巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ローマ・カトリック、プロテスタント、正教それぞれの、自己像・他者像・相関像について

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モザイク画(出典

 

昨日、東方典礼カトリック教会に通っている60代の女性から思いがけずお茶に誘っていただき、中心街のカフェで共に時間を過ごすことができました。彼女は私が教会から姿を消したことを心配しわざわざ電話をくださったのです。

 

彼女は南米コロンビア出身の方で、ローマ・カトリックの大家族の中で生まれ育ち、波乱万丈の半生を過ごした末、劇的に神に立ち帰り、これまた数奇な導きで漂着したギリシャでここ20年近く信仰生活を送っているとのことでした。博士号を取得したものの大学での仕事に見事にあぶれ、現在、介護のパートをしておられるそうです。

 

日曜日には、東方典礼カトリック教会での聖体礼儀(Η Θεία Λειτουργία)に与り、平日は家の近くにあるローマ典礼の聖堂でミサに与っているそうです。私の受けた感覚では、彼女の霊的DNAは、90%強 ローマ・カトリシズム、9% ビザンティン・カトリシズム、そして残りの1%は救世軍(!?)で構成されているようでした。

 

なにかこの女性の内には尋常でない情熱と主イエス・キリストに対する敬虔があり、彼女の証にまたたく間に引き込まれてしまいました。

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彼女の生き生きした証に耳を傾けながら私が気づかされたのは、実際、ほんとうにプロテスタンティズムというのは元来、カトリックの母胎の中から生まれた分離カトリック教徒による運動だったということです。

 

南米のローマ・カトリック出身の方と信仰のお交わりをしたのはこれが生まれて初めてでしたが、彼女の霊性に最初から親近感を覚えている自分を見い出しました。実際、こういった種類の信仰表現や霊性は私にとってはすでに大変なじみあるものだったので、あたかも情熱的なプロテスタント聖霊派の女性と向き合っているかのような感覚さえ持ちました。

 

「カトリック VS プロテスタント」という二者対立構図ではなく、カトリックという母体の「中に」元来プロテスタントは包含されており、ーーここ500年余りそれは外形的に分離され、教権を否定する「ソラ(Sola)」の異説として深刻に歪められ、教会無しの痛ましい状態にはなっているけれどもーー、それでもルイ・ブイエ*1が指摘しているように、プロテスタンティズムの最良の諸要素は皆、カトリシズムの豊満性の中に包有されており、それゆえ、プロテスタンティズムがかくあらんと切望しているところのものに成るためには、やはりプロテスタンティズムはカトリシズムを必要としている、ということを改めて思わされました。*2*3

 

(とは言え、プロテスタンティズムにおける使徒継承の欠如、秘跡の有効性の欠如、「聖書のみ」のパラダイムの問題性、教会の欠如、合法的に叙階された司祭の欠如、教会論における機能的グノーシス主義などは、改宗なしには修繕不可能な致命的欠陥だと思います。)

 

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元バプテスト教徒で東方正教会に改宗されたクラーク・カールトン師は、西方キリスト教神学に対する批判を次のように表現しておられます。

 

「カリストス・ウェア府主教は、正教入門書の中で、19世紀のロシア人神学者アレクセイ・ホミャコーフを引用しています。

『全てのプロテスタント教徒は、隠れ教皇主義者(Crypto-Papists)である。代数学の簡潔用語を用いるなら、全ての西洋は、一つのデータム〈a〉しか知らない。ーーそれがローマ主義者の場合は正符号+であり、プロテスタントは負符号-で始まるという差異はあっても、〈a〉は依然として両者共通のものとして残っているのである。』

換言すると、ローマ・カトリシズムとプロテスタンティズムは同じ硬貨の両面に過ぎないということです。両者は異なった外観を呈しているかもしれませんが、根本的本質は同一です。それゆえに、多くの保守的プロテスタントはローマに惹きつけられるのです。なぜなら、ローマへの忠誠により、彼らはプロテスタンティズムに内在する先天的矛盾を克服でき、且つ、『キリスト教とはテキストから引き出されたイデオロギーである』というプロテスタンティズムの基本前提を破棄しなくても済むからです。」 *4

 

プロテスタンティズムがカトリック教会の母胎から生まれた運動であるという点で両者のDNAに共通のルーツがあるということは疑い得ないと思いますが、私はカールトン師の文章の最後の部分には同意しかねます。

 

カールトン師は、西方キリスト教を「テキストから引き出されたイデオロギー」という風に一括りにしておられるようですが、これは、プロテスタンティズムの一角には当てはまっても、カトリシズム(特に古典的カトリシズム)には全く当てはまらないと思うからです。古典的カトリック霊性も、東方キリスト教霊性と同様、秘跡性に富み、全体論的にして神秘に満ちたキリスト教を具現化していると思います。

 

この点に関し、東方正教会のセラフィム・ハミルトン師も次のようにコメントしておられます。

 

 「皆さんは時々、『ローマ・カトリシズムとプロテスタンティズムは同じ合理主義的、スコラ哲学的硬貨の両面に過ぎない』といった言説を耳にするのではないかと思います。しかしこれは大きな間違いです。ローマ・カトリシズムと正教には信じられないほど類似性があります。ローマ・カトリシズムと正教の類似性は、ローマ・カトリシズムとプロテスタンティズムのそれにはるかに勝っています。

 しかしながら現代における正教の自己理解は、『正教というのは、カトリック・プロテスタント体系に対立するものである』という叙述によって代表されています。そしてこの捉え方によると、カトリックとプロテスタントは基本的に同じ伝統として一括されています。これも間違いです。なぜ間違いかというと、この自己理解は新奇なものだからです。

 『スコラ哲学が方法論として誤っている』という見解は20世紀になって新しく生じてきました。特に、ローマ・カトリシズムと正教を区別しようと尽力した神学者ジョン・ロマニデスの言説を通し、この見解が普及するようになりましたが、これにより多くの点で正教の本質が深刻に歪められてしまったと私は考えています。中世期には、スコラ哲学、特に聖トマス・アクィナスを研究するビザンティン神学者が多くいました。そして彼らは自らの研究にスコラ神学を取り入れていました。」 *5

 

視点や立場や地勢や時代により、三者の力学や距離が変化し、強調されたり、その反対に最小主義化されたりするのがとてもふしぎです。それは伸びたり縮んだりするヨーヨーのように可動的なものなのでしょうか。それともどこかにオーソドックスな見方が恒久的な形で聖定されているのでしょうか。そして全能の神の目からはこの ‟モザイク” はどのように見えているのでしょうか。

 

ー終わりー

*1:ルーテル派からカトリックへ改宗した神学者。

*2:以下、私の辿ってきた道ーージェイソン・スチュワート師の信仰行程より一部抜粋。 

 プロテスタントとカトリックを隔てている最も根本的諸相違に関し研究を進めていく中で、私は、ルイ・ブイエ(Louis Bouyer)の著書『プロテスタンティズムの精神および諸形態』という本に出会いました。ブイエは元々ルター派の牧師であり、前世紀の中盤にカトリシズムに改宗した人です。

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The Spirit and Forms of Protestantism by Louis Bouyer

 それ以前にも、キリスト教典礼に関するブイエの優れた洞察を含んだ著述群に親しんではいましたが、カトリシズムに関する彼の議論にはほとんど注意を向けたことがありませんでした。しかし今、この本で取り扱われているテーマが私の関心を引きました。ブイエは言います。「宗教改革の諸原則がフルに開花するためには、カトリック教会が不可欠である」と。

 言い換えますと、プロテスタンティズムがかくあらんと切望しているところのものに成るために、プロテスタンティズムはカトリシズムを必要としている、という事です。そしてもちろん、もしそれが本当なら、プロテスタント宗教改革は不必要であったということになります。それだけにとどまらず、「宗教改革はその発端からして不可能なものであった。なぜなら、宗教改革者たちは知らぬ間に、自らのビジョンを開花可能となさしめるところの唯一の源泉から己を切り離してしまっていたから」ということになるのです。

 自分の改革派そして長老派的感覚では、こういった言明は不可解極まりないものでした。当時の私にとり、ブイエの言い分は、譬えて言えば、「末期疾患は、肉体の健康のフルな開花のために不可欠である。」もしくは「火は、酸素欠如の状態において最も良く燃焼する。」「植物の成長はそれを不毛で痩せた土地に植えることなしには不可能である。」と言っているような不可解さを持っていました。

 つまり、どう考えても、ブイエの見解は自分にとっては荒唐無稽なものだったのです。そこで私は彼の主張の根拠を知ろうと、本を精読し始めました。すると本当に思いがけず、著者の主張が骨格のしっかりしたものであることに気づいたのです。彼は宗教改革の肯定的諸原則を是認した上で、各々の原則が妥当に理解されるなら、カトリック信仰の中にその本来の《生家》を持っているということを示しています。

 それに続いて彼は今度は、宗教改革教理の否定的諸側面(例:ソラ・スクリプトゥーラ)を取り上げ、「こういった否定的側面が時の経過と共にプロテスタンティズムの肯定的諸原則を弱体化させ、ついには『プロテスタント自由主義』として知られるリアリティーを生み出すことになった」と分析しています。もちろん、一段落やそこらでブイエの説得力に満ちた論点を網羅することはできません。しかし今これを読んでおられる改革派の兄弟姉妹の中には、ブイエのような人たちの議論をただ単に荒唐無稽なものとして斥けたいという反射的反応をしている方がいるかもしれません。かくいう私も最初、そういう反応をしていました。だからこそ尚更、この本を是非直接手に取り、本書の中で提示されている主題に真剣に向き合ってみてくださることをあなたにもお勧めしたいと思います。

 ちなみにブイエは、「プロテスタント宗教改革の肯定的諸原則はカトリック教会にとってのアンチテーゼではなく、むしろそれは、教会の存在から、改革本来の力と生命力を汲み取るだろう」と説得力を持って論じています。

*3:尚、私の捉え方、見え方は、国民の圧倒的大多数が正教徒で構成されるギリシャ共和国という宗教社会地勢にも影響されているかもしれません。この国においては、ローマ・カトリック教徒も、プロテスタント教徒も、ごくごく小さなマイノリティー集団に過ぎません。ですからカトリックであろうとプロテスタントであろうと私たちは常に、圧倒的マジョリティーである〈正教の眼〉を意識しており、それゆえ、正誤はともかく、弱小マイノリティー・グループ同士を二者対立構図で考えるという発想が私たちの中ではやや薄められているのかもしれません。そしてこれは、国民の大多数がスンニ派イスラム教徒であるエジプト社会におけるコプト教徒と福音主義教徒の間の関係に関しても言えるかもしれません。私は両者の友好的な関係に何度も驚かされました。ジュネーブ近郊に住む私の友人の地域には、カトリックとプロテスタントが半々ずつ住んでいますが、第三者としての他のマジョリティー視点がないこの地域では、両者が互いを見つめ合っている構図になっているようです。それゆえに、友人の目には、カトリックとプロテスタントの「相違点」の方が「類似点」よりも、よりくっきりはっきり見えてくるようです。

*4:A Note for Evangelicals Considering Rome, by Clark Carlton

*5:Orthodoxy and Catholicism (1): Similarities and Ecclesial Status - YouTube.