巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

荒野の美のただ中で(♪ In the midst of desert beauty)

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私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、そのために。詩篇27:4出典

 

 

原詞:Μες της ερημιάς τα κάλλη(アトス山修道士による作詞)

マケドニア語:Среде пустинската убост

ギリシャ語→マケドニア語翻訳:聖ヨハネ・ビゴルスキー修道院

(日本語拙訳)

 

荒野の美のただ中、

洞窟、丘陵の上で、

花々は無垢に顔をのぞかせ、

鳥たちは朗らかに謳っている。(x2)

 

平安な生命(いのち)の故郷。

野花のように、飾らず、たくましく、

薔薇のように玲瓏。

おお主キリストの隠修者たちよ。(x2)

 

彼らは世の誉れに別れを告げ、

血を分けた家族、朋友たちの元を離れ、やって来た。

神と御使いたちだけを肉親とするために。(x2)

 

昼も夜も、彼らは

唯一の花婿キリストに讃歌を捧げる。

この方こそ、計り知れない恩寵の飾りで彼らを包んでくださる御方。(x2)

 

夜明け前ーー。

曙光が大地を照らし、

鳥の初歌が鳴りわたる前に、

彼らは、高く手を掲げ、祈っている。(x2)

 

この上なき喜びを持ち神への祈りを捧げる彼らの傍らには

御使いたちが立ち、彼らの祈りに仕え、

それらを天の御座へと携えていっている。(x2)

 

労働でがさがさになった手で

祈りのロープ(チョトキ;Чётки)を堅く握りつつ、

彼らは絶えず、聖き賢人たちの助言に思いを巡らせている。(x2)

 

彼らの思いは天的なことがらをひた求め、

地上高く舞い上がっている。

葉のなき木、生命なき人間のごとき

外見をとりつつ。(x2)

 

鐘が鳴り、

朝課の始りをセマントロン(semantron)が知らせるとき、

隠修者たちは動き出す。(x2)

 

祭服、聖人たちの衣。

彼らは私たちに十字架像を手渡す。

ーー私たちもまたゴルゴタに向かうべく。(x2)

 

見よ。祝福された食卓の内に見い出される喜びを。

質素ではありしも、

それは食する皆に明朗さを与えている。(x2)

 

だからこそ諸王の中にも

宮殿、王冠、すべてをうち捨て、

あらゆる人間的誉れと訣別し、

暗い房に隠遁する者たちがいるのだ。(x2)

 

たとい今、愛する兄弟、友、身内に囲まれていたとしても、

死があなたを訪れる時、

誰も助けにはならない。(x2)

 

生涯、私は修道衣で身を包み歩もう。

この世のもの一切に別れを告げつつ。(x2)

 

わが親愛なる友、家族よ、元気で。

もう一瞬たりとも、この世的生活に

私は、耐えることができない。(x2)

 

ー終ー

 

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聖ヨアンネス・クリマクス著「天国への階梯*1*2」(AD600年)のイコン。キリストが待つ天国へのはしごを上っていく修道者たちを悪魔が妨害する。(12世紀、エジプト、聖カテリーナ修道院蔵)

 

「(聖ヨアンネス・クリマクスはわたしたちからとてもかけ離れた人だからです。)けれども、少し近づいて見るなら、次のことが分かります。すなわち、修道生活は、洗礼を受けた者、すなわちキリスト者の生活の偉大な象徴にすぎないということです。修道生活は、いわば、わたしたちが毎日小文字で書いていることを大文字で示します。修道生活は、洗礼を受けて、キリストの死と復活にあずかった者の生とはいかなるものであるかを示す、預言的な象徴です。」(ベネディクト十六世)

 

関連記事

*1:『楽園の梯子』(第27ー30講話を所収)手塚奈々子訳、解説 - 『中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』収録、平凡社、1994年8月初版。The Ladder of Divine Ascent,Translated by Archimandrite Lazarus Moore, Harper & Brothers, 1959

*2:梯子の頂点の、最後の段階は、同時に、信仰と希望と愛という、基本的で、第一の、もっとも単純な美徳だということです。これらの徳は、道徳的な英雄だけが近づけるものではなく、神がすべての洗礼を受けた者に与えるたまものです。これらの徳によってわたしたちの人生も成長します。始まりは終わりでもあります。出発点は到達点でもあります。歩みの全体は、信仰と希望と愛がいっそう徹底的に実現されることを目指します。梯子の全体はこれらの徳のうちにあります。基本となるのは信仰です。信仰の徳は、わたしが自分の傲慢、自分の思いを捨て、自分を他の人にゆだねず自分だけで判断しようとするうぬぼれを捨てることを意味するからです。このような謙遜と、霊的な幼子の状態へと向かう道が必要です。傲慢な態度をやめることも必要です。傲慢な態度はこういわせるからです。「21世紀の現代に生きるわたしのほうが、大昔の人が知ることができたよりもよくものごとを知っている」。その反対に、聖書だけに身をゆだねること、主のことばだけに身をゆだねること、謙遜に、信仰の開く世界に近づくことが必要です。それは、そこから、広大な世界に、神の世界に入れるようになるためです。このようにしてわたしたちの霊魂は成長します。神に対する心の感覚が成長します。ヨアンネス・クリマクスは適切にもいいます。希望だけが、わたしたちに愛を生きることを可能にします。わたしたちは希望によって日々のことがらを超越することができます。わたしたちは地上の日々の中で成功することを望むのではなく、最終的に神ご自身が現れることを待ち望んでいます。このようなしかたで自分の心を広げ、自分を超越することによって、初めてわたしたちは人生を偉大なものとすることができます。日々の労苦と失望を耐え忍ぶことができます。報いを期待せずに、他の人にいつくしみを示せるようになります。神はわたしたちが目指す偉大な希望です。この神がおられるからこそ、わたしは人生を少しずつ進み、そこから、愛を学ぶことができます。祈りの神秘、すなわち、個人的に神を知ることの神秘は、愛のうちに隠されています。単純な祈りだけが、神である師の心に触れることを目指します。こうしてその人の心は開かれ、神である師からそのいつくしみと愛を学びます。ですから、この信仰と希望と愛の「梯子」を用いようではありませんか。そうすれば、まことのいのちに至ることができるでしょう。ベネディクト十六世、引用元