巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

米国聖公会キャサリン・ジェファーツ・ショーリ主教の異端教説について(by ロバート・バロン司教)

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Bishop Barron on The Limits of Tolerance, 2013(拙訳)

 

何年か前に掲載された『ニューヨーカー』誌の風刺作品の中で、ーー今日キリスト教会を席巻しているーーいわゆる「包括性(inclusivity)」という名のイデオロギーの愚かしさが揶揄されていました。

 

さて、ある説教者がこぎれいな教会堂の中で、静聴する会衆を前に説教しています。説教が終わると説教者は言いました。「さて皆さん、現在は機会均等の時代ですから、今日はこれからゲストスピーカーを講壇にお招きしたいと思います。さあ彼の見解にも耳を傾けようではありませんか。」

 

みると、説教者の横にはきっちりと正装し、原稿用の紙をひざの上においたゲストスピーカーが椅子に座り待機していました。そう、他ならぬ悪魔自身が、人間の姿でそこに待機していたのです。

 

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教会人の間における「包括性」へのコミットメントは相当なものであるため、クリスチャンたちは今や悪魔の声にも耳を傾けるようになったーーというのが風刺の主旨です。

 

そして私は、キャサリン・ジェファーツ・ショーリ主教が先月行なった驚くべき説教内容を聞いた時、上述の風刺作品のことを思い出しました。キャサリン・ジェファーツ・ショーリ女史は、米国聖公会の首座主教〔2013年当時〕であり、従ってキリスト教界でかなり影響力を持っている人物です。

 

The Most Rev. Katharine Jefferts Schori

キャサリン・ジェファーツ・ショーリ主教(出典 )

 

彼女は先日、ベネズエラで、「多様性」に関する説教を行ないました。彼女は冒頭でベネズエラの多様性の美しさを讃え、「しかし、現在に至るまで多くの人々は、異種のものに対する包括(inclusivity)をすることができないでいる」と述べています。

 

もちろん、本質的な悪なるものと、異なるものの間の区別に関してなら、彼女の言説には一理あります。非一般的にして尚且つ善いものに対し、私たちはオープンである必要があるでしょう。しかしキャサリン・ジェファーツ・ショーリ首座主教はそこからものすごい方向へ論を進めていきます。

 

ショーリ首座主教は、使徒16章の註解をしています。フィリピに行った使徒パウロは、祈りの場所に行く途中、暗い占いの霊に憑りつかれている女奴隷に出会います(16節)。この女奴隷は、占いの霊により、悪質な主人たちに多くの利益を得させていました。ですからこの若い女性はかなり悲惨な境遇にあったわけです。

 

彼女は悪霊に憑りつかれ、しかも虐待的主人たちにより悪用されていました。彼女はパウロや他の弟子たちの後ろについて来て叫んで廻っていました。幾日も幾日も。そのためついにパウロはたまりかね、その霊に向かって言いました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に霊が彼女から出ていきました(17-19節参)。

 

さて、先月までの2000年余りの解釈史は一貫して、ここの箇所を「使徒パウロによる女奴隷の解放」と捉えてきました。パウロは奴隷状態になっていたこの若い女性を、悪霊の支配下から、そして彼女を虐待・利用する人間たちの操作から解き放ったのです。

 

しかしショーリ首座主教は違います。彼女はこの箇所を、「パウロの根深い非寛容精神の表れ」と解釈し、次のように述べています。

 

「パウロは苛立っていました。おそらく彼女に横入りされたと感じたからかもしれません。それでパウロは、霊的覚醒という彼女の賜物を彼女からはく奪することによって応酬しました。パウロは、自分の目に美しく聖いものと映らないものを甘受することができませんでした。そのため彼はそれを破壊しようとしたのです。」

 

ちょっと待ってください。聖書はそれが ‟美しく聖いもの” であるとは言っていません!それどころか、それは悪魔による仕業なのです。そしてパウロは女奴隷をその霊から解放してあげたのです。

 

しかしながらショーリ首座主教は、パウロのこのストーリーを、‟相違”に対する「家父長的」にして「高慢」な、そして「非寛容」なる態度を表すものとして否定的に解釈しています。キリスト者である一主教がこのような言説をする時、私たちは彼女の信仰のあり方を問わざるを得ません。

 

それだけでなく、その後、彼女の言説はさらに奇怪なものになっていきます。ご存知のように、女奴隷に対する同情心から彼女を占いの霊から解き放ったパウロはその後、女奴隷を悪用していた主人たちの恨みを買うことになります。なぜなら、彼らは金儲けの望みがなくなってしまったからです。激怒した彼らはパウロとシラスを捕え、その結果、パウロたちは監獄に入れられてしまいます(19-24節参)。

 

しかしながらここにおいてもショーリ首座主教はまったく違った解釈を施し、次のように述べています。

 

「それによって彼は監獄に入ることになります。パウロは、彼女もまた神の性質を共有しているということを認めることを拒絶したことにより、いわば自業自得的に自らを監獄行きとなさしめたといっていいでしょう。彼女は、パウロと同程度に、いや、おそらくはパウロ以上に神の性質を共有していたのです!」

 

つまり、ショーリ首座主教は、当時フィリピにいた、一種の ‟リベラル派思想警察” 的役人たちが、‟家父長制的非寛容”という問題行為をしていたパウロを監獄に放り込んでくれたことを喜んでいるわけです。

 

25-34節において、監獄にいたパウロがシラスと共に賛美をし、その後、大地震が起こり、それらの出来事を通し、看守および彼の家の人々が救われる、という箇所においても、主教は「ここにおいてパウロはついに正気を取り戻し、家父長制に基づいた自分の誤思想を破棄し、神のご慈愛(compassion)を再発見した。彼はそれ以前には慈愛・同情という側面を見落としていた」という具合に解釈しています。

 

しかしそれは違います。パウロは決して慈愛・同情を見落としていませんでした。前半のエピソードにおいては、女奴隷に対する同情から、パウロは彼女を占いの霊から解き放ち、後半のエピソートでは、看守に対する同情から彼をキリスト信仰に導きました。つまり、パウロは、「家父長制」という悪徳から、「慈愛・同情」という善へと変遷を遂げたわけではなく、初めから一貫して慈愛・同情心に溢れていたのです。

 

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さて、ショーリ主教の説教から何が言えるのでしょうか。ここには、福音の偉大なる価値である「愛」と、現代もてはやされている「寛容/包括」との大いなる混乱が露見しています。

 

愛というのは、相手の最善を願うことです。そしてパウロは使徒16章を通し、一貫してこの愛に生き、愛を実践していました。

 

しかし現代において、愛は重要視されなくなっています。そして愛に代わり、いわゆる「寛容/包括」が首座に着こうとしています。しかし真の愛は、あなたをして多くの事柄を寛容であらしめなくするでしょう。真の愛により、あなたは時としてある種の事柄を排除せざるを得なくなります。

 

ですから今日私たちが危険視しなければいけないのは、愛と「寛容/包括」の融合です。「それはどれほど危険なのでしょうか?」とお尋ねになりますか。それならショーリ主教のこの説教を一度ご自分でお読みになってください。なぜなら、ここにおいて人はついに、悪魔のことさえ、‟美しく聖いもの”とみるようになっているからです。

 

ー終わりー

 

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