巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「寛容」の諸限界について(by ロバート・バロン司教)

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ケヴィン・ロバートソン主教(写真左)と彼の同性パートナーであるモハン・シャーマ氏(写真右)が、女性主教スーザン・ベル女史(写真中央)の司式によって結婚。2018年12月28日。カナダ、トロントにある聖ヤコブ聖公会聖堂にて。(出典

 

Robert Barron, Additional Commentary from Fr. Barron on the Limits of Tolerance, 2013(抄訳)

 

インタビュアー:この場合*1、「寛容」と「多様性」に対する過度な強調は、聖書解釈におけるより深刻な破綻を表しているのではないでしょうか?

 

バロン司教:キャサリン・ジェファーツ・ショーリ総裁主教の説教は、体験的表現主義を表す極端な一例と言っていいでしょう。彼女たちは、現代世界のさまざまな問いや挑戦を扱うに当たり、聖書の方が私たちに問いかけ、私たちに新しい諸回答を与えるよう自らを従わせる代わりに、自分たちの考えの方を無理やり聖書にこじつけようとするリベラルな立場を採っています。彼女たちは権利に関する事柄に没頭しており、あたかも聖書がそれらの現代問題に言及しているかのような外観を持たせるべく、聖書をねじったりよじったりしながら完全に曲解しています。

 

これは聖書解釈における深刻な問題であり、それは説教の中に顕出してきています。説教者たちは聖書を(私たちの体験にとって)‟今日性を持ったもの” にしようと、「体験」が聖書を歪曲することを自分たちに許しています。

 

インタビュアー:「愛は、寛容と同一ではない」とおっしゃいましたね。具体例を挙げてくださいますか。

 

バロン司教:いわゆる「愛のむち(tough love)」と言われているものを考えてみてください。ある人が非常に破壊的な言動に走っています。あなたは彼・彼女の言動を容認(tolerate)しないだけでなく、ある意味において、あなたはその人を ‟排除” しています。そして「その状態のままで今あなたがここにいることはできません。」としっかりNOと言わなければならない局面さえあるかもしれません。

 

それは愛から生じるNOの行為であり、あなたは相手の最善を願っているゆえにそうせざるを得ないのです。愛は妥協なく厳しいものだと思います。それはドストエフスキーが言っているように、ごつごつして恐ろしいものです。センチメンタルなものではありません。

 

しかし不穏なことに、今日のいわゆる「寛容語/包括語」は、一層センチメンタルなものになりつつあります。その中にあって「他者」は常に善いものとみなされていますが、それは間違っています。「他者」のいくつかは危険で脅威的なものであり、それらに対しては私たちは断固として拒否しなければなりません。ですから、愛を「寛容」や「包括」に明け渡していく時、そこから妥協が生じてくることでしょう。

 

インタビュアー:キャサリン・ジェファーツ・ショーリ主教の諸主張は常軌を逸しているように思われます。こういう荒唐無稽な言説に対しわざわざ評論を加えるということ自体、無価値であるように思えるのですがどうでしょうか。

 

バロン司教:ある人々は、「なぜこんなクレージーな諸主張にわざわざコメントするのか?」と私に言ってきます。ええ、もしもこの種の馬鹿げた言説が、一地方の神父/牧師によってなされた説教の類であったのなら、わざわざ言及するに及ばないかもしれません。

 

しかしこれは、米国の主流諸教会の一つである米国聖公会の総裁主教によってなされた説教なのです。だからこそ私はこういった現象に全てのクリスチャンは警戒心を覚えてしかるべきだと思います。それゆえ、確かにこれらの説教内容がナンセンスであるというのはそうなのですが、それでも尚、私たちは声を上げ、人々に注意喚起を行なう必要があると思います。

 

ー終わりー

 

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*1:米国聖公会総裁主教キャサリン・ジェファーツ・ショーリ女史(在任2006-2015年)が南米ベネズエラで行なった説教内容。

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