【その1】【その2】【その3】【その4】【その5】からの続きです。
The Last Judgement, Fra Angelico作(出典)
目次
Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, 2016(抄訳)
永遠のいのち
この証の中で私は「教会のリトルジカル礼拝」という側面に注目してきました。しかしそれは私が天における神との永遠のいのちに関する御約束を見失ってしまったからではありません。事実はその反対です。
カトリックとしての私の霊的生活の志向性および「聖なる地」に対する切望心は、紛れもなく天(heavenward)に向かっています。
常に明確にそのことを認識できているわけではなく、また往々にして、罪により、他の方向に彷徨ってしまうこともありますが、それでも、天の約束、天の希望、そして被造界の美しさの中に存在するその永遠領域の非被造的美(uncreated beauty)にかんする幽かな直観により、わが魂はたえず〈故郷〉の方へ呼び寄せられています。
大学や神学校で私は「人はいかなる手段/方法によって永遠のいのちの賜物を得ることができるのか」について思索し、時に学友たちと議論もしてきましたが、今になって思うのは、自分は永遠のいのちそのものに関してはあまり考えてこなかったということです。
そして神学校卒業を間近に控えていた時期に、救済に関する私の理解に重要な気づきと洞察が与えられました。永遠のいのちとは神を知ることである*1、そして神を知るというのは、信仰を持つことだけでなく、キリストの掟を守ることを通し愛の内にとどまることである*2という使徒ヨハネの教えについて私は深く思いを巡らせていました。
聖ヨハネにとって、永遠のいのちの内にとどまることは、死の内にとどまることと両立し得ません。ですが、それは永遠のいのちの内にとどまっている人は皆、罪無き状態にあるということではありません。死に至る罪("mortal sin")があれば死に至らない罪もあり*3、前者だけが霊的いのちを絶たれます。
たとい洗礼を受けたクリスチャンが死に至る罪を犯したとしても、赦し、清め、和解という無償の賜物は罪の告解*4を通し受け取ることが可能です。
聖ヨハネの福音書および書簡の間を何度か読み比べている内に気づかされたのは、「永遠のいのちの内にとどまること」と、「(死に至る罪を犯したり、それらの罪を悔い改めることを拒むことことにより)死の内にとどまること」は相互に排他的なものではないだろうかということでした。
なぜなら、永遠のいのちそれ自体、意識存在の無限的継続であるだけでなく(滅びに至る人でさえその状態を有しています)、また単に未来の状態についての約束であるわけでもありません。
そうではなく、永遠のいのちというのは、〈今、ここで〉贈物として授与され受け入れられた、固有なる種類のいのちであるということです。それは愛である神のいのちそのものの中への参入(participation)です。
それゆえに、永遠のいのちを持つことは、愛の内にとどまることであり、その両者が律法を成就し*5、死と暗闇に打ち勝ちます*6。
そしてこういった気づきから、私は救済論に関し自分が抱いてきた幾つかの前提について見直す必要性を感じるようになりました。(例えばそれまで自分は、「賜物」vs「生き方」、「義認」vs「聖化」、「赦し」vs「清め」、「神の恵み」vs「その恵みの中への人間の参入」といった鋭利な対比のさせ方をしてきていたのです。)
しかし今、それらが同一の賜物のさまざまな様相として、互いの中で関与し合っているということを理解し始めたのです。
いのちの道としての永遠のいのちの理解はまた、「いのちのパン」(ヨハネ6章)、「実とぶどうの木」(ヨハネ15章)等の部分に対しても新たな洞察を与えてくれました。これらの箇所において、キリストにある私たちのいのちは、抽象的、静止的というよりはむしろ、サクラメント的、参入的(participatory)用語で描写されています。
契約的、サクラメント的リアリズム
それゆえに、カトリック教会に入る数年前に私はすでに、教会史全体を通し、カトリック/正教の信仰者たちによって保持されてきた救済論理解を受容するようになっていました。ちなみに、こういった理解は、「契約的、サクラメント的リアリズム("covenantal and sacramental realism")」と呼ばれることもあります。
契約的サクラメント的リアリズムの観点でみると、救済の賜物は、純然たる法的協定によって、ないしは法的協定を基盤に特徴づけられてはいません。
法的協定を基盤とする見方において、「神の義」は、ーーただ単に信じる者に転嫁されるところのーー外的(extrinsic)、異質なる資質であるのに対し、契約的サクラメント的リアリズムにおいては、救済の賜物は、根本的に、家族的契約関係(familial covenant relationship)にあります。*7
そしてその中にあって、生まれながらの罪びとであり、約束の契約についても他国人であった人々は、恵みにより、信仰を通して、赦され、清められ、御父の義に真に参入する神の子とされるのです。
サクラメントの中で与えられる神の恵みにより、キリストに対する信仰を通し、罪びとたちは真に、神が彼らに「かくあれ」と宣言しているところのものになるのです。
この偉大な救済は、独り子としての御子であり神のロゴスであるキリストとの一致から直接的に流れ出、且つ、実現されます。ロゴスであるこの御方は人となって私たちの間に住まわれ、自己犠牲的に十字架の上で私たちの罪のために死なれ、私たちを義とすべく死からよみがえられ、天に昇天し、御父の右の御座に着座しておられます。
さらに、キリストを信じる者は、死と暗闇の圧政からいのちと光の領域に移され*8、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれ、こうして私たちは神のご性質にあずかる者/キリスト・イエスの生ける肢体/天の御国の同胞市民とされています*9。
おわりにーー天と地の出会う場所
毎週、私たちはDivine Liturgy(聖ヨハネス・クリュソストモスの聖体礼儀/聖体拝領)の中で歌い、イコンの中で可視的に見ます。
「♪キリストは死によって死に打ち勝ち、死からの復活によりハデスの門を打ち破った。その後、キリストは肉体を伴い昇天され、いと高きところにおられる御父の右の座に着された。そして主を信じる全ての者たちのために天へ通じる戸を開いてくださっている。」*10
典礼、儀式、建築構造、像(images)、イコンの中における可視的表現を含めたーー教会の礼拝は、信仰から流れ出、そして信仰へと至らしめます。
私たちのリトルジカルな生活は、望んでいる事柄、目に見えないものに対する私たちの確信*11の顕現であり、主の再臨の時までつづくそれへの真の参入であり、こうしてかの日、キリストの内にある者は、顔と顔を合わせ主を仰ぎ見るのです。
教会の典礼的、サクラメント的いのちの中に忠実に参入することにより、私たちはその神的遭逢(divine vision)のための備えをすることになります。特にユーカリストの祝祭の中において、私たちは、すべての王である御方を受け入れるべく、あらゆる地上的思い煩いを打ち捨てることを学んでいきます。*12
そして司祭の祈りを通し、聖霊の御力によって、ユーカリストのパンと葡萄酒がキリストの御体および血に変化する時、私たちは神秘的に天にいる主と共に現存し、そこにおいて御使いや聖人たちと共に、世の罪を取り除く神の小羊を賛美しているのです。*13
それゆえ、〈今、ここ〉においてさえ、聖なる場所、聖なる地は存在し、そこにおいて天と地が出会い、信徒たちは共に集うのです。*14*15
ー完ー
*1:ヨハネ17:3参
*2:1ヨハネ3:10-24参
*3:1ヨハネ5:16-17
*4:1ヨハネ1:9
*5:1ヨハネ4:7-21;ローマ13:8-10
*6:1ヨハネ1:1-7;2:1-11;4:4-21
*7:訳注:Scott W. Hahn, Kinship by Covenant: A Canonical Approach to the Fulfillment of God's Saving Promises (The Anchor Yale Bible Reference Library) , 2009.
Scott W. Hahn, A Father Who Keeps His Promises: God's Covenant Love in Scripture
*8:ヨハネ3:16-21
*9:ローマ5:5;2ペテロ1:4;エペソ2:1-10、11-12
*10:訳注:
*11:ヘブル11:1参
*12:訳注:
*13:訳注:
*14:マラキ1:11;ヘブル10:19-22;12:22-24;黙4-5
*15:訳注: