巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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女性司祭?(by ジミー・エイキン)【教父学及び公会議研究】

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目次

 

Jimmy Akin, The Fathers Know Best, Your Essential Guide to the Teachings of the Early Church, 2010, Part Two, IX. Sacraments and Worship, 46. Women Priests?(抄訳)

 

女性司祭問題に対する教会(Church)の回答

 

女性は司祭に叙階され得るのでしょうか。この問いは現代世界においてホットな議論を醸し出していますが、教会(Church)はこれまで常に「否」と答えてきました。そしてこの回答の基盤は、新約聖書および教父たちの著述の中にあります。

 

1世紀、女性たちは教会の中で公的に祈ったり預言したりすることができました(1コリ11:1-16)*1。しかし、聖職者になることはできませんでした。そしてこれは単なる当時の文化的条件付けではありませんでした。*2

 

というのも当時、ローマ世界全域において〔異教の〕女性司祭というものは存在していたのであり、仮にイエスの御意図が、教会が女性に叙階を授与することであったのなら、主は女性たちを叙階されていたはずだからです。イエスは外部の文化的諸期待によって拘束されない御方であることを自らお示しになりました。ーー実際、主は当時の数多くの思想や諸制度に挑戦し、それらをひっくり返されたのであり、時にそれらは人々を驚愕させました。*3

 

それゆえ、女性を叙階しないーー汚れなきご自身の聖母に対してさえも彼女を叙階しないーーというキリストの御選択を、教会は決定的なもの、最終的なものとして受け取ってきました。

 

教父たちの文書から示されるのは、教父時代、教会の中において女性たちが積極的役割を担っていたということです。そして、処女、やもめ、女執事に対する指示が出ている箇所において、彼女たちが叙階されていなかったということが明示されています。

 

1994年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、教会が女性を司祭に叙階する権能を持っていないことを宣言し、次のように述べました。

 

 「司祭叙階は男性だけに限られるという教えは、教会の恒常的かつ普遍的伝統によって保持され、より最近の諸文書の中における教導権によっても堅固に教説されている。にも拘らず、ある一角において、‟この問題に関しては未だに議論の余地が残されている”、あるいは、‟女性を叙階してはならないという教会の裁定は単に戒規的効力しか持っていない”と捉える人々がいる*4

 それゆえ、この非常に重大なる事項ーー実に教会の神的憲章それ自体に付随する事項ーーに関するあらゆる疑念を一掃すべく、そして兄弟たちを強めるという自らの職務(ルカ22:32参)ゆえに、私はここに宣言する。ーー教会は女性を司祭に叙階する権能をまったく持っていない。そしてこの断言は教会の全信者によって最終的なものとして受け入れられなければならない。」*5*6

 

さらに翌年、教理省は、この教えが「最終的なものとしての同意を要求している。なぜなら、それは書かれた神の御言葉の上に築かれ、また、最初期から、教会の聖伝の中で恒常的に保持され適用されてきたからであり、それは、通常・普遍的教導権によって不可謬的に表明されている」と述べています。*7

 

以下に挙げる教父文書からの引用文は、聖伝の一部を成すものであり、その上に不可謬的教説は置かれています。女性の役割は、教父たちの時代と現在では、社会の中においても教会の中においても相違があります。ですが以下の引用文が明示しているのは、女性たちが叙階された聖職者の役割を担うべきという考えを教父たちが拒絶していたということです。

 

教父および公会議文書の証言

 

リヨンの聖エイレナイオス(紀元189年)

 

 「〔異端者であるマルクスは〕女性たちに混合された杯を手渡しつつ、彼女たちに、彼の目前で、それらの杯を聖別するよう命じている。そしてそれが為されると次に彼は、たぶらかされ欺かれた先程の女性たちが聖別したあの杯よりもずっと大きいサイズの杯を用意し、女性たちによって聖別された小さい方の杯を、彼自身によって用意された大き目のサイズの杯に注ぎ込むのだ。

 そしてマルクスは次のような言葉を宣言する。『万物創始以前に存在し、あらゆる知識および言説を超越しているこのカリスが、あなたがたの内なる人を満たし、良い地と同様、あなたがたの内に蒔かれたからし種の殻粒をまくことによりカリス自身の知識としてあなたがたの内で増し加わるように。』

 その後、他にも類似の言明をいくつか繰り返し、そうして不幸な女性たちを狂気に駆り立てつつ、マルクスは、自らをミラクル・ワーカー(奇跡を行なう者)として顕示する。ーー大きいサイズの杯が小さい杯の注入によって満杯になり、こぼれるほどになったということを見せつつ。こうして彼は多くの人々を完全に騙し、彼らを自らの熱狂的追従者へと仕向けていくのである。」*8

 

カルタゴのテルトゥリアヌス(紀元200年)

 

 「彼らにとっては、共謀し、唯一の真理という要塞を襲撃することができさえするなら、各主題に関し互いの間でいかなる不一致があってもそれらは問題にならない。彼らは思い上がっており、皆、あなたに知識を提供してくることだろう。彼らの洗礼志願者たちは完全なる教えを受ける前から完璧な者だとみなされている。こういった異端グループの中の女性たちはなんと不貞なことであろう!というのも、彼女たちは大胆不敵にも、人々に教え、異議を唱え、エクソシズムや治癒を執行しているのである。」*9

 

 「〔ある女性異端者が〕最も有毒なる教理でもって莫大な数の人々を惑わし、彼女は意図的にバプテスマを破壊しようとしている。これは自然のあり方そのものにも順応している。しかり、毒蛇やコブラは通常、乾燥し、水無き、不毛の地に住んでいるではないか。 

 しかるに私たちは、〔偉大なる〕魚であるイエス・キリストの模範に倣う小さき魚として、水の中で生まれる。実際、恒久的に水の中に宿り続けること以外に私たちにとっての安全性はどこにもないのだ。見よ、(健全な教理を教える資格さえない)怪物のごとき残忍なるあの生き物たちは、小さき魚たちをいかにして殺すことができるのか十分すぎる位、熟知しているのである。そう、彼ら小魚たちを水から引き離すことによってである!」*10

 

「女性たちが教会の中で話すことは許されておらず〔1コリ14:34-35〕、いかなる男性の職務であれ、それらの職に自分も就くことができると主張することは彼女たちに許されていない。聖職者職に関しては無論、言うまでもない。」*11

 

ローマの聖ヒュッポリトゥス(紀元215年)

 

 「やもめ(寡婦)が任命される時、彼女は叙階されたのではなく、名指しで選定されたのである。彼女がかなり昔に夫を亡くしているのなら、彼女を任命しなさい。しかし最近、未亡人になったのなら、まだ彼女を信頼してはならない。そして仮にその女性が高齢者であったとしても、それでも、しばらくの間、時を置いて彼女を吟味しなさい。なぜなら、年を取っても尚、さまざまな情欲にとらわれたままになっている人もいるからである。

 やもめは言葉によってのみ任命され、その後、登録されている他のやもめたちの中に加入させなさい。しかし彼女が叙階されるようなことがあってはならない。なぜなら、彼女は奉献を捧げているわけではなく、典礼的務めを為しているわけでもないからである。叙階というのは、典礼的務めゆえに聖職者のために存在しているのである。他方、やもめは祈りのために任命されており、それが彼女たち皆の役割である。」*12

 

ディダスカリア(紀元225年)

 

 「それゆえ、女性たちが教師になることーーとりわけキリストの御名および主の御受難の贖いに関することを説くことーーは正しい事ではなく、また不可欠なことでもない。なぜなら、おお女性たちよ、わけてもやもめたちよ、あなたがたは教職に任命されているわけではないからである。そうではなく、あなたがたは主なる神に祈り、執りなすべきなのだ。

 主なる神、私たちの教師であるイエス・キリストは民や異邦人たちに教えを説くべく私たちに十二使徒を遣わされた。そして私たちの間には、女性の弟子たち、マグダラのマリア、ヤコブの娘マリア、それからもう一人のマリアがいた。しかし主は、教えを説くべく彼女たちを派遣されたわけではなかったのである。」*13

 

カエサリアのフィルミリアン(紀元255年)

 

 「私たちの間で、突如、ある女性が立ち上がり、恍惚状態の中で自らを『女預言者』と宣言し、さながら自分が聖霊に満たされているかのように振る舞っていた。...悪魔の欺きと幻想により、この女性は以前にもさまざまな方法で信者たちを惑わしていた。

 彼女が多くの人々を惑わしていた数ある手段の一つは、通常の祈願により、パンを聖別しユーカリストを執行できているという具合に、大胆不敵にもそれが本物であるかのように見せかけていたことである。

 彼女は一般的典礼に符合している典礼的行為の中で主に犠牲を奉献し、多くの人々にバプテスマを授けていたのだが、そうする間にも、バプテスマに関する慣習的、合法的語法を乱用していた。そして彼女は、それらが教会の規範から少しも逸脱していないかのような仕草でそれら一切の事を実行していたのである。」*14

 

第一回ニカイア公会議(紀元325年)

 

「女性執事に関してであるが、登録されている全ての人々に関してと同様、彼女たちに関しても同一の手続きが踏まれなければならない。こういった立場に登録された女性執事についてはすでに言及してきたが、彼女たちは無論、叙階されてはおらず、信徒の一人に数えられなければならない。」*15*16

 

ラオディキア公会議(紀元362年)

 

「いわゆる"presbyterresses"ないしは"presidentesses"と呼ばれている女性たちは、教会の中で叙階されてはならない。」*17*18

 

聖ヨハネス・クリュソストモス(紀元388年)

 

「人が教会を監督する責務を申し付かり、数多くの魂のケアを信託された際、そういった厖大なる聖務を前に、女性たちは皆、身を引き(retire)、男性たちの大部分もまたそうしなければならない。そして私たちは、霊において他の人々よりひと際優れ、飛翔している人々を前面に出すべきである。ちょうどサウルが身丈においてヘブルの民の誰よりも肩から上だけ高かったように。」*19

 

使徒憲章(紀元400年)

 

 「男は女のかしらである。〔1コリ11:3〕。そして男は元来、司祭制のために叙階されている。しかしそれは、創造の秩序を廃止し、はじめの部分を体の終わりの部分に来させるためではない。なぜなら、女は、男の脇から取られた男の〔に属する;of〕体であり、彼女は子供の生殖のため男から別たれた。主は『彼はあなたを支配することになる。〔創3:16〕』と仰せられた。というのも、女のはじめの部分ーーつまり、彼女の頭ーーは男であるからである。*20 

 前述の憲章文の中でも述べたように、私たちは女たちが教えることを許していない。それならば一体、自然に反し、彼女たちに祭司職を執行するよう許可するような人があるだろうか。そんな事はあり得ない。なぜならそれ〔=女に祭司職を執行させること〕は、神を信じない異邦人たちによって為されている無知蒙昧な慣習の一つだからである。彼ら異邦人は、女神たちに仕えるべく女性司祭を叙階しているが、それはキリストの憲章とは縁もゆかりもないものである。」*21

 

 「おお司教よ、女性たちに対する奉仕のために、忠実にして聖い女執事を任命しなさい。なぜなら、〔その家にいる〕未信者たちゆえに、女性たちの家庭に男執事を遣わすことが可能でない状況が時折発生するからである。その際には、狭量な人々の考えゆえに〔<彼らにつまずきを与えないために〕女執事を派遣しなさい。女執事はまた、その他多くの状況において有益である。まず、女性たちへのバプテスマの際、男執事は聖油で彼女たちの額にだけ触れ、その後は、女執事自身が彼女たちに塗油する。」*22

 

 「処女は叙階されない。なぜなら私たちは主からそのような命令を受けていないからである〔1コリ7:25〕。それ〔=処女であること〕は結婚に対する侮蔑ゆえではなく自発的試みの状態であり、敬虔のためである。」*23

 

 「やもめは叙階されない。しかしながら、もしも彼女がかなり前に夫を亡くし、その後、ーーユデトやアンナのように誉れ高い女性たちのごとくーー貞節に、落ち度なく生き、自分の家族に対する厚いケアをしているのなら、彼女をやもめたちの地位に選定しなさい。」*24

 

 「女執事は祝福の祈りはせず、また、presbyters(司祭、長老)や男執事たちによって為されることも執行しない。彼女は戸を見守り、行為における適切性ゆえに、presbytersが女性たちにバプテスマを施す際、彼らpresbytersを大いに介助しているのである。」*25

 

ー終わりー

 

関連記事

*1:訳注:関連記事

*2:訳注:関連記事

*3:訳注:関連記事

*4:訳注:

カトリック教会および正教会内のプログレッシブな動き。LGBTアジェンダ推進派のイエズス会ジェームス・マーティン氏(中央)とフォーダム大正教研究所のヨルゴス・デマコプーロス氏(左)他。

*5:Ordinatio Sacerdotalis 4

*6:訳注:【補足資料】司祭叙階は男性だけに限られる。教理省長官の宣言。引用元)『オッセルバトーレ・ロマノ』誌の論壇。(Zenit – 4 – VI – 2018)「Ordinatio Sacerdotalis の教えの決定的性格」というのが2018年5月30日の『オッセルバトーレ・ロマノ』誌のイタリア語版に載った、教理省の長官ルイス・ラダリア・フェレール大司教による論壇のタイトルである。(注、Ordinatio Sacerdotalis はヨハネ・パウロ2世による使徒的書簡。1994 年 5月 22 日)。


ラダリア長官は「教会は女性を司祭に叙階する権能を持っていない。これは主イエスの決定であって、女性の男性に対する従属は一切ない」と述べて、この問題に関する疑義を一掃した。

この論壇において、長官は「司祭は・・・祭司キリストにかたどられ、こうして頭であるキリストと一体となって行動できるようになる」(第二バチカン公会議、『司祭の役務と生活に関する教令』2)ことを思い出させる。「キリストは12使徒にこの秘蹟を授与することを望まれたが、彼らは全員男性であって、使徒たちも男性にこの秘蹟を授けた。教会は、役務的司祭職は女性には有効に授与されないという、このイエスの決定に縛られていると常に認めてきた」と言う。そして、ヨハネ・パウロ2世による使徒的書簡(1994 年 5 月 22 日)Ordinatio Sacerdotalis の一文を引用する。

「この非常に重要な問題に関して一点の疑いもないように、教会は女性を司祭に叙階する権能をまったく持っていない。この断言は教会の全信者によって最終的なものとして受け入れられねばならない。・・・(これは)信仰の遺産に属する真理である」(Ordinatio Sacerdotalis、4)。

この6月28日に教皇フランシスコから枢機卿の位に上げられる予定のラダリア長官は、女性叙階の問題に関しては解決済みであるということを認めない声が、未だにいくらかの国で上がっていることについて「深く憂慮」していることを明らかにした。「(ヨハネ・パウロ2世の宣言は)エクス・カテドラ(教皇座宣言)ではないから、将来の教皇や委員会の新たな決定によって変更できる、というような疑いをまき散らすことによって、信者の間に、叙階の秘蹟だけでなく、教会が神によって建てられたという教義に関しても深刻な混乱を引き起こし、さらに通常の教導職が不可謬の仕方でカトリックの教義を教えることができるという教えについても憂慮すべき混乱をまき散らしている。」
それゆえ長官は「教会は、女性を叙階することの不可能性がキリストによって制定された秘蹟の本質部分に属すると認めている。それは、単なるやり方の問題ではなく、秘蹟の構造に関することについての教義的側面の問題である。・・・教会は、キリストへの従順によって、この伝統は変更できないと自覚しつつ、同時にこの教えの意味を掘り下げて理解を深めようと努力している。なぜなら、ロゴス(言葉)であるイエス・キリストが望まれたことには深い意味があるからである。司祭は実際、教会の花婿であるキリストの代理者として働くが、司祭は男性であるという事実は、秘蹟の中でキリストの代理となるために不可欠の要素である。」
ラダリア大司教は次の点を強調する。「男女の役割における差異は、従属関係ではなく、相互の補完を意味する」と。そして、「教会の中での女性独自の役割について理解を深め、それを促進するよう」招く。それは、「男女の違いの意味と価値を理解しようと努める現代の文化に光を投げかける」ためである。
教導職の連続性
ラダリア大司教は「Ordinatio Sacerdotalis が最終的決定を下したということについての疑いは教会の教導職の理解の仕方に深刻な害を与える」と考える。「不可謬性は、公会議の荘厳な宣言や教皇の教皇座宣言のときだけではなく、全世界に散らばっている司教たちの通常で不変的な教え、つまり司教たちが、相互に、また教皇との交わりのきずなを保持しつつ、カトリックの教えを決定的なものとして認めるべきであると提示するときも成立することを繰り返し教えることは重要である」。
Ordinatio Sacerdotalis においてヨハネ・パウロ2世は、「新しい教義を宣言したのではなく、ペトロの後継者として与えられた権威をもって、通常の普遍的教導職が教会の歴史を通じて信仰の遺産に属するものとして教えてきたことについて一点の疑いも残すことのないように、それを固め、明らかにした。」のである。

ヨハネ・パウロ2世は、問題をまず全世界の司教協議会の議長司教と一緒にローマで顧問会にかけて検討させたが、議長らは全員一致で教会が女性に司祭叙階を与える権能を持っていないことを確信をもって宣言した。

長官はヨハネ・パウロ2世の後継者たちも同じ教えを継承したと強調する。「ベネディクト16世はこの教えを強調し、2012年4月5日の聖香油のミサの中で、ヨハネ・パウロ2世が『取り消し不能の形で、教会が女性の叙階に関しては「主から許可を一切受けていない」と宣言したことを思い出させた』ことに言及する。
さらに教皇フランシスコは、『福音の喜び』で「聖体の中で自己を奉献される、花婿であるキリストの印として、司祭職が男性に限られることについては議論の余地はない、と再度確認し、この教えを権力ではなく、奉仕の見地から理解するように招かれた。
2016年11月1日、スウェーデン訪問の帰途での記者会見で、教皇フランシスコは「カトリック教会での女性の叙階については、最も最近の明白な宣言は聖ヨハネ・パウロ2世によってなされ、それは今も有効です」と念を押された。

*7:Responsum ad dubium of October 25, 1995

*8:Against Heresies 1:13:2 (c.A.D.189).

*9:Prescription Against Heretics 41 (c.A.D.200).

*10:Baptism 1 (c.A.D.203).

*11:Veiling of Virgins 9 (c. A.D.209).

*12:Apostolic Tradition 11 (c.A.D.215).

*13:Didascalia 3:6:1-2 (c.A.D.225).

*14:quoted in Cyprian's Letters 74:10 (c.A.D.255).訳注:キプリアヌス書簡集74(英語全文).

*15:Canon 19 (Ad.325).

*16:訳注:条文のギリシャ語原文:" Ὡσαύτως δὲ καὶ περὶ τῶν διακονισσῶν, καὶ ὅλως περὶ τῶν ἐν τῷ κλήρῳ ἐξεταζομένων, ὁ αὐτὸς τύπος παραφυλαχθήσεται. Ἐμνήσθημεν δὲ τῶν διακονισσῶν τῶν ἐν τῷ σχήματι ἐξετασθεισῶν, ἐπεὶ μηδὲ χειροθεσίαν τινὰ ἔχουσιν, ὥστε ἐξάπαντος ἐν τοῖς λαϊκοῖς αὐτὰς ἐξετάζεσθαι." Κανόνες τῆς ἐν Νικαίᾳ Ἁγίας καὶ Οἰκουμενικῆς Α' Συνόδου,Κανὼν ΙΘ', 325.μ.Χ.(出典).

*17:Canon 11 (c.A.D.362).

*18:訳注:条文のギリシャ語原文:Περὶ τοῦ μὴ δεῖν τὰς λεγομένας πρεσβύτιδας, ἤτοι προκαθημένας, ἐν τῇ ἐκκλησίᾳ καθίστασθαι.(出典).

*19:Priesthood 2:2 (c.A.D. 388).

*20:訳注:かしら性について

Κεφαλή=「源」説 検証

*21:Apostolic Constitutions 3:1:9 (c.A.D. 400).

*22:同著,3:16:1

*23:同著,8:3:24

*24:同著,8:3:25

*25:同著,8:3:28