巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

正教、資本主義、そして「西洋」(by ナタニエル・ウッド、フォーダム大学)

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出典

 

Nathaniel Wood, Orthodoxy, Capitalism, and "The West" (抄訳)

 

...しかし、親スラブ主義的(Slavophile)政治哲学のような事例を引き合いに、「それは、『西の資本主義』と『東の正教の間の ‟架橋できない断絶” の証拠である」と捉えることは間違っているでしょう。

 

なんといっても、正教のアンチ西洋主義はしばし驚くほど西洋的です。例えば、親スラブ主義的コミュニタリアニズムおよびーー合法的(legal-rational)社会秩序に対するところの‟有機的”社会秩序に対する彼らの優先傾向ーーは、西洋ロマン主義*1にその恩義があるのであって、到底正教に特有なものではありません。

 

さらに、資本主義の興隆を促進させたものとしてレオニード・ベルシドスキーが特定しているところのいわゆる「西洋宗教伝統」というのは、実際のところ(マックス・ウェーバーの論述にある如く*2.)近代カルヴァン主義のある一形態であって、西洋キリスト教全般ではありません。

 

西洋キリスト者たちは彼ら自身、資本主義批判の長い歴史を持っており、それゆえ、仮に、正教と支配的資本主義体制の間になにがしかの真正なる軋轢があるのだとしたら、同じ事がローマ・カトリック神学に関しても言えるでしょう。(教皇フランシスコもまた、全ての前任者たちと同様、その事を説明しています。)

 

資本主義支持神学を標準的なものとみなすのではなく、私たちは「『資本主義』と『正教』の間の緊張の内の少なくともいくつかは、実際のところ、『資本主義』と『キリスト教』の間の緊張なのではないだろうか」と問うてみる必要があるでしょう。ーーたとい(キリスト者を含めた)西洋圏の多くの人々がもはやそのことを自覚しておらず、また、そういった緊張が究極的には両者間の実りある対話の可能性を排除しないとしても。

 

ベルシドスキーの論述は、「西洋キリスト教」と資本主義支持神学を融合させるリスクを負っているだけでなく、正教内に存在する多様性をも無視しています。正教世界は一様(homogeneous)ではなく、ロシア神学伝統それ自体、彼の論述の主張内容よりもずっと多様性に富んでいます。

 

「ソビエト共産主義」と「ロシア正教アンチ資本主義のある種の流派」の間にいかなる共鳴関係があるにしたところで、ロシア革命の前後期に、反マルクス主義的な正教政治神学が噴出していたことを私たちは思い出すべきでしょう。

 

セルゲイ・ブルガーコフやニコライ・ベルジャーエフといった正教知識人たちは、ロシア・マルクシズムに対する辛辣なる批判*3および、正教のコミュニタリアン社会諸原則に対する忠誠ーー、その両方で名をはせています。

 

彼らは単なる反動主義者であったのでは到底なく、それどころか、正教神学を現代西洋経済および政治思想との対話の場へ導き入れたのです。*4

 

ベルシドスキーが描写したがっている、西洋資本主義への服従という像とは異なり、ブルガーコフやベルジャーエフといった思想家たちは、西洋思想との間の、正教神学的かかわりの可能性および必要性を指し示しています。そして正教側のそういった取り組みは、①正教は現代西洋経済学のあらゆる側面にすべて反対する必要はなく、それと同時に、②キリスト教は資本主義の召使である必要もない、ということを私たちに思い起こさせる手がかりを与えるでしょう。

 

しかしながら真の問題は、ベルシドスキーの言述内容の「不正確さ」にあるのではなく、その「危険性」にあります。実際、東方キリスト教世界でコミュニズムが崩壊して以来、ウラジーミル・プーチン等の強力な政治家たちが、ーー西洋社会に関する正教批判を含めたーー正教神学を悪用しています。ーー自らの政治的利権獲得のため、‟解決困難な東西間の文明的衝突”というナラティブ*5を強化しつつ。

 

ー終わりー

 

*1:訳注:「時代の教理」ファシスト的伝統(by G・エドワード・ヴェイス)*ロマン主義、*ロマン主義的唯物論

*2:訳注:

*3:訳注:

*4:訳注: 

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左が Pavel Florenskyそして右側がSergei Bulgakov.

以下、セルゲイ・ブルガーコフの言説:

 「ある特定の時代に対する教義(dogmas)の制限は、教義の存在自体に対する軽減となるでしょう。なぜなら、それは人間の諸制限を神の豊満性に適用しようとしているからです。教義というのは、所与の性質の中において静的であるだけでなく、その役割、その発展において動的でもあります。そしてこの動的性質は、歴史の中におけるドグマの開示の中に表現されており、教義学(dogmatic theology)の中における私たちの理解および詳説の中においても表現されています。それらは教会の活きた経験の中で授与されるものであると同時に、教義的思想そして教義的創造の中で実現され結晶化されるのであり、それらの外側には教義学なるものは存在しません。 

こういった文脈の外側では、それらは枯渇した死せる目録と化してしまいます。今日、教義学の創造的使命はしばし、告白主義という形をとった見せ掛けの弁証的働きによって置き換えられています。ーー見せ掛けの弁証的働き、つまり、〈非正教ドグマ〉と対照あるいは対立させたうえでの、〈正教ドグマ〉の擁護および詳説です。

しかし、神学はそれ自身を教会教理の持つ積極的にして活動的開示に向けて発信しなければならず、それは教会生活の中に内包されていなければなりません。換言すると、それは神秘的、リトルジカル的、そして極めて歴史的なものとならなければならないということです。この教えは、新しい教義的諸問題の前にひるんではならず、逆に、非常なる注視および創造的大胆さの持つ全き力をもって力強く言及されなければなりません。」“Dogma and Dogmatic Theology,” in Tradition Alive, p. 76(引用元).

*5:訳注:筆者は、‟解決困難な東西間の文明的衝突”言説を、論文の前半部分で、‟時代遅れの「文明の衝突」ナラティブ”と言及しています。『文明の衝突』というのは、米国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンが1996年に著した国際政治学の著作(『The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order』)で主張されている内容を指しています。