セオトコス(聖母マリア)の役割について先日、シスターMに質問のお手紙を書きました。
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このお手紙の中で私は、修道女になろうとしている若い女性ゲノヴェファさんの剃髪式(κουρά, tonsure)にあたり、儀式の初めから終わりまでずっとゲノヴェファさんの横にいて彼女に寄り添い続けているシスターの存在がちょうど聖母マリア様のように思われた旨を分かち合いました。そして私の受けたこの印象は正しいものなのか否かを彼女に相談申し上げたのです。
その後、このシスターから連絡があり、「あなたのその受け取り方は間違っていませんよ。大丈夫ですよ。そうです、マリア様は私たちの主イエス・キリストの元に私たちを導いてくださる方であり、それゆえに東方キリスト教世界では彼女のことをPanagia Hodegetria(パナギア・オディギートリア、Παναγία Οδηγήτρια)とも呼んでいるのですよ。」と教えてくださいました。
Οδηγήτρια(オディギートリア)というのは動詞「導く、ὁδηγῶ」から派生した名詞であり、「道(ὁδός)を示す人」という意味です。ここでいう「道」とはもちろん、「道であり、真理であり、いのち」(ヨハネ14:6)である御子イエス・キリストのことを指しています。
そうした上でシスターMは、私に「パナギア・オディギートリア」の小さなイコンをプレゼントしてくださいました。
「ほら、マリア様の手を見てごらんなさい。御子イエスの方を指し示しているでしょう。彼女はね、私たちがイエス様の元に近づくことができるよう助けてくださるんですよ。」
その晩、私はずっとそのイコンを見つめていました。懐疑や迷いやその他いろいろな感情が心の中を駈け廻っていました。
「マリア様、今、私はあなたに対する二つの対極的な見解のちょうど狭間にいます。どちらの見方もそれなりに説得力があるように思えます。あなたは神を真に畏れる聖なる女性です。ですからあなたが三位一体の神の栄光を横取りするようなことはなさらないと私は思うんです。どうしたらいいのでしょう。」
その時はじめて私は、自分の心の中に小さな小さな愛の芽が生まれていたことに気づいたのでした。それはとてもか細く、ちょっとした風でもすぐに折れてしまいそうなほどひ弱なものです。でもそれは生きていて、母を求め泣く乳飲み子のように、信仰の手を必死に上にのばそうとしていました。
マリア様、あなたに対する信心が御子イエス・キリストのお心を喜ばせ、御子に真に栄光を帰すものであるのでしたら、どうか迷える子羊のこの手を取り、この者を助け導いてください。