巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

舌による聖体拝領ーー人間疎外の問題に対する神の愛なる御応答と永遠の智慧

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ジャコメッティの作品に登場する人間像。互いに疎外されており、観察者からも疎外されている。(出典

 

 

初めてカトリック教会(東方典礼)で聖体拝領の光景をみた時の驚きと感動を私は生涯忘れることができないと思います。

  

イコノスタシス(内陣と身廊との界壁)の向こうで、叙階され聖別された司教/司祭たちが祭壇の前に立ち、東の方を向き厳粛なる祈りをささげた後、もっとも崇敬に満ちた動作のうちに御聖体が拝領されました。

 

Commissioned to Be Apostles: Love, Worship, Community, Learning, Service

出典

 

その後、ーー司教の聖別された手を介しーー信徒たち一人一人の舌へと御聖体が授与されていきました。列をなし聖体拝領を待つ人々の姿は私に、幼稚園の先生からお菓子をもらおうと、しおらしく自分の順番を待っている子どもたちを髣髴させました。あるいは捕虜収容所でスープの配給を受けるべく列をなしているあわれな囚人たちを髣髴させました。

 

口を開け、司教から食べさせてもらっている人々の姿はまた私に、母から離乳食を食べさせてもらっている無力な赤ん坊の姿と、その赤ん坊がいつしか大きくなり、年をとり、病院のベッドで看護士さんに食べさせてもらっている無力な老人の姿を同時にイメージさせました。

 

人は無力な状態でこの世に生まれてきて、そしてまた無力な状態でこの世を去っていきます。人生における開始点と終着点は共に他者への完全依存によって特徴づけられています。しかしどうしたことでしょう。その中間域を刻々と生きる私たちはあたかも自分の生が自律したものであるかのように錯覚して生きているのではないでしょうか。

 

そして意識的にせよ無意識的にせよ、個人的自律性(personal autonomy)は、他者への依存を拒み(依存の事実を認めたがらず)、その結果、水平的・垂直的その両方の次元において〈疎外〉が生み出されているように思います。

 

思えば私はノン・クリスチャンだった学生時代からずっとこの人間疎外の問題を考えてきたように思います。人と人はどうしたら互に理解し合い、真の意味でつながることができるのだろう。〈わたし〉から〈あなた〉へ、〈あなた〉から〈わたし〉へと到達する橋はどこにあるのだろう。

 

プロテスタントの教会で救われ、その後も引き続き、私は同胞の福音主義クリスチャンたちと共に共同体論、エクレシア論を考え、どのようにしたら人間疎外を乗り越えることができるのかと皆で最善を尽くし、取り組んできたと思います。でもそれは難しかった。

 

なぜなら、プロテスタンティズムそれ自体の中に、(解釈的・教会論的・人間学的)自律性が内蔵されており、それゆえ、私たちの真摯なる努力にもかかわらず、この水流は私たちをハイパー個人主義そして疎外の方向へと否応なく押し流していっている感が拭えませんでした。

 

そんな自分の前に、ーー無力な小鳥たちが親鳥からエサを食べさせてもらっているーー神の国のユーカリスト像が提示されました。年老いた老人、子供、知的障害者、学者、、、皆が等しく小さな鳥となって口を開け、いのちの源泉である御方を拝領しようと前に進み出ていました。

 

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(マルコの福音書10章14-15節)

 

気がつくと私は泣いていました。涙があとからあとから頬を伝って流れていきました。ここにおいてついに、人間疎外の問題に対する究極的回答が示されたことに気づいたからです。

 

歴史的典礼はその細部に至るまで「意味」に溢れています。舌による聖体拝領という礼拝行為はまず、使徒継承をもつ叙階された司教/司祭が、祭服も含め頭のてっぺんから足の先に到るまで「聖別されている」という神的事実を私に教えます。

 

それゆえ、聖の聖であるホスチアが、聖別された司教の手を介し直接私の舌の上に置かれるという典礼の指示はまったく理に適っているように思われました。

 

そうすると、ここにおいて「セルフ・コミュニオン*1」というハイパー個人主義に永遠なる否定判決が下されます。そして神がそう御意図された理由は、ーー権威主義やヒエラルキー制乱用から生じ得る抑圧を助長するためではなくーー、本来、私たちを「個」という監獄から、疎外から、孤独死から恒久的に解放してくださるためである、ということを私は学びました。

 

こうして神の御意図の中で、私やあなたは否が応にも親鳥である司教に依存しなければならなくなります。それゆえ人々は、ーーフェイスブックやその他のSNSによるバーチャル・コミュニティーが発達した今日であってさえもーー教会という場に物理的に足を運ばなければならなくなります。

 

「私とジーザスの関係さえ親密なら家にいて一人で主日礼拝しても構わない」という言い分は幸か不幸かもはや通用しなくなります。こうして引力の法則のように私たちを自律の世界、個人主義の世界へと引っ張っていくこの世の力に対し、神は歴史的典礼という方法をもって立ち向かわれ、私たちを共同社会の方向へとぐいぐい押していかれます。

 

こうして神は、人間疎外の病巣にメスを入れ、いやがる私たちの自我の叫びにも拘らず、愛の御手によって半ば強制的に私たちを癒してくださいます。

 

逆にいえば、人々がこういった歴史的典礼をないがしろにし、進歩に対するモダニズムの信奉から生み出される一種の「編年的傲慢さ(chronological arrogance)*2」によって、古の教会的智慧を排除しつつ無歴史主義に陥っていく時、舌による聖体拝領の持つ深遠なる意味もまた軽視され、その結果、ミサのプロテスタンティゼーションがますます顕著なものになっていくということではないかと思います。この点に関し、アナタシウス・シュナイダー司教が次のように的確に述べておられます。

 

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「習慣的に『手による聖体拝領』を受けている人々ーー特に、跪き、舌により聖体を拝領する礼拝行為を知らずに育った若い世代の人々ーーの大部分がもはやキリストの現存(the Real Presence)における全きカトリック信仰を持てずにいるというのは周知の事実になっています。なぜなら彼らは、聖別されたホスチアを、一般の食べ物を食するのとほぼ同じ外的様式で取り扱っているからです。」

「こういった外的、ミニマリスト的ジェスチャーは、キリストの現存に対する信仰の弱体化もしくは喪失と、因果的相互関係を持っています。」 *3

 

歴史的典礼の中に、神の国のユーカリストが存在し、それは十字架につけられた方の刺し貫かれた心において、重層的な教会の智慧のなかに見い出されるということ、そこから真の共同体論が生み出されていくということを知り、私の心は神への感謝に溢れています。

 

「典礼は、この世の『時』をイエス・キリストの『時』に、イエス・キリストの現前の中につなぎ入れます。典礼は救済の過程の転換点です。羊飼いは迷った羊を肩に載せ、家に連れ戻します。」ベネディクト十六世

 

ー終わりー

*1:①プロテスタント・カリスマ派の教師による「セルフ・コミュニオン」の解説ビデオ

②カトリック教会(ノヴス・オルド)内の「セルフ・コミュニオン」 

*2:

*3:Bishop Athanasius Schneider is defending tradition and analyzing the crisis in the Church.