巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

列車の中の神学——マルチ信仰談義【シリーズ③ 教導権について】(by マイケル・ロフトン)

シリーズ① 永遠の刑罰について】【シリーズ② 聖書正典について】からの続きです。

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出典

 

Michael Lofton, Theology on a Train: A Multi-Faith Dialogue, Jan, 2019(拙訳)

 

教導権(Magisterium)について

 

東方正教徒:私やオリエンタル正教の友は、あなたの最後の問いに対する回答に断然関心があります。

 

アングリカン:私は聖公会信者です。とはいっても私は聖公会の保守派グループに属していますので、どうかその他のリベラル傾斜した聖公会の人々と私を一緒くたにしないでくださいね。さて、私たちは主題から外れてしまっていると思います。また最初の問いに戻ることはできませんか。

 

改革派バプテスト:ええ確かに脱線してしまっています。ですが、先程出されたのは良い質問だと思うので私はそれに答えたいと思います。私たちは聖書の明瞭性(perspicuity)を信じています。それゆえに本質的・根幹的教理(essential doctrine)にかかわる全ての事項において聖書は明瞭であるということを私たちは信じています。

 

アングリカン:あなたは論点をはぐらかしているのではないでしょうか。何が本質的・根幹的教理であるのかをあなたはいかにして知るのですか。

 

改革派バプテスト:何が根幹的教理で、何が根幹的ではないのかについて聖書は明瞭です。つまり、福音の要(かなめ)となるものは何であれ根幹的なのです。ですから、三位一体論は根幹的教理となるでしょう。なぜならこの教理は直接的に救済および贖罪の本質に関わっているからです。その一方、例えば、礼拝のあり方に関し、規範原理(normative principle)を用いるのか、それとも規制原理(regulative principle*1)を用いるのかといった事項はアディアフォラとなります。

 

アングリカン:今おっしゃった用語について説明してくださいますか。

 

改革派バプテスト:はい。規制原理というのは、聖書の中に見い出される型に沿ってのみ神を礼拝するというあり方のことを言い、一方の規範原理というのは、必ずしも聖書の中で規定されてはいない礼拝形式だけれども、それが聖書に違反していない限りにおいて、採用するというあり方のことを言います。それからアディアフォラというのは、根幹的教理ではなく、二人のクリスチャンが合法的に不同意して差し支えない種類の教理のことを指しています。

 

カトリックA:「根幹諸教理に関し聖書は明瞭である」というあなたの意見に私は大いに異議を唱えます。あなたがたは「義認論は福音の根幹である」と言っています。それなのにあなたがたプロテスタントは、「パウロ研究の新しい視点」の登場により現在、義認論を巡る重大な論争のただ中にいるではありませんか。それに加え、ルターの唱えた義認論は、彼以前には見い出されない種類のものです。ですからそういった諸事項において聖書が明瞭であるかは大いに議論の余地があります。それに、教理決定をするべくそもそもどの書が聖書に属するのかに関してもあなたは答えられないでしょう。

 

東方正教徒:この点に関し、私はカトリック信者であるあなたと同意見です。

 

カトリックA:ありがとうございます。ですが、何を隠そう、あなたと私はこの事項において実は意見を異にしているってことご存知ですか。

 

東方正教徒:えっ?!どういうことですか。

 

カトリックA:私たちは共に、何がキリスト教信仰に関し教義的かつ根幹的であるかに関し、全地公会議がそれらを決定することができるという点で同意していますよね。しかしながらあなたがた正教クリスチャンは、何をもって全地公会議とされるのかに対し互いに意見を違わせています。ですからこの問題に対する回答を提供することができるのは唯一私たちカトリック教徒だけなのです。

 

東方正教徒:私たちは、全地公会議の諸教説は長い時の経過と共に受容されなければならないと信じています。

 

オリエンタル正教徒:ちょっと待ってください。一体、‟誰によって” 受容されるのですか?私たちはあなたがたの第四全地公会議を受け入れておらず、それ以後の公会議も受け入れていません。

 

東方正教徒:私たちとあなたがたの両コミュニオンは、①私たちの間におけるシスマ(分裂)は主として意味論的ニュアンスが原因であり、②両コミュニオンは聖体礼儀における相互コミュニオンを回復させるべきである、という点で合意しています。

 

オリエンタル正教徒:ええ、私たちのコミュニオンの中のある一群の人々はそのように言っており、別の一群の人々はそれに反対しています。

 

カトリックA:あなたは「受容(reception)」について言っていますが、私もまたオリエンタル正教徒の方の意見と同様、あなたがた東方正教徒の立場は恣意的だと考えています。なぜならあなたの立場は肝心な点をはぐらかしているからです。つまり、‟誰によって” 受容されるのか、という点です。*2

 仮にこの問いに対しあなたが「正教徒によって」と答えたとしましょう。そうするとあなたの論法は循環的になってしまいます。なぜならあなたは誰が‟正教徒”であるのかを、「誰が7回に及ぶ最初の全地公会議を規範的かつ使徒的なものとして受け入れているのか」を基準に規定しているからです。

 さらに言うと、すべての正教徒が受容主義(receptionism)というあなたの見解を受け入れてきたわけではないことにも留意すべきでしょう。これまで歴史上、その他複数の方法論が提示されてきた事実からもそのことが証左されます。あなたがた正教徒がこの問いに対する明確な回答を持っていないのに対し、私たちカトリック教徒には回答があります。なぜなら私たちはどの会議が普遍的(ecumenical)であるのかを決定するのは教皇であると認識しているからです。*3

 

改革派バプテスト:全地公会議は重要だと私たちも認識していますが、私たちはそれらの公会議を聖書の権威の下に従属させています。

 

アングリカン:全地公会議は聖書に従属しているという点に関し私はあなたに同意していますが、いくつの全地公会議を普遍的なものとして認めるかに関してはあなたと意見を違わせています。私は最初の7回の公会議を受け入れていますが、あなたがたは最初の4回の公会議だけを受け入れています。

 

カトリックA:なぜあなたが改革派バプテストの方の見解に同意できるのか不思議でなりません。さきほどあなたは、「根幹的教理は聖書のみによっては決定され得ない」とおっしゃいましたよね。それなのに今あなたは「全地公会議は聖書に従属している」と言っています。それでは何が根幹的教理であるかをあなたはいかにして知るのですか。

 

アングリカン:私たちは分枝論(branch theory*4)を信じています。分枝論というのは何かといいますと、カトリック、正教、アングリカン / プロテスタントはそれぞれ皆、一つの樹木、もしくは一つの教会(one Church)につながる枝であるという見解です。ですから、私たちが共通して共有しているもの、そして私たち皆が根幹的だと考えるものがすなわち、信仰にとって不可欠な根幹要素だということになります。

 

カリスマ派クリスチャン:ああ、このセオリーについては以前聞いたことがあります。たしか "mere Christianity"(キリスト教の精髄)と呼ばれていたんじゃなかったかな。

 

アングリカン:その通りです。

 

改革派バプテスト:"mere Christianity"というこの概念は恣意的であり、しかも結局この概念に沿っていった先に、私たちは自分たちの間に同意事項は実際ほとんどないという現実に直面することになります。ほら、私たちは三位一体論に関し互いに同意できていません。贖罪論に関しても同意できていませんよね。教会論に関しても、義認論に関しても、聖書論に関しても、その他多くの論争事項に関し、私たちは互いに意見を違わせています。

 

カトリックA:立派なご回答です。それでは何が根幹教理であるのかいかにして決定すればよいのでしょう。

 

カリスマ派:私たちはひとえに、聖霊および聖書によって導かれるべきです。聖霊は私たちの心の中に真のメッセージを置いてくださいます。

 

カトリックA:それじゃあ、ルターとカルヴァンは正典やエウカリスチア(聖餐)に関し互いに同意できていなかったわけですから、二人のうちどちらかが聖霊を宿していなかった、ということになりますか。

 

カリスマ派:そこら辺の教義史についてはあまり詳しく調べたことがないので、何とも言えません。ですが、そういった事項に関し私たちを導いてくださるのは聖霊様であると私は堅く信じています。*5

カトリックA:でもあなたは論点を回避してしまっています。誰が聖霊を宿しているのかあなたはどのようにして知るのですか。

 

長老派:この主題に関し私たちは教会史を参照することが大切だと思います。私は教会伝統(聖伝)が聖書と同列だとは考えていません。つまり聖書の首位性(prima scriptura)を支持しているわけです。しかしながらそうではあっても、聖書の正しい読み方に関し教会史というのは良い基準だということを信じています。*6

  

カトリックB:聖書が信仰にかんする主要原則であり、聖伝におけるすべては聖書の中に存在しています。ですからその意味で私たちは互いにそれほど隔たっていないのかもしれませんね。

 

カトリックA:おそらくあなたが論じているのは聖書の質料的十全性(material sufficiency of Scripture)のことでしょう。ですが、すべてのカトリック教徒がその見解を信じているわけではありません。

 

東方正教徒:私たちの中にも、あなたの言うその「聖書の質料的十全性」見解を支持している人々がいます。

 

カトリックA:しかし先程も言いましたように、どの書が聖書の一部であるのか私たちはどのように知るのでしょう。私たちカトリック教徒はその問いに対する回答を持っていますが、あなたがた正教クリスチャンには確定した正典がありません。なぜならあなたがたには教導権が存在せず、また全地公会議を特定する上での方法が不在だからです。

 

東方正教徒:えっ、でも、カトリック教徒には‟確定した”正典がないって、さっきあなたおっしゃったではありませんか。

 

カトリックA:おそらくそうです。ですが先程申し上げた通り、私たちは、第二正典(Deuterocanonicals)、第一正典(Protocanonicals)、および新約聖書に関する決定的立場を持しています。ただ二、三の諸書の正典性に関し未だ決定がなされていないに過ぎません。これは、第二正典の正典性に関し今も論争しているあなたがた正教徒とは大きく異なります。

 さらに、正典問題を決定するためのメカニズムがカトリシズムの中に内蔵されているのに対し、あなたがた正教の中にはそのようなメカニズムが不在です。とはいえ、あらゆる問題に対する回答を決定する上で私たちはそのメカニズムを用いてこなかったという側面はあると思います。ですが少なくとも私たちの内にはそのようなメカニズムがあるのです。

 

東方正教徒:しかしたとえ教導権が存在していても、それがまともに行使されていないのならそこに何の益があるでしょう。あなたがたの現教皇は決定的諸教説を宣言することを躊躇しているだけでなく、あなたがたカトリック教徒が歴代ずっと保持してきた諸教理を保持することさえ嫌がっている風ではありませんか*7。避妊の教えや、離婚、再婚の教えのことを考えてみてください。*8

 

カトリックA:避妊や離婚・再婚の問題を今この場であなたが持ちだすとはなんとも皮肉なことです。というのもそういった倫理問題こそまさしくあなたがた正教徒がお茶を濁し続けている領域だからです。それに、あなたがた正教徒は教皇制の果たす役割に関し意見を違わせており、教皇至上権(papal supremacy)を説いていた最初の一千年期の諸聖人たちを列福しています。

 自分たちの内にあるメカニズムを行使するなら、少なくとも私たちはそういった事項を選り分けることができます。それに対し、あなたがた正教徒には正統および異端を決定する上での決定的メカニズムが不在です。私たちカトリックの場合は倫理的失敗です。というのも私たちは決定的回答を必要としているいくつかの事項において教導権を行使し損なってきたからです。

 それに対し、あなたがたの場合は教義論争に解決をもたらすための能力における全き不能性です。あなたがたの内に一致のための中心点がないのは言うまでもありません。それゆえにコミュニオンの諸境界はしばし曖昧にされ、混乱および、教義的・管轄区上の論争が絶えません。

 

無神論者:ほら、何が根幹的であるかに関してでさえあなたがたの間に同意がないではありませんか。だからあなたがたのメッセージは私にとって説得力がないのですよ。

 

 

 

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