巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「教会合同」という語のニュアンスについて

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皆さんはこの写真からどのようなメッセージを受け取っていますか?(出典

 

ある忠実なプロテスタント教徒の方が、以下のような懸念を表明しておられました。

 

「N・T・ライトは、教会合同つまりエキュメニカル運動の回し者である。ローマ・カトリックとプロテスタントの垣根を取り去るために、義認の教理を捻じ曲げている。

どのように捻じ曲げたかというと、義認を、イエス・キリストの救いを個人的に受け入れることとして見るのではなく、教会や契約に加入するかどうかの問題に貶めることによってである。つまり、こういうことである。 正統派の聖書的キリスト教では、義認とは『律法を守り、贖いを成し遂げられたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ』達成される*1。ライトは、外面的制度的儀式による救いを導入することによって、同じ教理を持つローマ・カトリックとの合同が可能であるという。...私は、サタンは、ライトを通じて、プロテスタントの信仰を破壊し、ローマ・カトリックとの教会合同に道を開いたと考える。」(引用元

 

とても考えさせられる内容です。確かにN・T・ライト師(聖公会司教*2.)の著述を通し、古典的プロテスタンティズムの信仰義認論に揺さぶりがかけられているというのは動かすことのできない事実ではないかと思います。

 

ただ「ローマ・カトリックとの教会合同」という表現には語弊があるのではないかと思います。なぜなら、ローマ・カトリック教会の公式見解においては、(改革派教会、バプテスト教会等といった)各種プロテスタント諸教会は、「教会」ではなく、「キリスト教共同体(ecclesial communities)」であると明記されてあるからです。(教皇庁教理省、2007年)

 

「カトリックの教えによれば、これらの共同体は叙階の秘跡による使徒的継承をもたず、それゆえ教会を教会たらしめる本質的な要素を欠いています。特に司祭職の秘跡を欠くことにより、聖体の秘義の本来の完全な本体を保持していない*3これらの教会共同体を、カトリックの教えによれば、固有の意味で『教会』と呼ぶことはできません。*4*5 

 

ですからカトリックとプロテスタントの関係に絞って言いますと、それは(カトリックの見地からみて)「教会」と「非教会」の関係であるゆえに、「教会合同」という言葉はこの文脈においては使用不可なのではないかと思います。

 

なぜなら「教会」+「合同」という二語のコンビネーションが前提しているのは、二つ以上の「教会」の合一であるからです。しかし「合同」に賛同しようが反対しようが、プロテスタント共同体が「教会ではない」と宣言されている以上、カトリック教会とプロテスタントのかかわりは、究極的に言って「離別」か、「改宗」か、その二択なのではないかと思います。

 

また、ーーカトリック界の人であれ、プロテスタント界の人であれーー、人が「エキュメニズム」という言葉を使う時、その人の中で、その語がどのような意味合いを持って使われているのかを確かめることが大切ではないかと思わされます。*6

 

私は昨年、教理省の文書を通し、初めて、プロテスタント諸教会が「教会」ではなく「キリスト教共同体」であるというカトリック公式見解を知るに至りました。そしてなぜ「エキュメニズム」を推進している友好的なカトリック教徒たちは、その肝心かなめな点を私たちプロテスタント教徒にはっきり知らせてくれなかったのだろうと愕然としました。

 

真理は痛く、失礼で、容赦ありません。しかし実際、むき出しのストレートな真理だけが人を自由にするということを私はこれまで何度も経験してきました。ですから、真のエキュメニズムには、「帰正のための論駁」という要素がどうしても不可欠であり、それこそが、真理を愛するプロテスタント兄弟姉妹に対する偽りなき隣人愛の一つであり、この点において(論駁を通し)私のプロテスタント要塞をこなごなに粉砕したカトリックおよび正教会の信者の方々に私は大いに感謝しています。

 

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*1:ブログ管理人注:

*2:ブログ管理人注:聖公会の「分枝論 Branch theory」をベースにした教会論について

*3:第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』22・3参照。

*4:教皇庁教理省宣言『主イエス』17・2(Dominus Iesus: AAS 92 [2000-II] 758)参照。

*5:教皇庁教理省「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答」(2007年)出典

*6:こういった民主主義的パラダイムを土台にした〔虚偽の〕エキュメニズムについて、次のように述べることができます。

「分裂している分派間の最低ラインでの共通分母を探すことによって一致を見い出そうとする種類のエキュメニズムは、最初から失敗に終わる運命にあります。それはダニエル2章にあるように、鉄と粘土でできた足の指による脆弱な一致の如くあります。こういったものが目指している平和とは、この世的平和です。」引用元

「質料ではなく形式によって定義されたものとしての教会観念は、その不可避的含意として個人主義およびアンチ・ヒエラルキー的対等主義(anti-hierarchical egalitarianism)を有しています。そして個人主義および対等主義に適合する唯一の政治形態は民主主義です。「もしも教皇が x や y や z を施行するなら、私はカトリック教会に帰還する」というような言明は、本質的にアンチ・カトリック的です。なぜなら、それらは本質的に‟形式”によって特定できるものとしての教会観を持つパラダイムに根付いた民主主義的及び対等主義的な神学諸前提を伴っているからです。

そして同様のことが「真のエキュメニズムというのは、皆が妥協しなければならないということである」といった言明にも当てはまります。教会に関する民主主義的概念は、個人的自律です。ここにおいて統治権威は被統治者から引き出されているために、それは被統治者によって(もしくは究極的に被統治者の要望に従属する形によって)取り除かれ得ます。

しかし教皇が全てのクリスチャンの特定の諸要望や諸立場に自らを適合させなければならず、合意点や共通のコンセンサスにより、一致を達成しなければならないと想像してみてください。そうなると、教理は一つだに残存しなくなり、一致というものも残存しなくなります。そして一致が不在のところには、存在もありません。つまり、教会はもはや存在しなくなるということです。」引用元

「もしも教皇が x や y や z を施行するなら、その際には私はカトリック教会に帰還する」というような言明のアイロニーは何かと言いますと、そういう風な考え方をしている人は、ーーたとい教皇が x や y やz を施行したとしてもーー、教会権威に関する観念において彼は依然としてプロテスタントであり続けるということです。なぜならそういった人は、「(自分の方ではなく)教会こそが自分に適合すべきである」と考えているからです。

私たちがカトリックになるのは、自分たちが‟こうあるべきだ”と考えているところのものに教会を適合させるためではありません。そうではなく、教会を通しキリストが私たちをーー彼が私たちをご自身の望む形に造り変える御業がなされるべくーー、私たちはカトリックになるのです。

キリストに従うことは御自身の教会に従うことです。同様に、「真のエキュメニズムというのは、みなが妥協しなければならないということである」といった考えには、現行のどの機構も(全てのキリスト者が自らを適合させるべき)キリストがお建てになったものではないという暗黙の前提が伴っています。

そしてこの言明に潜在しているのは、〔話し手である〕自分こそ、何が ‟真のエキュメニズム” であるのかに関する権威的裁定を所有しているという前提です。ですから権威の所在に関する問題は私たちがどうしても避けることのできない問題です。人は権威を見い出し、それに従うか、もしくは、それを不当に自分自身に帰するか、そのどちらかです。

よくバンパー・スティッカーに「平和を望んでいるのなら、正義のために尽力せよ」と書いてあるのを目にします。教会の文脈でいうと、次のようになるかもしれません。「エキュメニカルな一致を望んでいるのなら、真正なるサクラメント的権威を探し求めよ。」引用元