巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

有限性と弱さを抱えつつもやはり私の良心は、自分の眼に「黒」に映っているものを「白」と言うことはできない。

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「これは『黒』だ。」

私の良心は言っている。(写真

 

 

〔省察〕

調査に用いている私の「リソース源」が、この方の仰る如く、ことごとく「虚偽」であったとする。*1

 

(ワシントンポストによるインタビュー記事*も含めた)ビガーノ大司教も証言も、ジェームス・グライン氏を始めとする性的被害者たちの証言*も、バーク枢機卿、シュナイダー司教等によって作成され、6月10日に‘Declaration of Truths’として発表された文書(そしてそこに含意されている現教皇の諸教説に対する批判、矯正)も、ジョージ・ソロスやモルモン教会トップとの教皇の会合写真やビデオも何もかも、それらが「教会の敵共が作り出している虚偽のリソース源を元に」した「誤ったカトリック教会の情報」であるとする。

 

その主張が、堅固なる反証論考によって証明されるなら、私はそれを心から受諾したいと思う。

 

ーーーーー

しかし、私の眼に、依然として事態は「黒」と映っている。

 

この方は私の眼にそれが「黒」に見えるのは、私が教区内で提供される指定情報以外の情報(「外部の誤った情報」)を読み、「あちこち他の所を見」、「悪魔の罠に陥った」ゆえだと判断しておられる。

 

しかし、この半年、教区内で私たち一般人に提供されたバチカンに関する情報は、唯一、世界青年の日の前後に配られたA4二枚の教皇メッセージの翻訳文、ただそれだけだった。

 

教会や教導権を信頼するというのは、A4二枚の翻訳文書という非常に限られた情報源の中に自分自身を「とどめ」、信仰をもって「これら一連の事は『白』なのだ。そう、絶対に『白』であるに違いない。なぜなら使徒継承を持つ私の牧者がそうだと判断しておられるのだから」と自分自身を納得させることなのだろうか。

 

しかしその際、「これは『黒』だ」と叫んでやまない私の良心の声はどうなるのだろう。良心の声を、教導権や教区の教会権威の声の下に従属させることが即、教会を通して働く神の主権に恭順であるということなのだろうか。

 

「黒」は犯罪であり、隠蔽罪であり、組織的闇である。神が教会の教導権を通し主権的に働かれるという理念ゆえに、そして教区権威への恭順ゆえに、私が、この「黒」を「白」だと宣言するとき、「個」としての私は、正義なる神の前にはたして無罪なのだろうか、それとも有罪なのだろうか。恭順ゆえに、強いて自分自身を情報鎖国状態、霊的「北朝鮮」状態に置くことは、正義なる神の前に称賛されるべき行為なのだろうか、それとも糾弾されるべき誤った行為なのだろうか。

 

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

 

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しかしそういった個人の無責任体質が結局、戦前・戦中に渡り、私たちの先人たちを国体論への盲目的集団コミットメントへと駆り立てていったのではないだろうか。*2

 

所与としての歴史的現実を「絶対矛盾自己同一」(西田幾多郎)、「絶対弁証法」(田辺元)、「土と血との共同」(和辻哲郎)とかいった特異な用語により「解釈」することに腐心してきた天皇制ファシズム宥和者たちの理念*3は、当時、理論的に相当の説得力を持っていたに違いない。

 

それは当時の日本が向かおうとしていた「黒」の方向性を「白」に描いてみせる卓越した知の弁証であったに違いない。

 

「黒」を「黒」と呼ぶことが、非国民精神の表れであり、国体への反逆だと糾弾された時代がたしかにそこにあった。*4

 

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「黒」は「黒」でないかもしれない。黒は人の錯覚や誤解の産物に過ぎないのかもしれない。

 

しかし真剣な検討の末にも、依然として人の良心がそれを「黒」と認識しているとき、「白」と認めることができないとき、やはり私はそれを「白」と言うことはできない。どうしてもできない。

 

ー終わりー

*1:完全に ‟ニュートラル” なるメディアや出版社は存在せず、どの論考にしろ、どのメディアにしろ、そこには独自の立ち位置があり、主張があると思う。

*2:関連記事

現代にも起こり得る全体主義

*3:戦中期の日本思想史を再考するために。(加藤節)参照。

*4:関連記事