巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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著書『どうしたらセキュラー(secular)にならないでいることができるか?ーーチャールズ・テーラーを読む』【ジェームス・K・A・スミス教授へのインタビュー】

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A Conversation with James K. A. Smith, 2014(抄訳)

 

インタビュアー:最近の新刊書についてお話ください。

 

ジェームス・K・A・スミス:『How (Not) To Be Secular: Reading Charles Taylor(どうしたらセキュラーにならないでいることができるか?ーーチャールズ・テーラーを読む)』という本を出版しました。

 

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インタビュアー:私も完読しました。大変読みごたえがありましたし、近代性のもたらした一種の不安、および世俗(secular)というものの存在ーーこれらの背後にあるものに表現を与えようとしているあなたの試み、そしてチャールズ・テーラーの試みに感謝しています。まずお訊ねしたいのは、あなたやテーラーの用いている"secular"という語の意味や語用についてです。

 

スミス:私が900頁にも渡るテーラーの学術的大著の貢献内容を、もう少し一般の人々向けに分かりやすく噛みくだいて紹介したいと思った理由は、彼が、いわば、secularという概念を再定義しているからなのです。

 

もしも私たちがこれまで、secularを「不信仰(unbelief)」や「無信仰(non-belief)」や「非宗教性(a-religiocity)」と結びつけて考えてきたのだとしたらそれは問題である、とテーラーは考えています。そういう捉え方では、私たちを取り巻く現代文脈を解することができないでしょう。なぜなら現在起こっているのは、信仰の衰退というよりはむしろ、あらゆる種類の信心道の爆発的増加だからです。

 

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つまり、人々はこの世界に対して「脱幻想(disenchanted*1)」してしまっているとか、あるいは、「脱幻想化された世界(disenchanted world)」の中で皆、新無神論者と化しているとか、そういう訳ではないということです。

 

そうではなく、私たちの住む世俗の時代においてはむしろ、何が信じられ得るか(what's believable)に関する観念に変化が起こっているのです。そして社会の妥当性にかんする諸構造(plausibility of structures)に変化が起こっています。

 

そのため、誰かの信仰が、自明のもの・公理的なものとして捉えられていた時代はもう終わりました。テーラーにとって、世俗の時代に生きるということは、全ての信仰体系が互いに競争し合い、異議の対象となり得るという、そういう時代に生きているのだという事を自覚することです。

 

しかしそうだからといって、それは、人々が信じるのを止めてしまったという事を意味しているわけではなく、むしろ、人々はこれまでにもまして多種多様な仕方・あり方で信心するようになっているということです。それで、私が本書の中で試みているのは、テーラーの分析を取り入れ吸収した上で、それを現代文化の文脈において表現することです。

 

テーラーは年輩の哲学者であり、そのため、彼は、ポップ・カルチャーの実例として例えば、ペギー・リーとか、そういう古い人物を挙げていて、、まあ、それは50年代には相当のヒットだったかもしれませんが、現代の人にはピンを来ませんよね。むしろ、彼が言わんとしていることは、今なら例えば、Death Cab for Cutieの音楽とか、デイビッド・フォスター・ウォーレスの小説などからよりよく実感できるのではないかと思います。

 

インタビュアー:「ノヴァ効果(Nova Effect)*2」について書いておられますね。これについてもう少し説明してくださいますか。

 

スミス:テーラーは、私たちが世俗の時代に生きるということの意味は、すなわち、ありとあらゆる信仰体系が互いに競い合い、競合させられている空間に生きることであると言っています。そしてそれにより一種の《圧力鍋》状態が生じます。(テーラーの用語では、「交差圧力」)。

 

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圧力鍋(出典

 

《圧力鍋》の中に放り込まれた私たちはその中で、「自分はいかに考えるべきか?」「自分は何を信じるべきか?」を巡り、ありとあらゆる方向から押したり引かれたりするのを感じます。私たちは、究極的ななにかを信じたいという強い切望心を持っています。その一方、懐疑の勢力もまた私たちの上にぐいぐい圧力をかけてくるのです。

 

そのため、信仰者を含めた全ての人が今や、その交差圧力の空間内に居住しており、その圧力からいわゆる《ノヴァ効果》(=さまざまな信仰のあり方の爆発)が発出してきます。テーラーのこの分析は、ーー世俗化された文脈においてでさえも尚ーー、新無神論者たちのストーリーライン(⇒‟合理性の増加と、宗教性の衰退”)よりも、現代人の経験をよく捉えているのではないかと思われます。

 

インタビュアー:新無神論者たちのストーリーライン、、、つまり、テーラーやあなたの言っている、「secularその②*3」ですね。

 

スミス:はい。いわゆる世俗主義者たちの声が近年やけに喧しいのは、まさしく彼らが自分たちが敗北しつつあることを内に感じているからなのです。ですから、アグレッシブな形態の世俗主義が巷に散見されるのも不思議ではありません。

 

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ですが彼らは結局のところ、文化的勝組ではありません。彼らは論争を巻き起こすことにより一次的に知名度を挙げるかもしれませんが、シアトルとかブルックリンなどの街を歩き回ってみると、結局、新無神論者たちのナラティブでは、人々がそういう場所で実際に経験している事柄をうまく説明できていないことに気づくだろうと思います。*4

 

インタビュアー:私たちは何がsecularであるかについて考えています。あなたの本のタイトルは、『どうしたらセキュラーにならないでいることができるか?』という、(Not) を含んだ否定句になっています。どうしてこういうタイトルになさったのですか?

 

スミス:おもしろいタイトルでしょう?いかにして人はセキュラーになるのか、という問いがあるのだとしたら、逆に、いかにして人はセキュラーにならないでいることができるのか、という問いもあるはずです。

 

本書ではまず現在の私たちの時代相貌に関する記述的洞察がなされています。つまり、この世俗の時代に生きるというのはどういう事を意味しているのか、という問いへの取り組みです。しかしテーラーと同様、そこにはまた規範的な洞察も含まれており、この時代を理解し、且つ、その中にあっていかに真実に生きていくべきかということを追及しています。さらに言えば、世俗の時代にあって人が神を信仰するということはどのような形をとっているのだろうと。

 

それは、「ああ、昔のように、皆が自分と同じことを信じていて、地域の人もみなクリスチャンで、、、」という具合に、ノスタルジックに過去のどこかの時点に時計の針を戻すことではないと思います。そういう事はもう起こりませんし、それを再び復元させようとする試みは功を奏さないと思います。

 

むしろ、この時代に人が神を信じるということは、諸信仰の競合可能性(contestability)の存在を認め、また、ある意味、信者であってさえも、ものすごい交差圧力により、時として懐疑心に苦しめられる可能性がある、ということを認めることではないかと思います。

 

例えば、あなたの家の隣に、とても高潔で立派な人が住んでおり、彼・彼女の愛の業は、もしかしたら信仰者であるあなたを凌いでいるかもしれません。でも彼・彼女はあなたのような信仰者ではないのです。そこであなたは否が応でも立ち止まり考えざるを得ないでしょう。「なぜだろう?」と。そして私たちクリスチャンはふと立ち止まり自問する、その事に対し正直である必要があると思います。私たちのこういった正直さは、特に若い世代の人たちのために重要だと思います。もしも私たち大人が正直でなかったら、若い人々は、「親たちは現実を見て見ぬふりをしており、世俗時代の現実に直面することを避けつつ、そこから逃げている」と感じることでしょう。

 

インタビュアー:若い世代といえば、「伝統」への回帰現象が近年顕著です。

 

スミス:ああ、つまり、低教会的なエヴァンジェリカル教会で生育してきた若い子たちが、伝統的なアングリカン教会や、ローマ・カトリック教会、東方正教会の伝統を発見していくという、最近の傾向のことですよね?*5

 

インタビュアー:はい。そうです。

 

スミス:この現象に関しての評価は、もう少し社会学的調査や研究がなされる必要があると思います。ですが、この点に関しても、テーラーは私たちにこういった現象を理解するための洞察を与えてくれていると思うんです。

 

というのも、モダニティーにおいて起こっている事ーーそして、まあ、これはプロテスタンティズムがもたらした負の遺産かもしれませんーーは何かというと、「受肉」の反対であるところの、「脱肉(excarnation)*6」という力学であるとテーラーは言っているのです。

 

「脱肉」においては、宗教的信仰、キリスト教的信仰が、主として一式の知的、命題的信条として取り扱われる傾向が高まっていきます。そして礼拝における具象的、直観的、触知的、共同的、儀式的要素が脱落し、消失していきます。こうして教会は、レクチャー・ホールや教室のような外観をとるようになり*7、霊性というのは主として私たちが(頭で)信じること、という風になっていきます。そこから脱肉的な形態をおびたキリスト教が発生してくるのです。

 

出典

 

興味深いのは、そういった形態のキリスト教がいかに脱幻想的(disenchanted)なものであるかということです。それで、あなたが先程おっしゃった、若者たちの伝統的リトルジー回帰現象に話を戻しますが、彼らは、これまで生育してきた脱幻想的な種類のキリスト教環境の中にあって、「何かが足りない」「深みがない」といった欠乏感を抱くようになります。

 

実際、ポストモダンのこの「時」が、彼ら若者たちをして、プレ・モダン(近代以前)の智慧や伝統に自らをオープンにする良い契機となっているのです。そして彼らは、そういった形態の内に、より全体論的な福音、全体論的なキリスト教を発見していくようになります。これは称賛に値すると思いますし、ポストモダン文脈における忠実な信心の方向性を示す正当な動きだと私は考えています。

 

インタビュアー:「弁証(apologetics)」に関してあなたが書いていたことが印象的でした。テーラーは、「現代の文脈において‟弁証”をするなら、あなたはその時点ですでに敗北を認めていることになる」という旨のことを言っていますね。ケン・ハムなども、ぐるぐる循環を画いているように思われます。それでは、あなたはもう ‟弁証” しないのですか?

 

スミス:まず「弁証」という語は、一義的でなく、多様な意味合いを含んでいるということを理解する必要があるでしょう。テーラーがかなり辛辣に批判している種類の「弁証」は、いわゆる命題的、合理主義的な弁証法であり、これらの弁証は自らが、いかに内在的フレーム(immanent frame*8)の諸条件をすでに受諾しているのかについて無自覚です。

 

それゆえに、それらの弁証ストラテジーによって論証されている神像は、ほとんど理神論的な神といっても過言ではありません。そこには堅固で、キリスト論的特性が欠如しています。その意味で、テーラーは、パスカル的なのかもしれません。

 

ですが、他方、テーラーは、別の種類の「弁証ストラテジー」を用いていると思います。それは、論証的議論によって相手を打ち負かすというやり方ではなく、彼の場合の弁証はどちらかというと、よりナラティブ的と言っていいかもしれません。「これからあなたにオールタナティブなストーリーを提供します。もしよかったら、あなたの経験に理解を与えるものであるのか否か試してみてください。」といった具合の弁証法です*9

 

勿論、最も重要なポイントにおいて、彼は自分自身の信奉するカトリック信条から明白にそれらを述べています。ですがそれと同時に彼は言います。「皆、どこかの信仰信条を議論の出発点としていますし、あらゆる諸理論は、なんらかの信仰・信条コミットメントを基盤に構築されています。それで私はこの提案をテーブルの上に広げることにします。果たしてこの提案がより良い解決を与えているのか否かをご覧になってください。」

 

面白いことに、テーラーは、この点に関し、自分の弁証法がより効果的であるということにかなり自信を持っていると思います。ですから、テーラーのストラテジーは、‟こんな主張をして申し訳ないです”的な、人の顔色をみながらのびくびくした弁証ではないのです。そうではなく、「『打ち負かす』代わりに、『提供』する」型の弁証法であると言ってよいかと思います。

 

ー終わりー

 

*1:訳注:「脱幻想」というのはブログ管理人の訳語です。他の場所では「脱魔術」「脱呪術」などの訳語が当てはめられているようです。

*2:【ノヴァ効果(Nova Effect)】世俗の時代、信仰や意味における多種多様な選択肢("第三の道”)の激増のことを指す。これは私たちの歴史における‟交差圧力(cross-pressures)” の同時共存、および、内在化(immanentization)と超越(の反響)の並列圧力によって作り出されている。

*3:【secularその②】(vs. secularその①、secularその③)Secularを無宗教的と捉える、より‟近代的”な定義。(例えば、‟世俗的(secular)”公共圏など。).

*4:訳注:

*5:訳注:

*6:【脱肉(excarnation)】宗教(特にキリスト教)が、脱具象化(dis-embodied)、脱儀式化(de-ritualized)され、‟信仰体系”と化していくプロセスのことを指す。受肉的、サクラメント的霊性と対照をなす。

*7:訳注:

*8:【内在的フレーム】自分たちの生活を完全に(超自然的ではなく)自然的秩序の内部だけで構成しているところの社会的空間のこと。これは、超越を排除した現代の社会的象(social imagery)という限局的空間である。

*9:訳注: