巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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言論の自由についてーージョーダン・ピーターソンへのインタビュー【2018年、豪州】

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トロント大学のキャンパスで、彼に抗議する学生たちに対峙するジョーダン・ピーターソン教授。(xeやxirといった最近作り出された)様々な代名詞使用を国民に強制するカナダ政府の法案に対し、ピーターソンが公的に不賛成の意を表明した直後の様子。2016年。(写真)(現場のビデオ

 

Jordan Peterson: Free Speech & the Right to Offend, 2018(抄訳)

 

レイ・セールズ(インタビュアー):最近では、公的発言の場で人に不快感をもよおさせること(being offensive)に対し、人々はかなり神経質になっているように思われます。以前でしたら、それらは「マナー」の良し悪しという風に受け止められていたと思います。

 

ジョーダン・ピーターソン:これは相当に深刻な問題です。現在、私たちに課せられているルールは、「誰をも不快な思いにさせてはいけない」というものです。

 

では、例えば、私が今、一人の人に向かって話しているとしましょう。その人は私に言います。「あなたは、私に不快感を催させるようなことを言ってはいけない」と。OK。そうしましょう。それでは仮に私が10人の人々を前に話しているとします。その際、私が10人の内、1人を不愉快な思いにさせてしまったらどうなるのでしょうか。あるいは100人の聴衆の中の1人、1000人の聴衆の中の1人を立腹させてしまったとしたら。あなたは講壇に立ち、ある肝要きわまりないテーマに関し重要なことを言おうとしているのですが、その際、あなたは1000人の聴衆者の内、ただの1人も不快な思いにさせてはならないとされているのでしょうか?

 

どんな主題であれ、私たちがなにか重要なことを言明する際、皆が皆、私たちの言うことに賛同してくれるわけではありませんし、皆に気に入られるようなことを言うこともできません。一部の人はなんらかの形で反発したり不快感を覚えたりするのが常です。重大なテーマに関する重大な言説ーー特に賛否両論あり、論争を巻き起こしている種類のテーマに関する言説ーーは、まず間違いなくoffensiveなものであり、誰かの気分を害させます。

 

インタビュアー:例えば、何人かのトランスジェンダーの方々がやって来て、自分のことを'he'とか'she'とか呼ばないでほしい。その代りに、'ze'もしくは'they'と呼んでほしい、と言ったとします。その場合、私たちはどう対応すればよいのでしょうか。

 

ピーターソン:それは回答が困難です。なぜなら悪魔は常に細部に宿る("the devil is always in the details")からです。しかし自分に関して言えば、その状況は、私の関わっている当該諸事項には関係していません。

 

個々のトランスジェンダーの人々がどういう代名詞で呼ばれたいかに関しては、私としては問題ないのです。それはそれぞれの状況において、個々の相手と話し合い、交渉し、そうして決めてゆけばいいことです。

 

しかし政府がそういったことを市民に無理強いし、生物学的性別、ジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー表現、性的傾向が互いに独立し無関係であるということを法制化する中で人々に強制していくとなると話は全く違ってきます。それは事実に照らし合わせても間違っていますし、政府は私の言論を強制し、力ずくで押さえつけることはできません。彼らの大義が何であれ、私はここから一歩も引くつもりはありません。

 

インタビュアー:言論の自由が抑制されようとしていると見てよろしいでしょうか。

 

ピーターソン:それは言論の自由の抑制といったもの以上に悪質なものです。つまり、住民が、ある一定種類の言語的アプローチを用いることを〔政府が〕要求するということです。それは言論の横領です。これに関してはどんな言い訳も通用しません。

 

こういったことは英米法(コモンロー)史上、一度も発生したことのない事態です。それは私たちが超えてはならない柵です。ヘイトスピーチ法はまだ序の口です。(*ヘイトスピーチというのが存在しないと言っているわけではありません。常識を持っている人なら誰でもヘイトスピーチというのが実際に存在するということを知っています。)

 

さあ、誰が‟ヘイトスピーチ”を規制していくのでしょうか。‟ヘイトスピーチ”が何であるかを誰が定義していくのでしょうか。先は見えています。そうです、これらを今後決定していくのは、あなたが恐れているところの、最も危険なタイプの人間たちです。

 

そうした後、私たちはまた別の柵を超え、仮説上‟情け深い理由”によって、政府が今後、国民の言論活動を強制することを許可していく、ということでしょうか。とんでもありません。これは本当に劣悪なる見解です。

 

ー終わりー