巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ボブ・デウェイ師の「解放のミニストリー」批評のものさしは果して十全だろうか?【過去記事に対するクリティカルな考察】

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目次

 

ボブ・デウェイ著「なぜ『解放のミニストリー』によって人々はかえって束縛されるようになるのかーー『霊の戦い』という世界観に対する警告」の記事を再考する

 

2017年の11月、私は、福音主義教師であるボブ・デウェイ師執筆による以下の記事を翻訳しました。

 

 

しかしながら、それからちょうど一年後の2018年11月、私は「振り返り」という記事の中で次のように自分の迷いを告白しています。

 

「また、『解放のミニストリー』に関し、ボブ・デウェイ師の検証記事を翻訳しましたが、仮に彼の定義している『霊の戦い』の世界観 vs『摂理的』世界観というのが、アルミニウス主義 vs カルヴァン主義の対立と並列関係にあるのだとしたら、現在の自分は、その二分法に対しすでに懐疑的になっていると思います。それゆえに『解放のミニストリー』自体に対しても、どういう風に捉えればいいのか、正直よく分からなくなっています。」*1

 

実際、論考の註の部分で、デウェイ師は、神の主権と人間の自由意志に関し、1986年に、従来のアルミニウス主義見解から、カルヴァン主義的見解に転向した旨を次のように記しておられます。

 

「1986年になり、私は自由意志に関する自分のそれまでのアルミニウス主義見解が非聖書的であったということに気づき、神の包括的主権性を受容しました。これはローマ書の詳細研究を通してもたらされました。摂理的世界観は、神が常にご自身の宇宙を統治しておられ、ご自身の聖定された目的の完成へと宇宙を導いておられるという見方をしています(エペソ1:11)。」

 

カトリックや正教においては、そもそもアルミニウス主義 vs カルヴァン主義という二分法自体が存在しませんので、そこから綜合しますと、デウェイ師の提示している、「霊の戦い」の世界観 vs「摂理的」世界観という構図は、おおよそカルヴァン主義的・改革派的視座に立った分析の仕方だということが言えそうです。

 

以下、現在、私が考察している点を断片的に記してみます。

 

〇「霊の戦い」の世界観と「摂理的」世界観は、ひょっとすると、「あれかこれか」の二者択一ではなく、むしろ、なんらかの形で両者が融合したかたちと捉えるのが妥当なのかもしれない。(maybe....)

 

〇カトリック教会にも、正教会にも、(重要性の度合いや神学的差異こそあれ)エクソシズムの伝統は共に存在する。*2

 

〇しかしながら、プロテスタントのカリスマ・ペンテコステ派を中心とした「霊の戦い」や「解放のミニストリー」を考える上で、ピーター・ワグナーやシンディー・ジェイコブスなど新使徒改革(NAR)に関わる人々の影響力の大きさはやはり無視できないと思う。

正教修道士セラフィン・ローズは、著書『Orthodoxy and the Religion of the Future』(1997年)の中で、現代のさまざまな霊的潮流を分析し、現代カリスマ派的霊性や教え、諸現象にも詳しく触れる中で、これらの霊性やセミ異教的「悪霊追い出し」実践が、教父たちの霊性および正教霊性とは相いれないものであることを明記している。*3

そこから考えると、デウェイ師が「解放のミニストリー」の教役者時代に体験し、後に自己批判している内容それ自体は正しいといえるのかもしれない。

 

〇近年、プロテスタント改革派内でも、従来の「世界観」中心のーー主として知性の部分にのみ訴えるーー教会教育に対する反省の声が出ていると聞いている。ジェームス・K・A・スミスは著書『Desiring the Kingdom: Worship, Worldview, and Cultural Formation』(2009年)の中で、次のような旨を述べていた。

「『世界観』訓練は、人間性の一側面である知性の部分しか取り扱っていない。ここにある前提は、『私たちがクリスチャンのように思考するなら、その時、私たちはクリスチャンのように行動するようになる』というものだ。しかしこの捉え方には欠陥がないだろうか?私たちは、信徒訓練に関し、従来の情報理解型を超え、造形礼拝中心の型をも視野に入れていくべきではないだろうか?」

その意味でも、もしかしたら、デウェイ師の世界観による二分法構図分析は、神、人間、悪魔を考える上で不十分なのかもしれない。

 

ーーーーー

*皆さんへ。ボブ・デウェイ師の上記の記事についてどう思われますか?カトリック教会、正教会の視点からみた時、現在、主としてカリスマ・ペンテコステ派内で盛んな「霊の戦い」「解放のミニストリー」の諸教説および実践は、どういう点で伝統教会の「エクソシズム」と異なっているのでしょうか。あるいはどこか類似点があるのでしょうか。私たちは、これらの諸教説や霊性、実践をどのように捉えるべきなのでしょうか。

 

2019年7月3日追記

 

カトリック教会のエクソシズム伝統について

 

折しも昨日、カトリック弁証家のテイラー・マーシャル師とティモシー・ゴードン師が、カトリック教会のエクソシズムに関する解説VTRを公表されました。このビデオをみた感想を、友が分かち合ってくれました。友の了承を得た上で、その内容を皆さんにもシェアしたいと思います。

 


感想 

映画「エミリー・ローズ」の題材になった事件ですね。カトリックのエクソシズムの解釈や、アンネリーゼさんに憑いた悪霊の語った「カトリック教会に関する重大な内容」の詳細などは、初めて知る事ばかりでした。彼女自身に聖母を通して与えられたという奇跡、そして「犠牲となってほしい」というメッセージが真実のものであるのか、神の御心に沿うものであったのかは、私たちには分かりません。

 

 「悪霊は体に入り込むものであり、魂自体には影響を及ぼさない。」カトリック教会がそう解釈しているのを初めて知りました。アンネリーゼさんの場合、確かに彼女が最後に回復した際(彼女を死に至らしめる憑依を受ける前)に心と判断力を取り戻しています。

 

私は悪霊は光の前に明らかにされず癒されないままの心の傷や、告白されないまま隠し持たれた罪、神様から離れる選択の一歩・・そうしたところにも闇は働き入り込むと見ています。私が見聞きし、教えられ、様々な体験をした中で得たその結論がカトリシズムのエクソシズム論に合致するものかどうかは分かりませんが、癒しと解放はイエスによらなければ決して有り得ないという点は明確に同意します。

 

「キリストの光の権威の元では悪霊は反抗はしても、事実を語らざるを得ない。」これとほぼ同じ見解を聞いた時にあります。悪魔は最初から嘘つきで人殺しである、と聖書に書かれていますが、彼らが事実を語る場面もまた聖書に書かれています。悪霊たちが語る‘事実’は犯行の自白や予告のようなもの、光への恐れと受け取っています。

 

「悪魔の語る事を信ぴょう性のあるものとして受け取る必要があるのか否か・・」

マルコ1・24やマルコ5章に悪霊がイエスに向かって「神の聖者」「神の子」と事実を語る場面が出てきます。ある方がこれに関して「悪霊も時に事実を語る。ただしその目的は人たちに混乱をもたらすためであり、福音を分かち合うためではない。」と書かれていました。私もこの意見に賛同しています。

 

私たちが受け止めなくてはならないのはサタンの語る内容ではなく、この世は闇の支配下にあるという事実だと思います。アンネリーゼさんのケースはその容赦ない現実を示す事例のひとつなのではと思います。・・・聖霊の内在を持つキリスト者の多くが今、次第に深まる闇を感じておられると思います。実際に彼らを通して多くの警告がなされています。

 

ある方は世界情勢やこの世の流れを注視し、ある方は教会内部の背教や不穏な流れを告発することで。神様はこういう方々を通しても、警告を発しておられると思います。

 

ただクリスチャンへの闇からの攻撃も究極神様の許しなしには起きないならば、それが許される理由というのももしかすると存在するのかも知れません。この領域には光のもとにいることなしに、神様と共にいることなしに人間の独断で立ち入るべきではないという側面が存在します。闇に打ち勝つのは光だけであり、人間では決して有り得ないからです。

 

アンネリーゼさんに憑いた悪霊たちが当時一般に知られていなかった(ましてや地方の一少女が知るはずのない)カトリック教会の事情に通じていた事は、特に驚く事ではないと思います。彼らは本気で人間(特に光を持つ人間たち)を滅ぼそうとしており、こちら側の事を非常に抜かりなく、かつよく観察しているからです。

 

余談になりますが、アンネリーゼさんのケースは精神医学界では「彼女は重度の精神病患者であり適切なケアを受けられなかったゆえに死んだ虐待被害者である」との見方が一般的です。カトリック神父でもある精神科医にもこの見解を支持する方がおられます。

 

この事件でエクソシズムに関わった神父たちと両親は過失致死で執行猶予付きの有罪判決を受けており、これ以降カトリック教会のエクソシズムは殆ど表に出なくなっています。見えないものの働きを一切認めない現代らしい見解だと思います。

 

病気説を完全に否定する証拠がないのと同じく、闇の働きであることを完全に否定する証拠もないように思います。

 

このVTRが出された目的は後半部分だと思います。この事件はエクソシズムの様子が音声に残された希少なケースですが、そこから悪魔とその働きに対抗するために教会とカトリック信者たちは何をすべきか?という問題提示をしようとされているのだと思います。

 

お二人が指摘されているように悪魔は究極のロビイストであり、事実LGBT運動の一般化や暴走、性革命etc確実にその成果が社会に上がってきています。そして民主主義には確かに10人のうち6人が賛同すれば、神の目に叶わない不正義であっても社会にまかり通るようになるという面があります。

 

ラップ神父の映像には「おかあさんといっしょ」の歌のお兄さんを思い出してしましました。司祭のキャソックの着用、司祭が司祭らしくある重要性について語られていましたが教会の中での「権威と秩序の回復」、これがカトリック・プロテスタント・正教会問わず今後大きな鍵となってくるのではないかと思います。

 

お二人が正教会の司祭たちがseeker's friendly approachを一切取らず、礼拝の現代化を認めていない事を率直に称賛されていたのも印象的でした。

 

熱心なクリスチャンが「霊の戦いの世界観」に深くはまり込む時に、あらゆる問題の原因をそこに求めるようになり、健全な生活者としての感覚やhealthy faithを次第に失い混乱していく危うさが「解放のミニストリー」にはしばしば生じているように思えます。デウェイ師を含め多くの人々がその危うさを感じるがゆえに様々な形で警鐘を鳴らしておられるのでしょう。

 

「霊の戦い」の世界観のみに深く入り込み、地に足の着いた現実感覚を失うのが極端の一角であるように、見えないものの働きの全てを否定するのもまた別の極端なのかも知れません。ただ、こうした領域に関わることは非常な危険を伴う事であるので神様は多くの人々をあえてそこに関わらせないようにしておられるのかも知れません。

 

ー終わりー

 

正教会のエクソシズム伝統について

 

Head of Russian Orthodox Church Proposes Exorcism As Cure for Mental Illness, The Moscow Times, 2017(拙訳)

 

 

ロシア正教会頭首であるモスクワ総主教のキリル1世は、エクソシズムを、さまざまな精神衛生諸問題に苦しむ人々の癒しのための有益な慣習であると擁護しました。

 

「専門的心理カウンセラーの試みが頓挫した際にも、悪霊を追い出す働きは有益なものとなるだろう」と、RIAノヴォスティ国営ニュースはキリル1世の言葉を引用しています。

 

ヴェリキ・ノヴゴロド修道院を訪問中、キリル1世は「訓練を受けた精神分析医たちはしばし、科学的見地では説明のつかない精神病の諸事例に直面します」と述べました。

 

総主教は、悪霊を追い出す教会伝統を「非科学的」呼ばわりする懐疑論者たちを非難した上で、「悪霊の力はリアルであり、教会の守り無しにはいかなる人であれ悪霊の犠牲者になり得ます。エクソシズムの働きに立ち合った人々は、司祭たちが恐るべき悪の諸勢力を打ち負かす姿を実際に目の当たりにしています」と言っています。

 

ー終わりー

*1:引用元

*2:カトリック教会のエクソシスム - Wikiwand// Exorcism - OrthodoxWiki 

*3:この点に関し、元ペンテコステ派牧師で、東方正教会に改宗したバルナバ神父や、同じく元ペンテコステ派牧師で、カトリックに改宗したスタッブス師、マックニール師などに意見を訊いてみたいです。