巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

伝統と暗黙(Tradition and Tacit)ーーアンドリュー・ラウス、ダラム大学

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神秘、伝統、、わがたましひは黙してただ神をまつ。(出典

 

目次

 

はじめに

 

アンドリュー・ラウス教授の『Discerning the Mystery: An Essay on the Nature of Theology』(Oxford Scholarship Online)を読んでいます。

 

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高い学術性を有しつつ、そこには典礼の精神、神秘、伝統、聖書、教父たちの声、霊性、祈りにかんする黙想的洞察が沁みわたっており、あたかも一つの詩的霊操集を読んでいるかのような感覚を覚えます。

 

本稿では、第4章「Tradition and the Tacit(伝統と暗黙)」の中から一部分を翻訳し、その内容を皆さんにお分かち合いしたいと思います。ちなみに、"tacit" は、マイケル・ポランニーの「暗黙知(Tacit Knowledge)」を念頭においた語としてここで用いられていると思います。*1

 

アンドリュー・ラウス著「伝統と暗黙」

 

Andrew Louth, Discerning the Mystery: An Essay on the Nature of Theology, chap.4. Tradition and Tacitより一部翻訳(小見出しは便宜上、訳者が作成しました。)

 

「伝統」を巡るカトリックとプロテスタントの論争

 

宗教改革以来、「伝統」は、神学における論争の的となってきました。

 

一方において、カトリック教徒というのは、「聖書を補完すべく伝統という概念を用いており、伝統の中に、聖書からは証明し得ない神学的諸立場の根拠を置こうとしている」とみられ、それに対するプロテスタント教徒は、「伝統といった考えを斥け、聖書の中に証言されているものとしてのキリストにある元来の神の啓示に忠実であらんと望んでいる」という風に受け止められる傾向がありました。

 

しかしながら近年の学術研究が示しているのは、そうした単純な反立構図は、カトリックとプロテスタントの論争の経緯の中で発展してきたものであり、従って、この視点からみると、ーー伝統を擁護する者たちも、否定する者たちも共にーー、事の性質を誤解してきた、ということです。

 

こういった誤解を浮き彫りにする一つの方法として挙げられるのは、宗教改革期/宗教改革期以後の論争における両陣営共に、「伝統」を聖書に比するなにかーー①伝統を補完するものであるか、もしくは②伝統に競合するものであるかーーとして捉えていたふしが見られる、ということです。こうして聖書も伝統も共に対象化され、それらを理解しようとする「私たち」と「それら」の間には距離があるとされます。

 

こういった主張の背後には数多くの隠れた諸前提があります。例えば、「啓示されたものは諸真理の集合体であり、それゆえ、仮に伝統が聖書を補うのであったのなら、それが意味しているのは、聖書に書き記されている使徒的証言に加え、成文体ではなく時代を通じて口承されてきたその他の諸真理があるということである」といった考え等です。

 

こういった諸真理は「客観的」にして独立した諸真理であり、私たちが正しい仕方で取り掛かるならそれらを認識するに至るとされています。しかしながら、そもそも人はいかにして認識するのか、神の啓示を理解しようと努める時私たちが自明のものとして受け取っているものは何であるのか、といった問題に対しては綿密な検証が未だなされていません。

 

ジョージ・タヴァードは、「聖書」と「伝統」を反立させる構図は、中世後期に興ってきたものであって、それは、教父たちの伝統理解や、中世盛期の神学における伝統理解とは全く相いれないものであると論じています。

 

交わり(fellowship; κοινωνία)

 

リアリティーに対するこういった強調は、元来聖書聖句に由来しており、それは伝統に関するキリスト教概念理解の中心的要素を成しています。

 

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わり(κοινωνίαν)にあずかるようになるためである。わたしたちの交わり(κοινωνία)とは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」I ヨハネ1:1-3

 

ここで使徒ヨハネが宣布しているリアリティーは、単なる使信ではなく、「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」ーー純然たる物理的リアリティーーであり、ヨハネが読み手に求めているのは、信条、知的同意というよりはむしろ、交わり(fellowship; κοινωνία、コイノニア)でした。

 

そして究極的にこの交わりは、御父および御子、三位一体の神それ自身との交わりです。コイノニアに参入し、共同体にコミットすることは、諸信条に対する同意だけではなく、その生活のあり方、諸儀式、慣習、実践を共有することが含意されています。

 

真理に対する取り組みへのこういったより広範囲な理解は、すでに前章において概略しました。すなわち、共同体および伝統の重要性に関するマイケル・ポランニーの思想、あるいは、何かを知るに当たり、私たちにとって不可欠であるところの予断を帯びたものとしてのガダマーの伝統概念等です。*2

 

典礼(liturgy)

 

ここで私たちは連続性に関連したリトルジーおよび伝統の重要性を目の当たりにします。それゆえに、前述した通り大バシレイオスは、聖書を超えたところにある伝統に訴える際、リトルジー(典礼)に訴えているわけです。なぜなら、最も根本的次元において、典礼の祝祭、なかでも特にユーカリスト祝祭において、私たちはキリストの神秘を認識し、それを祝うからです。

 

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出典

 

ユーカリスト祝祭の中で、御子が、愛と従順の内に御父に自分を奉献されたことを知り、その中に与ります。キリスト教信仰の真髄は単なる概念的なものではありません。実にそれは事実、いやより良い表現を使うなら、「行為」です。ーー私たちを再び御父の元に引き寄せるべく世に御子が遣わされたという、御子の行為、動きです。そして劇的構造をもつ典礼が共鳴し反復しているのがこの動きに他ならないのです。

 

リトルジーというのは、私たちが「こしらえた」ものではなく、単に「理解される」ものでもありません。それは私たちがーー知性だけでなく、身体や魂といった私たちの全存在をもってーー参入するなにかです。それゆえ典礼における動作や動き、季節/時期の並び、、といったものを通し、時それ自体が聖化されます。*3

 

典礼は、キリストの神秘に関するさまざまな重要性ーー全てを説明し尽くせないという事実、そして、これまでいつも行なってきたからというそれだけの理由で私たちが為している多くの事がその実、キリストの神秘に関わる計り知れなさという豊満な意味を伝えているのだという事実ーーを開示します。

 

大バシレイオスは、典礼における諸儀式のいくつかを、成文化されていない、隠された、暗黙(tacit)の教会伝統に属するものとして説明し、次のように言っています。「それゆえ、祈祷の際、私たちは全員、東の方を向くのである。しかしながら、東の方角に向かって祈るという私たちの行為が、(神がエデンの東に植えられたところの)古の故郷であるパラダイスの方向に向かい祈る行為であるという事実を知っている者は数少ない。」

 

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リトルジーにおける祈りの東向性には深い意味がある。(出典

 

典礼を、単純な概念的用語で理解され得るようなものに還元しようとする試みの危険は、少なくとも宗教改革期以来、西洋を襲ってきました。そしてこれは現代における典礼改革にみられる顕著な特徴です。

 

言語化できるもの、理解され得るものというのは、重要な部分でこそあれ、一部に過ぎません。教会の伝統に自らをコミットさせていく中で私たちが共有するいのちは、それよりもずっと深いものです。宗教改革期にも英国教会は典礼および、過去との連続性を保持してきました。この文脈において、フッカーの典礼原則擁護のことを思い出すのは価値あることでしょう。彼は次のように言っています。

 

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リチャード・フッカー(1554-1600)

 

「あらゆる時代に渡り、永く体験されてきたところのものは確証され有益なものとされています。ですから私たちはそういったものを愚にもつかない玩具であるかのように糾弾することのないようにしようではありませんか。なぜなら多くの場合、私たちはそれらの事柄の背後に存在する理由について無知だからです。自分の機知によって理解できないことは何であれこれを軽蔑するという態度をとる人は、‟一体何のためにアブラハムは従僕に『汝の手を私の腿の下に入れ誓いなさい』と言ったのだろう、あんな奇妙な儀式をしなくてもただ単に天地の主なる神の御名によって誓えばそれで十分だったのではないだろうか?”といぶかしがるでしょう。」*4

 

フッカーはさらに幾つか他の諸例を挙げた後、ディオニュシオス・アレオパギテース『天上位階論』を引用しつつ、次のように結んでいます。「キリスト教が大切にしてきた賢明な事柄は、霊的に理解される事柄に従い構成されてきたものであり、それらは導き手として、引導する道としてこれまで用いられてきたのです。」

 

発話を超える事実ーーthe inarticulate、沈黙

 

従って、伝統という枠組みの中における典礼の重要性は、①それが遂行され、②先人たちが代々行なってきた何かを行なっており、③意味を定義するというよりはそれを提示するような重要な諸行為であるということによりーー、典礼が私たちを、諸価値の領域である「文脈」へと導き入れる、ということにあります。

 

その中において伝統の重要性を私たちは見ることができます。それは発話を超える事実であるゆえに、発話できないこと(the inarticulate;言葉にならないもの)の重要性が浮かび上がってきます。

 

発話不可性(inarticulateness)に対する強調は別の仕方でも発展し得るでしょう。「単数形の伝統と複数形の伝統(Tradition and Traditions)」という論文の中でウラジーミル・ロースキーは、「伝統理解の際の一つの実りある方法としては、それを沈黙されたものとして捉えるということです」と言っています。ーー聖書が、言葉、声、発話であるのなら、伝統はそれとは対照的に沈黙である、と。

 

ロースキーはアンティオケの聖イグナティオスを引用し(「真理の内にイエスの御言葉を保持している者はその沈黙さえも聞くことができる」)、伝統に関する教父理解を示すこの句の重要性はこれまであまり注目されてこなかったと言及しています。

 

そうした上でロースキーは、「沈黙の余白("margin of silence")」について語っています。これは聖書の御言葉に属し、外部の人の耳には聞こえてこない種類のものです。

 

彼はこれを大バシレイオスが『聖霊論』の中で次のように述べている内容と連結させています。「沈黙という形もまたあります。すなわち、聖書により用いられている不明瞭さ(obscurity)です。この不明瞭さは、読み手の益のため、諸教えの理解を難解にすべく意図されています。」

 

聖書に内在する不明瞭さーー教会の中、教会の伝統の内においてのみ透徹しているところの不明瞭さ、隠微ーーというこの思想については、アレゴリーに関する次章の考察のところでさらに詳説してゆきたいと思っています。

 

伝統と御霊

 

ロースキーは聖イグナティオスからこの思想を発展させ、伝統を、啓示の真理を受容するに当たっての比類なき様式(unique mode)であるとし、次のように言っています。

 

 「ここで私たちは比類なき形式(unique form)ではなく比類なき様式(unique mode)と特記しています。なぜなら、純粋な観念における聖伝(Tradition)には何ら形式的なものは属していないからです。それは信仰の諸真理に関する形式保証を人間意識に課すことはせず、内的証拠にかんする発見へのアクセスを提供しています。

 それは神の啓示の内容というよりはむしろ、それを顕す光です。すなわち、言葉ではなく生ける息吹であり、この息吹は沈黙と同時に言葉が聞かれることを可能にしています(参:アンティオケの聖イグナティオス、Magnesians 8:2)

 またそれは真理というよりはむしろ真理の御霊の伝達であり、この御霊の外側にあっては人は真理を受け取ることができません。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)。それゆえ、聖伝(Tradition)の純概念として、それが、教会の中における聖霊のいのちである、と定義することができるかもしれません。」*5

 

これは前述した伝統と御霊に関する大バシレイオスの考察を髣髴させます。ですが聖イグナティオスの言葉はそれとは若干異なる方向に私たちを導きます。「真理の内にイエスの御言葉を保持している者はその沈黙さえも聞くことができる。」

 

ここにおける「沈黙」はギリシャ語でヘシュキアであり、この語は静寂さを意味しています。イグナティオスは、私たちがイエスの御言葉を聞く上で静寂さが必要であると言っていますが、ここでいう静寂さは受容性および現前、その両方を含意しています。

 

イエスはただ単にメッセージを伝達したわけではありませんでした。使徒たちというのは実際に主イエスと「共に」いた人々であって、単に主がおっしゃった言録について知っていた人々ではありませんでした。事実、イエスの御言葉(そして四福音書の言葉)から私たちが受け取るのは、そこでコミュニケートされているものは単なる言葉以上に深いなにかであり、単なるメッセージ以上に深いなにかであるということです。

 

主の言葉だけでなくイエスに耳を傾けるために、私たちは教会の伝統内に足を踏み入れ、その中に立たなければなりません。そして主が派遣しご自身の使命を委託された人々に対し信頼を置かなければなりません。

 

イエスの御言葉を聞く上で私たちに必要とされている静寂さのひとつは、現前性の感覚であり、伝統が運んでくれるのがまさしくそれなのです。私たちは教会(Church)の一員となることにより、そして信仰における私たちの先人たちに信頼を置くことによりキリスト者になります。もしもイエスを理解する上で私たちが教会に信頼を置くことができないのだとしたら、その時、私たちはイエスを失うことになるでしょうし、現代学術の諸資料も、主を見い出すべく私たちを助けるものとはならないでしょう。*6

 

おわりにーー「心における福音」

 

静寂、沈黙ーー。前述しましたようにこれは現前と受容性その両方を意味しています。受容性と傾聴(attentiveness)。これらは祈りの中で深められ実現されていく諸資質です。

 

イグナティオスが「その沈黙を聞くこと」の重要性を説いた時、彼の念頭にあったのは、従順な受容性の大切さだったのかもしれません。これは私たちが培い、育み、学んでいかなければならないものです。

 

ここにおいてもリトルジーがそのための重要な文脈を提供してくれるでしょう。というのも典礼における言葉というのは、繰り返され、何度も何度も私たちの意識の中にもたらされていくものだからです。こうしてそれらは私たちの表面的思考の領域から心の芯奥にまで浸透していくようになります。

 

「心における福音」。コンガーは伝統の概念を次のように要約しています。「人の心に書かれている福音はーー書かれたものはそれ自体、無尽蔵であるにも拘らずーー尚も書かれたテクストをはるかに超えています。教父たちはそのことを熟知していました。」*7

 

宿るもの、思い巡らすものとしての「心に書かれているもの」。ーーそれは「心の中で思い巡らせていた」マリアの黙想にその最も深遠なる例をみます。それは概念的啓蒙を獲得するだけでなく、私たちが為すことーー生の営為ーーに関わるものです。聖大グレゴリウスは言います。「御言葉を聞かないというのは、自らの人生の中でそれを生きないという意味である」と。

 

ここにおいて私たちは再び、神秘に関する発話不可なる生、そして伝統の真髄であるところの暗黙の次元(tacit dimension)に接触することになります。そして神学が真理に忠実であらんとするのなら、それはまさしくこの泉より湧き出てこなければなりません。

 

なぜなら神学の核心に据わっている真理とは、「発見」されるべきなにかではあるというよりはむしろ、私たちが明け渡し服従しなければならないなにか、もしくは誰かであるはずだからです。実に、信仰の神秘は、究極的には、私たちの問いを招くものではなく、私たち自身のあり方を問うものなのです。

 

ー終わりー

*1:訳注:マイケル・ポランニーについての関連記事

*2:訳注:

*3:訳注:

*4:Richard Hooker, Ecclesiastical Polity, IV. i.3, pp. 418-19.

*5:V. Lossky, In the Image and Likeness of God (London, 1975), pp. 151-2.

*6:訳注:

*7:Yves M-J. Congar, Tradition and Traditions,1966, p.348.