巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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今こそ聖書的女性像という神話を打ち壊す時?ーーベス・アリソン・バー女史の記事に対する考察

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わら人形(出典

 

ベイラー大学歴史学科准教授であるベス・アリソン・バー女史のお書きになった「今こそ聖書的女性像という神話を打ち壊す時(Time to Bust the Myth of Biblical Womanhood)」という記事を読みました。

 

バー教授は、福音主義(バプテスト派)のクリスチャンの方で、教会における女性の役割に関しては強固なる対等主義(egalitarianism)の立場に立っておられます。*1

 

まず彼女は、レイチェル・ヘルド・エヴァンズ*2が2012年に出版した聖書的女性像批評の著書『A Year of Biblical Womanhood』を紹介しつつ、(ジョン・パイパーやティモシー・ケラーといった)保守的福音主義者たちが論じている聖書的女性像というのが、いかに「文化的に構築された概念 "culturally constructed concept"」であるかということを強調しておられます。

 

そうした上で彼女は、1コリント11章、14章、コロサイ3章、エペソ5章、1テモテ2章等の中で取り扱われている女性の役割に関する使徒パウロの強調は、現代クリスチャンが考えるほど一貫してはいないと述べ、その証拠として、中世後期の英国における口述説教などでは必ずしも常に教会における女性権威・女性リーダーシップを制限しておらず、また女性の恭順を強調していたわけでもないと論じています。さらに自説をバックアップすべく彼女は「エチオピア教会の聖人録」という著述を例にとり、次のように述べています。

 

「『エチオピア教会の聖人録』は女性の恭順に言及しているパウロの聖句に関しては完全に沈黙を保っており、女性権威を制限することに関しても完全に沈黙を保っています。逆にそこに見られるのは、中世エチオピア・キリスト教における女性リーダーシップ行使の明確な支持です。中世エチオピアのこの宗教物語は、〔教会での女性の役割にかかわる〕パウロの禁止聖句や家庭における役割遵守に関し、これらを完全に無視しています。そうです、女性の恭順を強調するのではなく、彼らはその反対に、ーー女性教師、女性説教者、女性洗礼授与者としてーー女性リーダーシップを強調していたのです。」*3

 

ーーーーー

考察

1)ベス・アリソン・バー女史は典型的な藁人形論法(straw man argument)を行ない、筋違いの反論をしています。

 

藁人形論法というのは、反論に都合がいいように論争相手の主張をねじ曲げ、あるいは相手の主張と関係ない論点を持ち出し、そのすり替えられた論点に対して反論を行なうことを指しています。

 

バー女史は冒頭から、同じくプログレッシブ対等主義者であるレイチェル・ヘルド・エヴァンズ女史によってなされている「聖書的女性像というのは文化的に構築されたものである」という主張点を自明のものとした上で、「相補主義者=1950年代以降、現代米国文化によって強調されている‟聖書的女性像”という概念を文化的に構築した人々」という風に前提していますが、その前提自体がまず重大な問題をはらんでいます。

 

というのも、相補主義者の主張は一貫して、自らの論点を(「文化」ではなく)「創造(creation)*4」に置くものだからです。1テモテ2章、エペソ5章、1コリント11章等、パウロが創造を基盤に述べている聖句箇所を、とにかくどうにかして、「文化的なもの」として片づけよう、相対化しようとする態度は、対等主義論述一般にみられる特徴点です。*5

 

彼女は、ジョン・パイパーやティモシー・ケラーの論文などもよく読んでおられるようなので、相補主義者がジェンダー論を「創造」から始めているということは百も承知のはずです。しかしながら彼女は、対等主義的文化解釈を正当化すべく、不当にも相補主義者たちを自らと同じ「文化的議論」の土俵に上がらせた上で、論争構図を、「文化的議論A vs 文化的議論B」という具合に置き換えようとしています。が、勿論それは事実に反しています。

 

2)二、三の歴史資料(の解釈)を基に、対等主義見解を正当化しようとする試みには無理があります。

 

彼女が依拠しているのは ‟中世後期の英国における口述説教” および ‟エチオピア教会の聖人録” ですが、仮に、これらの資料(の解釈)がバー女史以外の多くの学者たちによって後年正当なものと認定されたとしても、それによって、圧倒的大多数の歴史資料が相補主義を裏付けているという従来の事実を覆すことにはなりません。

 

また皮肉なことに、彼女の読みによれば、中世エチオピア・キリスト教はパウロの諸聖句を「完全に無視した」対等主義のメッカであったということですが、それならば、どうして現在に至るまでエチオピア・キリスト教は、堅固なる聖書的女性像を保持している世界有数の国として名をとどろかせているのでしょう?

 

Related image

教会でイースター礼拝を捧げるエチオピア人クリスチャン女性たち、2018年(出典

 

聖書的女性像を「神話化」した上で、それを打ち壊したいという人間の自律および反逆心はエデンの園にまで溯ります。しかし神は侮られるような御方ではありません。神の聖定された創造の秩序にこぶしを突き上げる人間の高慢の手はやがて自らの存在を破壊する自害の手と化していくことでしょう。

 

ー終わりー

*1:【対等主義とは?】男性と女性は、本質的に同等であり、また機能・役割においても同等であるべきと捉えるキリスト教の立場。通常、キリスト教フェミニズム(Christian Feminism)とほぼ同義語的に使われているが、厳密にいえば、対等主義の方が、範疇的により大きいと言える。女性教職を認める。よりプログレッシブな形の対等主義は同性愛も認めている。

【相補主義とは?】男性と女性は、本質的に同等な存在であると同時に、機能・役割において異なり、両者はお互いを補い合うために神によって造られたと捉えるキリスト教の立場。男女は、「存在論的に同等、機能的に異なる存在(ontologically equal, functionally different)」であるとし、家庭内および教会内において、男性のかしら性(headship)また犠牲的愛の内になされる男性リーダーシップ、および女性の恭順を重んじる。牧会職は男性のみという従来のキリスト教会の歴史的立場を保持している。

*2:レイチェル・ヘルド・エヴァンズ女史の主張に対する考察記事

*3:引用元

*4:

*5:以下、実例。