巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ポール・L・ガヴリリュク著「ハルナックの『ヘレニズム化されたキリスト教』か、それともフロロフスキーの『聖なるヘレニズム』か?」レビュー

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目次

 

著者ポール・L・ガヴリリュク氏について

 

非常に考えさせられる論文を読みました。

 

Paul L. Gavrilyuk著「Harnack's Hellenized Christianity or Florovsky's "Sacred Hellenism": Questioning Two Metanarratives of Early Christian Engagement with Late Antique Culture. St Vladimir's Theological Quarterly 54 3-4 (2010) 323-344」

 

著者ポール・L・ガヴリリュク氏は、米ミネソタ州にある聖トマス大学神学部で教鞭をとっておられる正教神学者、教父学者です。キエフ生まれのウクライナ人で、モスクワ物理工科大学で学んだ後(1988-1993)、ペレストロイカ後の旧ソビエト共産圏からの初の留学生の一人として渡米。2001年にテキサス州南部メソディスト大で教父学博士号を取得しています。

 

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出典

 

この経歴をみても分かるように、著者は国家間、民族間、正教と無神論、キエフとモスクワ、東と西の狭間を生き歩んできました*1。こういった彼のユニークな生の軌跡および複眼的でマルチカルチュラルな視点が本論文の至るところに表れているなあと思いました。

 

二つの対極的見解

 

初代キリスト教徒が周囲の文化思想に対しどのような態度を取ってきたのかーー。それは対決だったのか、批判的・折衷的受容だったのか、それとも完全受容だったのか?

 

この問いに対し、多くの人々がさまざまな説を唱えていますが、ガヴリリュク氏はその中にあって最も有名でしかも対極にある二つのメタナラティブ、すなわち、

 

リベラル主義者アドルフ・フォン・ハルナックの「ヘレニズム化された(=‟堕落した”)キリスト教」説

正教神学者ゲオルギー・フロロフスキーの「(理想化された)キリスト教ヘレニズム」説

 

の二説をそれぞれクリティカルに批評しています。ガヴリリュク教授は序文の所で次のように言っています。

 

 「〔これら二つの説は〕実のところ、二つの極端な対極でありながら、一つの硬貨の裏表にすぎず、両者共にその他の文化的諸要素を無視した形で、ほぼ排他的に『教父たちのギリシア哲学との遭逢』という部分のみに焦点を置いています。・・・私は、『Hellenization +』という語を提唱したいと思います。この+(プラス)という語が意味しているのは、ギリシャ文化の普及はローマ化(Romanization)およびオリエンタル化(Orientalization)のプロセスを伴いつつ起こっていたということです。」

 

そうした上で当時の地中海世界の文化ダイナミズムが一方通行的「ヘレニズム化」のモノポリーではなく、オリエンタル文化やローマ法制文化などからの影響も受けつつ双方向的に形成されたいったことを示す歴史的諸事例を挙げています。

 

 「ヘレニズムに対する教父たちの対応は、米国多文化主義に対する私たちの対応に少し似ているかもしれません。人はどこから分析を始めるのでしょう。いかなる基準をもって、私たちは、どのサブ・カルチャーを最も重要な要素であるかを判断するのでしょう。探求の出発点はどの次元から始められるべきなのでしょうか。ーー政治的、社会的、経済的、宗教的、それとも芸術的次元?おそらくそういった各自の出発点が各々の研究の結果になにがしかの影響を及ぼすのではないかと思われます。」

 

本論文は、プロテスタント信者、および正教・カトリック信者それぞれに対し、反省的・発見的考察を促すのではないかと思います。

 

ハルナックの「ヘレニズム化/堕落」説に対する批評

 

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アドルフ・フォン・ハルナック(1851-1930)自由主義ルーテル派神学者

 

「‟ヘレニズム化”を定義してみてください」とのガヴリリュク教授の問いに、ある学部生が次のように答えたそうです。

 

「ヘレニズム化というのは、倫理的に邪悪な魂の休み場としての、地獄の産物です。ルシファーは神の全能なる力に挑戦した後、ここに遣わされたのです。」*2

 

この学生の発言を聞いて、プロテスタント内に興ったヘブル的ルーツ運動(HRM)のことを思い出した方も結構多いのではないかと思います。

 

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HRMの一グループであるQahal YahwehのHPより(出典

 

ヘブル的ルーツ運動に関わっている人々の中には聖書信仰にコミットした真面目な信仰者も多く含まれていますが(この運動の教義の誤りに関しては以下の記事をご参照ください。*3.、彼らの運動を支えている基本前提の一つが、よりによって ‟聖書信仰” を破壊しようとした19世紀の自由主義神学者ハルナックのヘレニズム教説に依拠しているというのは、なんという歴史のアイロニーでしょうか!

 

著名な歴史学者であるヤロスラフ・ペリカンも、1971年という早い段階でハルナックの説に異議を唱えています*4。ガヴリリュク教授は言います。

 

 「ハルナックはヘレニズム化を悪魔扱いしました。ハルナックにとっては、ヘレニズム化というのはあらゆる神学諸問題の元凶でした。彼によると、神の父性および人類の兄弟愛というイエスのシンプルな使信は、ヘレニズムの介入により歪曲されてしまいました。

 

 新約聖書期より、福音はギリシア形而上学の毒により汚染されていきました。その結果、彼によると、受肉、三位一体説、残酷に物質主義的救済観(‟神化”)、魔術的礼拝形態(‟サクラメンタル実在論”)といった数々の有害なる教説が生み出されていったのです。

 

 ハルナックのグランド・ナラティブは、『教会の背教』説の一バージョンであり、こういった背教説は、宗教改革以後、流行るようになりました*5。ルターは、『教会の背教』を主として、中世期に教会に忍び込んだ教皇権威の乱用と結びつけました。ルターはまた聖書解釈をする上で、哲学一般に関しーー特にギリシャ哲学に対しーー、非常に懐疑的でした。

 

 カルヴァンは教会を偶像礼拝(特に聖像画崇敬)の穢れから清めることに関心を持っていました。一方、敬虔主義の神学者たちは『教会の背教』を倫理問題と捉えました。ローマ帝国がキリスト教を公認宗教としたことでその問題はより深刻なものになったと彼らは考えました。

 

 それとは対照的に、ハルナックにとっての根本的問題は、知的なものでした。彼の考えによると、教会は、時代を超越した福音のメッセージを表現するに当たり、ギリシャ哲学の範疇を採用すべきではなかったのです。彼にとって、ヘレニズム化は、異教文化に対する教会の知的降伏を象徴するものでした。そこからの解決は、福音を、ギリシャ哲学という足枷から解放することです。つまり、〈脱ヘレニズム化〉させることです。」

 

フロロフスキーの「キリスト教ヘレニズム」に対する批評

 

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Fr. Georges Florovsky (1893-1979)

 

さて、ガヴリリュク教授はなぜこの論文を書こうと思い立ったのでしょうか。その理由を彼は論文の中ほどの所で次のように述べています。

 

 「私の歴史考察のBGM音楽は、さまざまな正教管轄区間の地政学的小競り合いという現実があります。米国にヘレニズムの縮小版を復元させようとの試みは、神学的に欠陥があり、社会学的に全く未来がないと考えます。いわゆる「ギリシャ中心的」志向は、宣教の働きを窒息させ、私たち正教徒を過去に閉じ込めるユートピア幻想です。反国家主義的建て前こそあれ、ギリシャ中心性はキリストの中心性に取って代わるナショナリズムの肥沃な土壌を提供しており、それは偶像礼拝に等しいものです。

 

 時として私たちは自分のお気に入りの神学的諸見解を教父たちの著述に読み込んだ上で、それらを自見解をサポートする上での教父的権威にしたいという誘惑にかられます。そういったご都合主義的読み込み(eisegesis)に関した現代の具体例の幾つかを皆さんきっとご存知だと思います。その意味でも私は歴史神学と組織神学の間のより明確な区別を呼びかけたく思います。」

 

ただここで少し気になるのは「歴史神学」と「組織神学」の間のより明瞭な区別化、という彼の提案です。そういった種類の細分化が後々、正教神学のもつ全体論的・有機的・治療的性質にマイナスの影響を及ぼす心配はないのでしょうか。

 

おそらくですが、こういった点が、ローマ教会との‟対話”を促進する人々やグループに対する一つの懸念事項になっているのではないかと推測します。そしてこの懸念事項は、西方教会が現在直面している諸問題を直視する時、より現実味を帯び心に迫ってきます。

 

さて、フロロフスキー*6の「キリスト教ヘレニズム」に関してですが、ガヴリリュク教授は次のようにまとめておられます。

 

 「フロロフスキーの『キリスト教ヘレニズム』はハルナックの立場とは対極に位置しています。事実、フロロフスキーはハルナックに対する直接的にして意識的反論の一環として、キリスト教ヘレニズムに関する自見解を形成していきました。*7

 

 ハルナックがキリスト教のヘレニズム化を悪魔扱いしたのだとしたら、フロロフスキーはその反対にヘレニズムのキリスト教化を理想化しました。ハルナックの神学的目的は現代キリスト教神学を〈脱ヘレニズム化〉させることにありました。反対にフロロフスキーの目的はロシア正教神学を〈再ヘレニズム化〉させることにありました。ハルナックと同様、フロロフスキーもヘレニズムの異教的諸形態には全く敵対していました。

 

 しかし、フロロフスキーによれば、教父たちは福音の剣により、教会が受けた神的啓示に適合する要素と、相反する要素を分離させることにより、異教的ヘレニズムを‟切断”することに成功したとされています。フロロフスキーにとり、キリスト教ヘレニズムは知的文化におけるキリスト教の理想的そして恒久的例示化でした。それはphilosophia parennis(永遠の哲学)だったのです。いちどこの説を受容したなら、新しい哲学的諸カテゴリーは不適切なものになりました。『聖なるヘレニズム』以外の諸カテゴリーに正教神学を位置づけることは正教を歪曲させることだとみなされました。

 

 従ってフロロフスキーの読みによれば、中世西洋及びそれ以後に興隆してきたキリスト教に関する哲学的充当は誤った逸脱であり、『聖なるヘレニズム』の仮像化(preudomorphoses)に他なりませんでした。従って、フロロフスキーにとり、キリスト教ヘレニズムというのは、基準かつ‟不動のカテゴリー”であり、その他どの神学もそれによって判断されなければならないのです。」

 

おわりに

 

ヘレニズムの役割に関するハルナックとフロロフスキーの諸解釈をガヴリリュク教授は次のように要約しています。

 

 「両者は二つの制限された事例を代表しています。ハルナックは、キリスト教のヘレニズム化を異教文化に対する大規模なる降伏と捉え、フロロフスキーはヘレニズムのキリスト教化を、‟福音による異教文化の系列的変容”と捉えていました。ハルナックはスペクトルの一つの極を表し、フロロフスキーは反対側のもう一つの極を表しています。両者共に考察すべき諸洞察を与えてくれていますが、分析ツールとして言えば両者共に制限されたものとなっています。」

 

興味深かったのが、ハルナックにしても、フロロフスキーにしても、それぞれの主張の背後には特定の神学的動機づけがあったという教授の指摘でした。

 

例えば、リベラル主義プロテスタント神学者であったハルナックは、当時のルーテル派正統信仰条項に反発していました。そして「教義に対して戦う一番の方法は、それらの正統信仰条項のルーツが異教的ギリシャ哲学にあるということを露呈すればいい」と彼は考えました。

 

一方のフロロフスキーは、当時パリの聖セルギイ神学院でブルガーコフ等によって提唱されていたロシア・ソフィオロジーの断固たる反対者でした。そしてガヴリリュク教授によれば、フロロフスキーはソフィオロジーを論駁すべく、その西方的影響を露呈させるという手段をとりました。

 

結びとして、ガヴリリュク教授の論文の最後のパラグラフを引用して本記事を終わりにさせていただきたいと思います。

 

 「古代後期文化とのキリスト者の受容・相剋に関する複雑な歴史パノラマーー弁証家、教師、殉教者、修道士、皇帝、建築家、教会芸術家たちによって例証されているーーはハルナックの堕落説も、フロロフスキーの『聖なるヘレニズム』高揚説をも支持していません。

 

 そこに見い出されるのはむしろ、キリスト教に対する文化応答の幅広いスペクトルです。それは、異教諸要素との混乱した同化現象から、福音の光の中での事象や人格における深遠に変容に至るまで多様です。ヘレニズムを理想化すること(特に正教の陥りやすい誘惑です)は、それを悪魔扱いする極端と同様、誤りを含んでいます。

 

 私たちが教父たちから学ぶ必要があるのは、彼らの霊的、精神的勇気であり、福音を偏狭なナショナリスト的アジェンダ*8と混同することにより福音を飼いならそうとする誘惑に対しきっぱりと拒絶する態度です。彼ら教父たちには、ーー特に迫害の時期ーー、既成の政治的・文化的体制と自分たちを強く切り離さんとする感覚がありました。

 

 キリスト教のメッセージを、ただ一つの文化形態ーーそれがヘレニズムであれ、スラブ主義であれ、アメリカ主義であれーーの中に永続的に化石化させようとする考え方は、神学的心象における深刻なる失敗だと言っていいでしょう。」

 

ー終わりー

 

関連記事

*1: 

*2:Cretinalia Historica, pearl 1 (Gavrilyuk's collection of unpublished student wisdom).

*3:

 

*4:

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ヤロスラフ・ペリカン(1923-2006)

"It is even more a distortion when the dogma formulated by the catholic tradition is described as “in its conception and development a work of the Greek spirit on the soil of the gospel” [Harnack]. Indeed, in some ways it is more accurate to speak of dogma as the “dehellenization” of the theology that had preceded it and to argue that “by its dogma the church threw up a wall against an alien metaphysic” [Elert]. For the development of both the dogmas of the early church, the trinitarian and the christological, the chief place to look for hellenization is in the speculations and heresies against which the dogma of the creeds and councils was directed. (The Christian Tradition, I:55) ."

参1:Those Darn Greeks: Metaphysics and the Hellenization of the Gospel | Eclectic Orthodoxy

参2:

Robert Louis Wilken, The Spirit of Early Christian Thought: Seeking the Face of God, 2005.

*5: 

*6: 

 

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Paul L. Gavrilyuk, Georges Florovsky and the Russian Religious Renaissance (Changing Paradigms in Historical and Systematic Theology) , 2013.

*7:参:"The Case of 'Westernization' against 'Hellenization': The Methodological Limitations of Georges Florovsky's Neopatristic Synthesis," lecture delivered at the Fordham Conference. "Orthodox Constructions of the West," June 29, 2010.

*8:

âThey were prayingâ: Kiev forcesâ shelling kills 3 worshipers as churches burn

キエフークレムリン間の政治的・宗教的対立及び戦争の悲劇(写真).