ世界の社会的、政治的、宗教的一致は引き裂かれ、それらは西方キリスト教に感情的傷あとを残しました。

 

トラウマ体験を通ると、多くの場合、人はその経験を抑圧しようとします。あたかもその出来事が起こらなかったかのように完全に忘れてしまうのです。しかしながらその経験はその後も長く、犠牲者の態度、認知、諸行動に形を与え続けているということを心理学者たちは知っています。

 

彼らはもはやその出来事を覚えていないかもしれませんが、そのインパクトは依然として彼らの人生の中に顕在しているのです。それは彼らがその影響に気づいていない場合にあってさえも彼らをコントロールしています。通常、彼らはその出来事に向かい合い、自らの思考を再構築すべくセラピーを必要としています。

 

プロテスタンティズムがローマ・カトリック教会という形態における母教会を拒絶した時、それは不可避的にマリアを拒絶せねばなりませんでした。それは、救いにかんする神の御計画における彼女の役割を最小化すべくマリアを拒絶しました。新教は、数多くいる信仰者の中の一人としてマリアを受け入れたものの、救済史における彼女の役割に対し彼女を称えることを拒みました。この喪失はプロテスタンティズムの精神に荒廃をもたらしました。

 

プロテスタンティズムはさみしい宗教です。私たちは独りでキリストに信仰を持ちます。—個々人として、それぞれが単独で。私たちは類似の意見を持つ個々人として、日曜の朝、集います。私たちは独りで聖書を読みます。—聖書が何を意味しているのかの教示を受けるべく他の人々に頼ることがままなりません。

 

プロテスタント組織諸神学には論理的一貫性があるものの、そこにはある種の空虚感があります。母としてのマリアを知らないでいることは大いなる喪失であり、さらに悲しむべきことに、私たちはそれが喪失であるということに気づいていないのです。

 

しかしながら公正を期すために言いますと、マリアをないがしろにするというプロテスタント傾向は元来の宗教改革には見られないものでした。この傾向は多分後期発展、おそらくは17世紀ピューリタン運動からの発展ではないかと思われます。

 

カルヴァンのような宗教改革者たちは、教会を母(Mother)として強靭に是認していましたが、この理解はその後、多くのプロテスタント信者によって大部分無視されていくことになります。

 

これらは、なぜプロテスタンティズムにおいてマリアにしかるべき敬意と栄誉が帰されていないのかに関する私の個人的推測です。他にも説明はきっと為され得るでしょう。16世紀プロテスタントのローマ・カトリシズム批判の中にはある種妥当な批判もありました。しかしながら表層的類似性にもかかわらず、正教とローマ・カトリシズムにはやはりそれ相応の抜き差しならぬ違いがあるということを福音主義クリスチャンの方々は心に留めるべきでしょう。

 

フレデリカ・マシューズーグリーンは著書At the Corner of East and Now の中で東方と西方の異なる気質について次のように述べています。

 

 「正教において、マリアはか弱く、生気のない人ではなく、力強い人物です。彼女は私たちの隊長です。なぜなら彼女は隊の第一人者であり、彼女の模範に男性も女性も倣おうとしているからです。・・西方キリスト教は比較的女性的趣があるかもしれません。強調は養うことと慰めることにあります。神が私たちの内なる傷を癒す時神との再合一が起こります。西方において、私たちは自分たちを慰めてくださるよう神に願い求めます。一方、東方において私たちは自分たちが成長し、強くあれるよう神に願い求めます。」

アレクサンダー・シュメーマン神父は『この世のいのちのために』の中で次のように記しています。

 

「西方において、マリアが主として乙女ーー彼女の全き、天的純潔およびあらゆる肉的汚れからの自由により私たちとはほとんど完全に異なる存在としての乙女ーーであるのに対し、東方では彼女は常にセオトコス(生神女)として言及され称えられており、それゆえほとんど全てのイコンは彼女を御子と共に描いているのです。」

 

ローマ・カトリシズムにはマリアの例外論を強調する余り、彼女が人類と共有している部分を無視してしまう傾向が見受けられるように思います。教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅Dives in Misericordia(神のあわれみについて、p.30)の中で、「マリアはまた他のどの人間とも違う形で、特別に、例外的な仕方で憐れみを受けました」と記しています。

 

マリアの例外論への強調は、《受肉》への私たちの理解を鈍らせる危険性を秘めています。私たちの救いは、完全に人としてのキリストに依拠しており、キリストの人間性はマリアの人間性に依拠しています。セオトコスとしてのマリアへの強調をする正教はその意味で、西方よりもより健全なバランスが取れていると言えるかもしれません。

 

正教に向かう旅路の最中にいる福音主義クリスチャンたちは、東方正教がローマ・カトリシズムと異なっているということに留意し、自分たちのアンチ・カトリック偏見により、正教のマリア理解を聞く耳が濁らされてしまうことのないよう気を付けなければなりません。

 

正教の方へ漕ぎ出す

 

福音主義者にとり、正教クリスチャンになることは単に神学を変更すること以上の変革を意味しています。私のようなプロテスタント信者にとって、正教徒になる上でのハードルは正教クリスチャンがマリアに関して信じている内容を受容する事だけにとどまらず、正教徒がマリアを愛しているように愛することも含まれました。

 

この点を説明するのに良い具体例があります。あるオランダ人神学教授がロシアにある正教会を訪問した時の様子です。

 

 「ある日、彼はモスクワの正教会の聖堂に入り、マリアとキリストの描かれたイコンの前に立っていました。するとそこに一人のロシア人老女が近づいてきました。ハンスが外国人であることに彼女はすぐ気が付きました。ハンスのような高級な服装を購入できるロシア人は少ないからです。また老女は彼が正教徒でないことも分かりました。

 というのも、彼は十字を切らず、イコンに口づけもしていなかったからです。彼は美術館で絵画を観賞しているような様子でイコンを見ていました。

 「お前さん、どこからいらしましたかい?」彼女は訊ねました。「オランダです」ハンスは答えました。「おお、オランダですかい。オランダには信仰者はいますか。」「ええ。オランダ人の大部分は教会に所属しています。」彼女がいぶかしげな表情をしているのにハンスは気づきました。

 彼女はさらに追及してきました。「お前さんも信仰者ですかい?」「はい。実は私、大学で神学を教えているんです。」「オランダの人たちは、日曜日に教会に行っとるかいな。」

 「ええ。ほとんどの人は教会に行ってます。どの町にも教会があるんですよ。」「オランダの人たちは御父、御子、御霊を信じとりますか」と彼女は十字を切りながら訊ねました。

 「ええ、信じてますよ」ハンスは請け合いました。しかし彼女は尚も疑惑の表情はたたえています。ーーそれじゃあ、なぜ彼は十字を切らないのだろう。

 それから彼女はイコンの方を見、訊ねました。「お前さんはセオトコスを愛してますかい」さすがにこの質問にハンスは戸惑い、言葉を失いました。誠実なカルヴァン主義者であった彼には、どうしても「はい。愛していますよ」という答えができなかったのです。

 やっとの思いで彼は言いました。「マリアに深い敬意は表しています。」「おお、なんと可哀想なこと」彼女は痛まし気な声を出しました。「でもあたしはねお前さんのために祈りますよ。」そしてすぐさま、彼女は十字を切り、イコンに口づけし、その前に祈り始めました。

 「それでですね。」ハンスは私に語りました。「あの日以来、私はセオトコスを愛するようになったんですよ。」」*7

 

このストーリーは、福音主義者と正教との間の基本的相違を要約していると思います。マリアに対する福音主義的アプローチが、距離感のある敬意であるのに対し、正教のアプローチは愛情と信頼です。

 

プロテスタント信者にとってマリアが遠い歴史的人物であるのに対し、正教クリスチャンにとってマリアは毎週日曜の朝、礼拝の中で私たちに寄り添ってくれる存在です。

 

Mare sărbătoare, sfânta pomenită astăzi vindecă bolile trupului și ale sufletului! Rugăciunea care face minuni! Se rostește 9 zile la rând, începând cu data de 22 mai! |

出典

 

正教改宗への霊的旅路の中で私にとって最も助けになった原則があります。それは何かと言いますと、「自分に無理強いして正教の人々がやっていることをやろうとはしない。その代り、自分にとっての正教の中で次第に成長していく」というものです。

 

リトルジーに対する私の理解が深まっていくにつれ、礼拝や祈りに対する私のアプローチにも次第に変化が表れてきました。気が付くと礼拝時、私は十字を切り、キリストのイコンに向かい頭を下げていました。その後、正教礼拝にさらに接近するもう一つのステップを踏みました。セオトコスのイコンに向かっても頭を下げ始めたのです。

 

キリストに対する彼女の勇敢なるコミットメントおよび人類史の中における彼女の重大なる役割に敬意を表し、私は頭を下げました。その後、今度は自分の個人的デボーション生活にも変化が訪れ始めました。それまで私のQT(Quiet time)はその日の聖書箇所を読み、黙想し、自由な形態で祈る、というものでした。

 

ですがいつしか私は『正教徒の朝の祈り』という祈祷書を用いるようになりました。そうしますと、朝のデボーションの時が以前よりも三位一体神への祈りにフォーカスされるようになっていくのに気づきました。そしてもはや自分の祈りの中からマリアを排除することをせず、個人的祈りの中にマリアやバプテスマのヨハネといった偉大なる信仰の英雄たちを含め、彼らと祈りを合わせるようになっていきました。

 

「聖書のみ(Sola Scriptura)」 vs. 「聖伝(Holy Tradition)」

 

正教クリスチャンになっていく上で非常に重大なプロセスは、「聖書のみ(sola scriptura)」というプロテスタント原則と袂を分かち、教会が受け継いできた聖伝(Holy Tradition)を受容していくというこの過程です。

 

それだからこそ、正教に関心を持つプロテスタントの方々にとってマリアがこれほど大きな問題となってくるのです。正教の中にある全てが聖書の中に見い出され得るわけではありません。福音主義のみなさんは、「聖伝は聖書に相反しない」ということを知る必要があると思います。なぜなら、聖書というのは聖伝の不可欠な一部であり、この聖伝の源泉はキリストご自身であるからです

 

ここでの相違は、プロテスタントの原則である「聖書のみ」と正教の原則である「聖伝」です。プロテスタントの方々は自らの神学を聖書から引き出していると主張しています。これらの方々は聖書を神のみことばとして信頼しているのですが、教会の教導権威に信頼を置くことに関しては戸惑いを覚えておられます。

 

しかしながら教会の教導権威を拒絶しているプロテスタント信者は実質上、各自が自己流でそれぞれの神学を打ち立てています。それに対し、正教の考えでは、自己流クリスチャンなるものは存在せず、究極的に私たちが信じているものは、使徒たちにまで溯る長い長い伝達ラインを通した聖伝という手段によって自分たちに伝えられてきた、ということを信じています。

 

福音主義者だった時、私は帰納的聖書研究メソッドを用いていました。そして補助という形でそれに初期教父たちの文献研究を加えていました。その時点で自分が徐々に正教に接近しつつあるということを自覚してはいたのですが、それでもメソッドに関しては依然としてプロテスタントでした。それは譬えていうと、自分流のやり方で家で一生懸命勉強しているのだけれど、教室での学びには足を運ばない生徒のようでした。

 

しかしその後、私の中でプロテスタント神学が崩壊するという出来事が生じました。それゆえ私は正教を真剣に検討せざるを得なくなったのです。この神学的危機は二つの発見によって引き起こされました。

現代福音主義を成り立たせているものの大部分は実は19世紀までしか溯れない。

宗教改革の二大主要教義であるソラ・フィデ(信仰のみ)およびソラ・スクリプトゥーラ(聖書のみ)は初代教会の教えでは決してなかった。

 

それと同時進行する形で、私は教会史を研究し、その結果、「正教は初代教会の諸教理を保持し続けている」という正教の主張は正しいという結論に導かれるようになりました。当時、私は懐疑主義に陥っていましたが、そこから脱出し、懐疑に代わり、深い敬意と信頼が私の精神に訪れました。キリスト教信仰の主要部分において正教会は信頼し得るということを確信するようになりました。正教徒になる覚悟ができました。

 

今、この記事内で書いているマリアに関する考察は、自分が正教クリスチャンになる「前」ではなく、「後」に学んだものです。正教会に入った時点では、マリアに関し私は全ての回答を得ていたわけではありませんでした。(例:マリアの永続的処女性)。その当時の私の心がまえとしては、「仮に正教会がキリストや三位一体論という重要事項において正しい教説をしているのなら、乙女マリアする正教の教説も信頼し得るだろう」というものでした。

 

正教会に入ったことは、まあ言ってみれば、大学入学手続きを済ませ、クラス登録し、教授たち(=主教たち)の教導権威の下にわが身を置くというようなものでした。私は自学自習のプロテスタントであることをやめ、過去の偉大なる神学者たち(リオンのエイレナイオス、大アタナシオス、カッパドキア教父たち等)から薫陶を受けるという恩恵に与るようになりました。

 

共に私たちは救われ、一人では滅びる(Together We are Saved, Alone We are Lost )

 

質問:「救われるために私は乙女マリアを信じる必要があるのでしょうか。」

 

この問いに対する回答は「救い」という語がどういう意味で用いられているかによります。もしもここで言う「救い」というのが、プロテスタント信者の救済論理解に沿い、キリストの十字架上での贖罪死および私たちが御国に行くことを意味しているのなら、その際には、回答は「否」となります。

 

しかし他方、「救い」というのが、正教信者の救済論理解に沿い、人性を呈するべくキリストが天から降ってこられ、私たちの存在がキリストの死および復活にバプタイズされ、私たちがキリストの御体である教会に取り込まれた、ということを意味しているのなら、その際には回答は「然り」となります。

 

ここでの相違は、神学的パラダイムの相違に根付いています*8。プロテスタントの救済理解では、十字架上でのイエスの死および私たちの罪の赦しにフォーカスが置かれています。それに対し正教の救済理解では、キリストは語のもっとも豊満なる意味において私たちを救うため天より降ってこられました。正教の神学的パラダイムはキリストの《受肉》——キリストの御生涯、復活、昇天——にフォーカスを置いています。

 

つまり、プロテスタント信者が救済論に関しミニマリスト的アプローチを採っているのに対し、正教はキリストにある私たちの救いの豊満性を強調しているということが言えるかと思います。マリアを受容することは私たちの救いにとって重要です。なぜなら、永遠のいのちは共同体の中におけるいのちで構成されているからです。

 

キリスト教というのは関係性の中に存在する宗教です*9。キリストとの個人的関係の中に入る時、私たちは御父との関係性の中に入り、聖霊を受けます。イエスは私たちを、神の元に、そしてあらゆる聖人や御使いたちが宿っている天へと帰郷させるべくやって来られました。

 

しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、、(ヘブル12:22-23)

 

イエス・キリストが御父に至る道(the Way)であるように、マリアは教会に至る扉です。マリアを称賛することは聖人たちを崇敬する道を開きます。マリアに執り成しの祈りを求めることで、聖人たちに執り成しの祈りを求める道が開かれます。私たちの人生にマリアを受け入れることは、使徒信条の中で言及されている「communion of saints」を受容する不可欠な要素です。*10

 

最後になりますが、正教徒になったことで私は福音主義者であることをやめたわけではない、ということを付け加えておきたいと思います。私にとっての正教というのは福音主義的諸原理の放棄を意味しているのではなく、福音主義の成就を意味しています。

 

マリアは史上最大の福音伝道者であり、彼女は私たちの元に救い主が来ることができるよう救い主キリストのために戸を開きました(イザヤ7:14、黙示録12:5)。マリアはキリスト者の弟子修練の道を示してくれています。

 

カナの婚礼の席での「あの方が言われることを何でもしてあげてください」(ヨハネ2:5)というマリアの言葉が示唆しているのは、彼女に傾聴することはイエスを私たちの人生の主として救い主として受け入れることを意味しています。マリアは私たちをキリストへの信仰に導き、それはまさしく福音主義の真髄に他なりません。

 

ー終わりー

 

文献(Bibliography)

 

-Calvin, John.  A Harmony of the Gospels: Matthew, Mark and Luke.  Vol. I.  Calvin’s Commentaries Series.  A.W. Morrison, translator. David W. Torrance and Thomas F. Torrance, editors.  Grand Rapids, Michigan: Wm. B. Eerdmans Publishing Company, 1972.

-Forest, Jim.  Praying With Icons.  Maryknoll, New York: Orbis Books, 1997.

-Hahn, Scott and Kimberly.  Rome Sweet Home: Our Journey to Catholicism.  San Francisco: Ignatius Press, 1993.

-John Paul II.  Dives in Misericordia (On the Mercy of God).  Boston, Massachusetts: Daughters of St. Paul, 1980.

-Ladd, George Eldon.  The Presence of the Future: The Eschatology of Biblical Realism.  Grand Rapids, Michigan: William B. Eerdmans Publishing Company, 1974.

-Matthewes-Green, Frederica.  At the Corner of East and Now: A Modern Life in Eastern Orthodoxy.  New York: Jeremy P. Tarcher/Putnam, 1999.

-Schmemann, Alexander.  For the Life of the World: Sacraments and Orthodoxy.  Crestwood, New York: St. Vladimir’s Seminary Press, 1988.

-Telford, Tom with Louis Shaw.  Missions in the 21st Century.  Wheaton, Illinois: Harold Shaw Publishers, 1998.

-Ware, Timothy.  The Orthodox Church.  Revised edition, 1997.  New York: Penguin Books, 1963.

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*1:訳注: 

www.goarch.org

*2:

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*3:Calvin’s New Testament Commentaries Vol. 1, page 70

*4: 

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聖ヨアンネス・クリマクス著「天国への階梯」(AD600年)のイコン。キリストが待つ天国へのはしごを上っていく修道者たちを悪魔が妨害する。(12世紀、エジプト、聖カテリーナ修道院蔵)

「(聖ヨアンネス・クリマクスはわたしたちからとてもかけ離れた人だからです。)けれども、少し近づいて見るなら、次のことが分かります。すなわち、修道生活は、洗礼を受けた者、すなわちキリスト者の生活の偉大な象徴にすぎないということです。修道生活は、いわば、わたしたちが毎日小文字で書いていることを大文字で示します。修道生活は、洗礼を受けて、キリストの死と復活にあずかった者の生とはいかなるものであるかを示す、預言的な象徴です。」(ベネディクト十六世)

*5:訳注:

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*6:Tom Telford, 1998:50-51

*7:Jim Forest Praying With Icons p. 109

*8:訳注:japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*9:訳注:

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*10:訳注 

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