巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

革命ーー社会主義『ドストエフスキーの世界観』(by ニコライ・ベルジャーエフ)

出典

 

ベルジャーエフ著作集第二巻『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳)白水社より一部抜粋

 

ドストエフスキーは、天才的な透視的眼光をもって、きたるべきロシア革命の、おそらくはまた世界革命の理念的基礎と性格とを悟った。彼は、言葉の最も真実の意味におけるロシア革命の告知者、予言者である。

 

革命はドストエフスキーの予想どおりに経過している。かれは革命の精神的基盤、革命の内的弁証法をあばきだして、革命の姿を描いてみせたのである。彼は自分の精神の奥底から、内的過程から、ロシア革命の本質的性格を把握したのであって、自分をとりかこむ経験的現実の外的事件からではなかった。

 

ドストエフスキーがその長編『悪霊』において語っているのは、自分の時代についてではなくて未来についてである。1860年代、70年代のロシアの現実にはまだスタヴローギンは存在しなかった。キリーロフもいなければ、シャートフも、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーも、シガリョフもいなかった。これらの人物は、のち20世紀にいたって、基礎が深まり、宗教的傾向がロシアに目覚めはじめたときにようやくあらわれたのである。

 

ドストエフスキーは奥底をきわめ、究極の根源をあばく。ものごとの表面は彼の関心を呼ばない。至深究極のことがらは、きたるべきもののなかに開顕せらるべきものだ。彼の詩的天賦の真の本質は、予言者的であるといっていい。そして、革命にたいする彼の態度は非常に二律背反的である。ドストエフスキーは、革命においてはたらくあの精神の虚偽や不真実のもっとも強力な暴露者である。彼は、反キリスト的精神、人神の精神*1が将来ますます増大してゆくことを予見する。

 

彼は、この世のあらゆる運動が加速度をくわえて、いっさいが終末に向かうことを感知した最初の人間のひとりであった。「世の終わりは近づく」と彼は日記にしるしている。

 

このような心的状態にある人が、ありきたりの意味での保守主義者であるわけはない。革命にたいするドストエフスキーの敵意は、旧い生活秩序のなんらかの利益を擁護する俗人的な人間の敵意ではなかった。それは、反キリストとキリストの最後の戦いにおいてキリストにつくことを誓った黙示録的な人間の敵意であった。

 

ドストエフスキーは、我意に変わった自由の道が、反逆と革命とに至らずにはいないことを解示する。革命は、神的根源にそむいた人間、みずからの自由をうつろな反逆的な我意と解する人間の暗い運命である。

 

革命はもろもろの外的な原因や条件によって決定されるものではない。それは内面から決定される。革命は、人間の、神に対する、世界に対する、また人間たちに対する根源的関係における破局的な変化を意味するものだ。

 

ドストエフスキーは、人間を革命に誘惑する道を奥底まで追求する。彼はその宿命的な内的弁証法を展開する。それは人間本性の限界に関する、人間の人生行路に関する人間学的探求である。ドストエフスキーは、人間個人の運命において暴き出したところのものを、国民の運命においても、社会の運命においても暴き出す。

 

「すべてが許されてあるか?」ーーという問題は、個々の人間に対してのみならず、全体に対しても提出されてあるのだ。個人を犯罪に誘うおなじ道がまた全体を革命に誘うのである。それはおなじ実験であり、運命の相似の契機である。許されたものの限界を、我意によって踏み越えた人間がみずからの自由を失うように、許されたものの限界を我意からして踏み破った国民もまたその自由を失う。自由は一変して圧政となり奴隷化となる。神なき自由は、自由そのものを滅ぼす。

 

こうした宿命的な経過、すなわち、革命において自由が失われ、自由は未曽有の圧制に変わってゆくことを、ドストエフスキーは予言者的に予告している。彼はこの経路の暴露に委曲をつくしてまさに天才的である。

 

彼は〈革命〉を好まなかった。それは、人間を奴隷化し、精神の自由を否定するからである。これが彼の根本モチーフである。自由を愛するがゆえに彼は理念的に〈革命〉に反抗し、奴隷化を招かずにはいないその究極の基盤を暴いたのだ。同様に、〈革命〉はまた、人間の平等および同胞愛の否定、つまりは未曽有の不平等に至らずにはいない。

 

1918年12月、冬宮殿の襲撃(出典*2

 

ドストエフスキーは〈革命〉なるものの欺瞞的本性を暴く。革命は、誘惑の餌にしたその当のものを達成することは決してない。いわゆる〈革命〉においてはすり変えが行なわれる。すなわち、キリストに代わって反キリストが登場する。人々は自由にキリストにおいて結合することを欲しなかった。それゆえに彼らは、強制的に、反キリストにおいて統合されるのである。

 

ーーーーーー

〈革命〉の本質の問題は、ドストエフスキーにとっては、なによりもまず社会主義の問題であった。社会主義の問題は常に彼の視野の中心にあった。かつて社会主義について語られたもっとも深い思想は、実に彼のものなのだ。彼は、社会主義の問題が宗教問題であること、神および不死についての問題であることを悟っていた。

 

「社会主義は単に労働者の問題ではない。いわゆる第四階級だけの問題ではない。なによりもまずそれは無神論の問題である。無神論を現在実現しようという問題であり、また、地上から天に達するためではなくて、天を地上に引き下ろすために、神の力をかりずに建設しようとするバベルの塔の問題である。」

 

社会主義は、全人類の統合という、いわば地上の王国を建設するという永遠の問題を解こうとするものだ。社会主義の宗教的性格は、特にロシア社会主義にはっきりあらわれている。

 

ーーーーー

ロシアの社会主義の根底には、あらゆる文化価値や歴史的聖物を憎む虚無主義的な酵母がある。社会主義は精神の一現象である。それは、最後から一つ手前の物事についてではなくて、究極の事柄について語ろうとするものだ。

 

社会主義は新しい宗教となろうと欲し、人間の宗教的要求に応じようと欲する。社会主義は資本主義と交代するために来るのではない。反対に、それは資本主義と同じ地盤に立つものだ。それは資本主義の肉の肉、血の血である。社会主義はキリスト教と交代するためにくる。それはみずからキリスト教にとってかわろうと欲するのである。

 

社会主義もまたメシア的パトスに貫かれ、人類をあらゆる禍悪や苦難から救済する福音を述べ伝えようと望んでいる。*3

 

かくて社会主義は、ユダヤ教的地盤の上に成立した。それは古代ヘブライ的千年王国説の現世化した形式であり、経験的な地上の王国と、イスラエルの地上的幸福への信頼である。マルクスがユダヤ人であったのは偶然ではない。彼は、メシアの出現、すなわちユダヤ民族がしりぞけたキリストの敵の出現を信じ続けていたのであった。しかし、神の選民、救世の民は、マルクスにとってはプロレタリアであった。この階級に彼は、神に選ばれた救世の民の相を与えたのである。

 

ドストエフスキーはマルクスを知らなかった。この理論的にもっとも完全な社会主義の形を、ついに彼は知らずに終わった。彼が知っていたのはただフランスの社会主義だけであった。だが彼は天才的な透視的眼力をもって、のちにマルクスおよびマルクスと結びついた運動によってあらわれ出たものを、社会主義の中に見て取っていた。

 

マルクス主義的社会主義の構造は、徹頭徹尾キリスト教の対峙者として登場するようにできている。両者の間には、対極的相反の類似性がある。しかし、もっとも自覚的な社会主義であるマルクス主義的社会主義といえども、みずからの本性を深くは自覚せず、自分がいかなる精神の子であるかを知らない。なぜならそれは常に表面にのみしがみついているからだ。

 

ドストエフスキーは、社会主義の秘密の本性を暴露すべく、より遠くより深く進んでゆく。彼は革命的・無神論的社会主義のなかに、反キリスト的な本性、反キリストの精神を見つけ出す。

 

ーーーーー

社会主義の内的基礎は不信である。社会主義は神を信ぜず、不死を信ぜず、人間精神の自由を信じない。だから社会主義の宗教は、キリストが荒野においてしりぞけた三つの誘惑をことごとく受け入れる。この宗教は、石をパンに変える誘惑、社会的奇蹟の誘惑、地上の王国、この世の王国の誘惑を受け入れるのである。

 

社会主義の宗教は、神の自由な子らの宗教ではない。それは人間の精神的嫡子権を否認する。それは必然性の奴隷たちの宗教、塵埃の子らの宗教である。人生にいかなる意味もなく、永遠性というものが存在しないのだから、ヴェルシーロフのユートピアにおけるように、人間は互いに身を寄せ合って地上に幸福を打ち立てる他はないのである。

 

社会主義の宗教は、大審問官の言葉を借りて言えばこういうことだ。「すべての人、幾百万人の人間がことごとく幸福になるだろう。」「われわれは彼らに労働を強制するだろう。しかしひまな時間には、童謡とかコーラスとか無邪気な踊りとかで彼らの生活を子供の遊びのようにしてやろう。ああ、われわれは彼らの罪を許してやろう。彼らは弱くて無力なのだから。」

 

社会主義の宗教の目指すところは、なによりもまず自由の打倒である。人生の非合理性と、人生の無数の苦悩とを生み出す人間精神の自由を打ち倒すことである。それは人生を余すところなく合理化し、集団の理性に屈服させようとする。

 

だがそのためには、自由と絶交することが必要である。人間に自由を放棄させることは、石をパンに変える誘惑をもってすればできる。人間は不幸であり、その運命は悲劇的である。それは人間が精神の自由を与えられているからだ。人間をしてこうした不幸な自由を放棄せしめ、地上のパンの誘惑によって彼を奴隷にするがよいーーそうすれば、人間の地上の幸福を確実にすることが可能となるであろう。

 

ドストエフスキーは社会哲学にとって非常に重要な発見をしている。人間の苦難、多くの人間が日々のパンにさえこと欠くという状態は、社会主義の宗教が説くように、人間が人間を、ある階級が他の階級を搾取することによって引き起こされたのではない。

 

ではなくて、人間が自由な存在者として、自由な精神として生まれることによって起こるのである。自由な存在者は、自分の精神の自由を失い、地上のパンのために奴隷となるよりは、むしろ苦しむことを選ぶ。日ごとのパンを失うことを選ぶ。

 

人間精神の自由は、選択の自由、善と悪との自由を前提とする。従ってまた、人生における苦難、人生の非合理性、人生の悲劇性が不可避であることを前提としている。

 

ドストエフスキーにおいてはいつもそうであるが、ここでも神秘的な観念弁証法が展開される。人間精神の自由とは、善の自由のみならず悪の自由をも意味する。だが悪の自由は、人間の我意と自己主張とに至る。我意は精神の自由そのものの源泉に対する反抗、反乱となる。無制約の我意は自由を否定し、自由を拒否する。自由は重荷であり十字架である。

 

自由の道は苦難の道である。それで人間は、こわごわ立ち上がって自由の重荷に反抗を試みる。自由は一変して奴隷化となり強制となる。社会主義は人間の自己主張、人間の我意の産物である。だがそれは、自由を売り渡すのである。

 

こうして二律背反、こうした免れがたい矛盾から逃げ出す路はどこにあるか?ドストエフスキーは逃げ路をただ一つ知っている。それはキリストである。キリストにおいて自由は祝福となり、無限の愛と合一する。かくして自由は、もはやその反対者、悪しき圧制に一変することはできない。

 

ーーーーーー

ドストエフスキーは、革命的社会主義の本質とその免れがたい結果とを、シガリョフの説く論に沿って探求する。ここには、後に大審問官が展開する原理とおなじ原理が支配している。しかし、大審問官のロマン的悲愁はない。この形姿の独特な崇高さはない。・・シガリョフの革命論に顔を出すのは、浅薄な把握、無限の平板さである。

 

ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーはスタヴローギンに向かって、この論の本質を次のような言葉で要約する。

 

「山を平地にするということ、これは立派な思想で、少しもおかしいことはない。教養なんかいるものか。科学でたくさんだ。その科学もなくたって、材料は千年ぶんもある。とり入れなくちゃならないものは従順ということだ。教養に渇いているなんて、それはもう貴族的な欲望だ。われわれは、飲んだくれ、陰口、密告を許す。われわれは未聞の悪徳の数々を許す。われわれはあらゆる天才を若葉のうちに摘み取ってしまう。いっさいはおなじ分母で通分され、完全な平等が支配する。・・・必要なものだけが必要なのだ。これが、これからの地球の合言葉となる。

 だが痙攣もまた必要だ。支配者たるわれわれはこの点についても配慮してやるだろう。奴隷は支配者を必要とするのだ。完全な従順、個性の完全な平均化だ。だが30年に一ぺんは、シガリョフも痙攣を許す。するとみんなは噛み合いを始める。それをある程度まで、つまり退屈にならない程度だけにしておく。退屈というやつは、貴族的な感覚なのだ。」

 

「ひとりびとりは全部の人間のもので、全部の人間はひとりびとりのものだ。すべての人間が奴隷であって、奴隷であるという点では互いにみな同じである。まず第一に、教養、科学、才能の水準をさげること。学問や才能の高い水準は、より高い天賦の才に恵まれた者だけが到達できる。そんな秀才なんか消えてしまえだ。」

 

しかし、こうした全面的な強制的均一化、社会的分野に移された熱力学函数(エントロピー)という致死的な法則の勝利は、デモクラシーの勝利を意味しない。そこには、デモクラシーのいかなる種類の自由も存在しないであろう。革命においてデモクラシーが勝利を勝ち得たことはかつてなかった。こうした全面的、強制的な均一化と、個性の平均化とによって、専制的少数は支配するであろう。

 

シガリョフは言う。「僕は無制限の自由から出発して無制限の専制主義で終わる。しかし僕はこうつけ加える。社会形式の解決ということであれば僕の解決以外に可能なものはないと。」ここには、人間人格を本質的に変革して、人間のおもかげを失わしめる、誤った理念に憑かれた狂信的な状態が感じられる。

 

ドストエフスキーは、ロシアの革命家たち、いわゆる「ロシアの子供たち」の無拘束な社会的夢想が、いかに存在を滅ぼすとともに、そのあらゆる価値を殺し、空無の限界まで進んでゆくかを探求する。革命的夢想はロシアの魂の病気である。ドストエフスキーはこの病気を暴き、その診断と予後とを提示した。

 

みずからの人間的我意と人間的自己主張とのゆえに、神が人間を憐れみ愛したよりも、より以上に人間を憐れみ愛することが要求したあの連中、神の世界をしりぞけその「入場券」を神に返してみずからより良き世界、苦悩もなく悪もない世界を創造しようとしたあの人々は、宿命的に、まねがれがたく、シガリョフの王国に近づいてゆく。

 

長老ゾシマは言う。「ほんとうに彼らは、わしらよりももっと多くの夢幻的な空想を持っている。正義をもって建設すると彼らは言うが、キリストを否認する彼らは、結局は、地球を血で覆うことをもって終わるだろう。なぜなら、血は血を呼び、剣を抜く者は剣によって倒れるからだ。もしキリストの約束したもうようでなければ、彼らは地上最後の二人にいたるまでも互いに殺し合うだろう。」預言的な、まことに驚くべき言葉である。

 

ドストエフスキーは、恥知らずと感傷性とがロシアの革命的社会主義の基礎をなしていることを暴き出した。「社会主義は、わが国では主として感傷性から出発して広まってゆく」のである。しかし、感傷性は間違った涙もろさであり、間違った同情である。挙句の果ては残忍となることも稀ではない。

 

革命のこうした心理的要因は、人間人格そのものが、その根源、その根柢において否定されること、その質的状態、その責任感、その絶対意義が否定されることを示している。

 

革命道徳は、人格があらゆる道徳的評価および判断の基礎であることを知らない。それは非人格的な道徳である。それは人格の道徳的意義を否定し、人格の特性の道徳価値を否定する。それはあらゆる人間人格を単なる手段、単なる材料とみなすことを許し、革命促進のためにはあらゆる任意の手段を使用することを許す。

 

ゆえに、革命道徳は道徳の否定である。革命は、その本性上、無道徳的である。革命は善悪の彼岸に立っている。そして外面的な反革命は、それにあまりによく似ている。

 

人間人格の尊厳およびその道徳的価値の名において、ドストエフスキーは、革命および革命道徳に反抗する。革命的要素においては、人格はけっして道徳的に能動的となることはなく、またけっして道徳的に引責能力を持つことはない。革命は憑かれた状態である

 

こうした狂乱状態が人格に襲いかかり、その自由、その責任感を麻痺させ、人格を失わせ、非人格的・非人間的な要素に屈従させる。革命の実行者たちは、いかなる亡霊に憑かれているかをみずからは知らない。

 

彼らの能動性は見せかけだけのものに過ぎない。根本的には彼らは受動的であり、彼らの精神は、彼らがみずからのうちに迎え入れた悪霊どもの手につかまれているのである。革命においては、人間の姿は失われる。そこでは人間は自由を奪われ、元素的亡霊どもの奴隷となる。人間は反抗する。だが自律的ではない。人間は、見も知らぬ主人、非人格的・非人間的な主人に屈服する。ここに革命の秘密がある。*4

 

これによって革命の非人間性は明らかとなる。人間は、その精神の自由、その個性的・質的な創造力を失わなかったならば、革命的要素の暴力に屈することはないであろう。

 

ここから無恥が生まれる。自己の意見の喪失、一部の人間の専制と他の人間の奴隷制もここに源を持つのである。ドストエフスキーは、その世界観の性格から当然のことであるが、革命に対して個性的要素を突きつける。人格の質と絶対的価値とを突きつける。彼は、非人格的・非人間的な集合主義の反キリスト的虚偽、いわば偽教団性を暴き出すのである。

 

ー終わりー

 

*1:管理人注:ドストエフスキーの小説における「人神思想、神人思想」の系譜

*2:

*3:管理人注:マルクス主義とフェミニズム(by ヴェルン・ポイスレス)

贖罪プログラムに関し、彼らが提示しているもの

マルクス主義およびフェミニズムには多くのバリエーションがあります。また「宗教的」、そして中には「キリスト教的」マルクス主義やフェミニズムを主張するバリエーションさえ存在します。またフェミニズムという語は、ジェンダーの平等に同情的なありとあらゆる考え方をひっくるめた非常に広義の意味で使われることもあるでしょう。しかし平易化のため、ここではよりポピュラー且つ、戦闘的、セキュラーな形のフェミニズムに焦点を置きたいと思います。

マルクス主義もフェミニズムも、その典型的表現の内に、それぞれ贖罪的プログラムを包有しています。彼らは、「何が人類の抱える問題であり、いかにそれを是正・治療・救済すべきか」に関する思想を持っています。平易に申し上げますと、彼らは、「人間の根本的不安要因は、奇形化した社会的・経済的・政治的システムにある」と主張していると言っていいかと思います。

そして彼らの救済策はシステムの再構築にあります。ーー但し、いかにして実際に再構築していくかについてはいろいろ意見が分かれるでしょう。カール・マルクスの元来のビジョンによれば、いくつもの段階を経た後、地球上にある社会はついに、物質的十全および社会的平和に満ちる共産主義ユートピアに達することができるとされていました。そのユートピアでは、人は各自の能力に応じて社会に貢献し、また各自の必要性に応じ報酬を受け取ることができるのです。

詳細が何であれ、社会を再構築しようというこういった提案は、贖罪的提案です。根本的「罪」は、奇形化した社会システムであり、根本的「贖罪」は、その再構築にあります。そして再構築が完了するなら、その時、人間本性自体が新構築によって変容され、こうして私たちは平和を得ることになります。ここでは、「罪」と「贖罪」その双方が、神とは無関係な人間の諸問題として、完全に「水平に(“horizontally”)」捉えられています。

偽造化(Counterfeiting)

マルクス主義とフェミニズムは、聖書に示されているキリスト教贖罪に似せた〈見せ掛け〉の像を提示しています。〈見せ掛け〉というのはそれがどんなものであれ、それが真理を模倣し、真理のいくつかの諸要素を含んでいない限り、人々を惹きつける魅力は持てません。

人間というのは実際、本当に贖いを必要としています。そして罪がその根本問題であり、罪は個々人の内に在ります。しかしその一方、罪には、社会的・政治的・経済的網状拡大(ramification)という側面もあります。ですから、罪は個々人に対してだけでなく、社会システム全体に対しても影響を及ぼしています。お金、快楽、性、権力などは偶像になり得、そういった偶像は、それらの魅力を促進するさまざまな手段を包含する文化的風潮によって滋養されるかもしれません。

それゆえ、文化的風潮はイデオロギー的に非難の対象になり得ます。そして病癖のイデオロギー的分析にはまことしやかな響きがあります。なぜならそれは部分的に正しいからです。不正な権力使用を支持するイデオロギーは確かに深刻なる人間の困難です。

人類としての人間が罪に感染する時、その罪は権力行使の領域をも腐敗させるという事実について聖書は現実主義的です。そうなりますと、権力を持つ人々はそれを自己中心的に、あるいは偏見的に用い始めるかもしれません。そして逆に権力を持たない人々は、権力を振りかざす人により抑圧されたり踏みにじられたりするでしょう。

また、社会諸制度全体が、権力乱用を持続させるような進展をしていくかもしれません。それに加え、権力を手中にしている人は、自分たちの見解を強要すべく言語、思想、伝達手段を用いるかもしれません。それゆえ、私たちは、いかに伝達が権力の道具となり得るのかということに意識的である必要があります。人が自身の権力のため、いかに言葉を用いているのか、聖書には実例が載っています。

ガラテヤ4:17

彼らはあなたがたを熱心に求めているが、しかし良い〔思い〕をもってではなく、むしろあなたがたが彼らを熱心に求めるようになるために、〔私との交わりから〕あなたがたを閉め出そうと欲しているのである。

1コリント11:20

事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。(2コリ11:20)

2ペテロ2:1-3

1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。

2 そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(2ペテロ2:1-3)

宗教それ自体、人が権力乱用を維持しようとする際の、数多い手段の一つとなり得ます。聖書それ自体でさえ、歪曲され、権力乱用のため悪用される可能性もあります。新約聖書が偽教師として拒絶している人々は、大概の場合、ローマ帝国内の何か全くキリスト教とは異なる新宗教に属する教師たちではありませんでした。 

むしろ、彼らのほとんどは、私たちの「内部」の人々でした。つまり、真理を表明していると主張するキリスト教グループ内の人々だったのです。教えの分野における歪曲は、権力乱用の一手段です。しかし手段はそれだけに限りません。知的には一応、「正統派教理」を持っている人々であっても、実際的な次元で、彼の下にいる人々を支配しようとしている可能性もあります。 

マタイ20:25-28

25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。

28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ20:25-28)

1ペテロ5:2-3

2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 

3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(1ペテロ5:2-3)

マルクス主義者やフェミニストのテキスト分析は多くの場合、権力や操作に関する諸問題に波長を合わせています。そういった分析には真理の諸要素が含まれている可能性があります。なぜなら、権力や操作は実際、罪深い世界内における社会的諸事実だからです。

人格主義的な聖書的世界観に立った上で、ある文脈内に存在する権力や操作を研究することはその意味で、有意義であり得ます。他の遠近法を用いる研究と同様、そういった学びにより、聖書真理に関し、それ以前には気づいていなかった諸次元が明らかになるかもしれません。

マルクス主義者およびフェミニストの聖書批評 

しかし多くの場合、権力に関する批判的分析は、①権力やジェンダーに関する現代思想、および、②そういった思想に付随する現代の世界観によって影響を受け、偏向しています。

マルクス主義者やフェミニストの多くは、聖書もまたその他の人間の書物と同様であると考えています。ですから、そのような彼らが「いかにして聖書は権力関係に影響を及ぼしているか」についての理由を見つけ出そうとし、人間の書いたその他の資料を扱う時と同様の猜疑心をもって、聖書を取り扱うというのは、ある意味当然なことです。彼らは、自分たちが同意しない仕方で聖書が権力を合法的なものと認めていると感じると、聖書を批判しようとします。 

彼らの批判が一見もっともらしく思えるのには少なくとも二つの理由があります。まず第一に、権力の乱用は罪に染まった世界において実際に生じているからです。そういった乱用を正当化すべく聖書が歪曲される可能性もあります。

第二番目に、マルクス主義者やフェミニストは大抵、「何が乱用で、何が合法性なのか」に関する独自の基準を持っています。もしも神が存在しないのなら、実質上、どんな権力の集中も、恣意的で「公正を欠くもの("unfair")」と捉え得るでしょう。

しかしマルクス主義者及びフェミニスト分析者はいかにして自分たち自身がもしや対等主義イデオロギーの捕虜になってしまっているのではないのかという可能性を否定できるのでしょうか?今日における対等主義イデオロギーはそれ自体で、権力掌握、そして権力維持のための道具となっています。事実、ソビエト官僚組織は、対等主義イデオロギーを用い、抑圧行為を正当化しました。

マルクス主義者やフェミニストは、権力乱用に対し憤怒を覚えています。しかし神から自らを隔絶させ、それ独自の基準を打ち建てたところに存在する倫理的憤怒はそれがどんなものであれ、恣意的かつ腐敗したものになる危険性をはらんでいます。

従って、私自身の応答は、聖書と、聖書の歪曲した読み方との間の区別に関するものです。私が「歪曲した読み方」と言う時、そこには、①これまでのキリスト教史を通し、自己中心的な私益のために異端見解(そして時には正統見解でさえも)用いた人々だけでなく、②(聖書の分析において彼らが罪深い歪曲により影響されている場合)マルクス主義者やフェミニスト自身による読み方も含まれます。私たちは、そういった歪曲から自分たちを解き放っていただくべく、神からの純粋な言葉としての聖書ーーこれを必要としています。

非人格主義的世界観(Impersonalistic Worldview)

マルクス主義とフェミニズムは、社会学的分析に対し、社会的抗争アプローチと密接な関係を持っています。実際、カール・マルクスは社会的抗争アプローチの発展における草分け的存在でした。

社会学におけるその他の経路と同じく、マルクスの社会及び社会内のシステムに関する分析は、非人格主義的世界観に端を発しています。彼は社会および歴史の中における諸制限を信じていました。

実際、彼は、プロレタリアート(無産階級)及び共産主義運動の勝利は歴史的に不可避だと考えていました。彼は、宗教を「権力に就いている人が社会を安定化させ、起り得る反乱を抑制・鎮圧するために使用している社会的現象」として分析する唯物主義者でした。そして、権力者が宗教を利用するのは、そうしないと、体系の中に存在する不正義や「矛盾」に対し人々が反逆しないとも限らないからだと彼は考えました。

マルクス主義及び主流のフェミニズムは両者共に、ーー神が不在もしくは非存在であるかのようにーー社会を取り扱っています。そうなりますと、社会というのは徹頭徹尾、人間の諸体系ということになり、また、社会は、神よりの影響や神の臨在に対し閉じられたものであるということになります。

社会には、不平等や権力乱用関係という形をとった、さまざまな悪が存在します。彼らの見解によると、もしもそういった悪が是正されるなら、私たち人間はそういった諸変化を完遂し勝ち取るに違いないとされています。こういったアプローチには人間中心、もしくは女性中心の贖罪という思想が包含されています。

そしてこれこそが、彼らの思想の抱える根本問題です。彼らの思想は神および罪に関する真理を見失っています。そしてこういった世界観における歪曲は、聖書テキストを含む、個々のテキストの読みに悪影響を及ぼします。マルクス主義者とフェミニストは、他の人々の聖書の取扱いを観察しており、実際、世界観による「感染症」の事実についてよく知っています。

そして彼らは言います。「あの人たちは、自分自身のイデオロギー偏向になんとか裏付けを与えようと聖書を読んでいる」と。ええ、それは実際に起こり得ますし、起こっています。そして私は、同じ事がマルクス主義者やフェミニストの聖書解釈においても生じているという事を申し上げたいのです。

私たちは自分自身の世界観を改革すべく聖書を必要としています。そして聖霊を通して私たちの心に働く、キリストの贖罪を必要としています。--自分の世界観の中に巣食うさまざまな歪曲、そして、お金、性、権力、その他人生のあらゆる領域における誤った願望を清めていただくべく私たちはキリストの贖罪を必要としています。

神が私たち自身を助けるために聖書を御計画してくださったという事実に、もしも私やあなたが盲目であるのなら、それは残念なことと言わねばならないでしょう。マルクス主義者やフェミニストたちはその聖書読解により、神が提供してくださっている最も大切な手段を活かすのではなく、むしろそれを切り捨ててしまっています。

しかしそれを聞いて、主流のマルクス主義者やフェミニストは、筆者である私自身が、この論考を書いているプロセスにおいてでさえも、汚染や悪影響から自由になれていないと応答することでしょう。私はその事実を否定しません。もちろんそうだと認めます。しかしその指摘が真であったところで、そういった反論は彼らに何ら益を与えていません。好きなだけ罪の悪影響を述べ、強調するがいいでしょうし、私に対しありとあらゆる糾弾の言葉を投げかけるも良しです。ある種の糾弾は的が外れているかもしれませんが、それでも私はそれらを認めたいと思います。

しかしマルクス主義者やフェミニストであるあなたに申しあげたいのは、そういった非難によっては現実の半分でさえも明らかにしていないということです。あなたが罪の力を強調すればするほど、ますます自分たちの状況の絶望さが浮き彫りにされ、そして真に超越的な贖罪の必要性をあなたは示していることになります。ーーそうです、人からではなく神による真の贖罪の必要性を。私たちは贖い主であるキリストを必要としています。

私は、すでに完全にされた者としてではなく、同じ道程を歩く一介の罪びととしてこれを書いています。私はキリストによる贖いを経験した者として、同じニーズを持つ同胞たちに語っています。キリストを信じる私たちは、絶えず主の助けを必要としています。なぜなら、私たちは未だ完全な者とされておらず、イデオロギーによる障害や悪影響から私たちはまだ完全に解放されてはいないからです。ー終わりー

*4:管理人注: