巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーーアンドリュー・プレスラー師の信仰行程【その5】

その1】【その2】【その3】【その4】からの続きです。

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かつて居たところに私たち皆を運び入れてください、恵み深き主よ。(出典

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, 2016(抄訳)

 

唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会

 

自分の属するアングリカン管区の司祭会議に参加中、決定的な瞬間が訪れました。(私はその時聖公会司祭としての叙階を受ける段階にあり、そのため司祭会議に招かれていました。)

 

会議場に行く道中、私は自分の司祭に、聖公会を離れローマ・カトリック教会に向かうことを考えている旨を打ち明けました。司祭は私に助言をくださり、会議に集まっている他の司祭たちにも話してみたらいいと励ましてくださいました。そして実際、その日の夕食後、私は他の司祭たちにも打ち明けたのですが、彼らの助言は有益かつ慈愛に満ちたものでした。

 

その後、部屋に戻り、夜更けまでG・K・チェスタートンの著作『カトリック教会と改宗(The Catholic Church and Conversion)』を読みました。この本自体には、カトリック教会の諸主張に関する何か特別決定的なものはなかったのですが、床に就く頃までに私はすでにそれらの諸主張を受諾していました。

 

そしてこの瞬間、私はついにーー永い間ニケア信条の中で告白してきたーー唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じました。

 

夜が明けました。そして私は、この4年余りに渡り、公会の中で共に交わり尊敬してやまなかった聖公会司祭たちに最後の別れの挨拶をしに行きました。

 

「入口探し」

 

こうして私は、カトリック教会に参入するに当たっての入口を探し始めました。聖公会司祭会議の後、数か月の間、私はさまざまなローマ・カトリック教区を訪れました。

 

しかし教区の規模にまごついてしまいました。自分の住む地域ですと、教区サイズは数百から数千世帯を包含する規模でした。(私がこれまでの人生で属してきた教会はいずれも小規模で、教会員は皆互いのことを知っていました。そしてそこには教会ファミリーとしてのきずなと互いに対する責務という強い感覚がありました。)

 

それに加え、やはり私は、新しい典礼(ノヴス・オルド)に適応することがどうしてもできませんでした。

 

古代のユーカリスト的典礼との出会い

 

そこで私は、「聖バシリウス・ウクライナ・カトリック・ミッション」という名称で登録されている小さなコミュニティーを訪問してみることにしました。

 

このミッションは、地元のカトリック系列の高校のチャペルで礼拝を捧げていました。初めて訪問した晩、たまたま他の団体がそこのチャペルを予約していたために、ミッションは臨時にそこの高校の図書室を借り、典礼を行なおうとしていました。テーブルやら本やらを脇の方に移し、なんとかこしらえた小さなスペースでした。

 

そしてこの場所において私は生まれて初めて直に、「ビザンティン典礼」と呼ばれる古代のユーカリスト的典礼ーーDivine Liturgy of Saint John Chrysostomーーに出会ったのです。

 

証の冒頭のところで私は皆さんに、子供時代の自分がトールキンの「中つ国」に夢中だったことをお話しましたが、Divine Liturgy(聖ヨハネス・クリュソストモスの聖体礼儀/聖体拝領)は、私に、C・S・ルイスの描くペレランドラの世界を想起させました。

 

高校の図書室という不調和なセッティングであったにもかかわらず、典礼はたとえようもない美しさと崇敬で満ち溢れていました。しかもそこには自己陶酔的なものは一切ありませんでした。

 

リトルジカルな礼拝行為は自由、有機的統一性、生ける全体性、古(いにしへ)にしていのちの豊満性に満ち、秩序立ちつつ且つ、躍動的でした。それはまた、古代イスラエルの幕屋と神殿、エデンの園を思い起こさせるものでした。

 

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ビザンティン典礼(出典) 

 

Divine Liturgyは直観的レベルで私を納得させ、人知を超える平安でわが魂を満たしました。このウクライナ・ギリシャ・カトリック教会はローマ教皇とフル・コミュニオンの関係にありました。

 

ここにおいてついに戸が開かれ、約2カ月後、私は厳粛なる信仰告白と共に、ビザンティン典礼の様式に従い聖膏の秘跡(chrismation/confirmation; 堅信式)、聖体礼儀(ユーカリスト)を拝領し、カトリック教会とのフル・コミュニオンに入りました。

 

カトリック教会の「二つの肺」

 

ある意味において、「西方典礼」から「東方典礼」への私の移行は、「福音主義」から「カトリック教会」への移行過程にも匹敵するほど遅々として困難なものでした。

 

当初、ビザンティン典礼にまたたく間に魅了された私でしたが、ギリシャ/スラブ的キリスト教東方伝統を理解するというのは一夜にしてできるものではありませんでした。

 

事実、最初の内は、自分はただ教会法上ビザンティン・カトリックであっただけで、実際の私の心は、アングリカン化されたローマ・カトリックだったと思います。そして、、中世の田舎教区や、古の修道院の周りに群がるカトリックの村や、西方教会の古い典礼に従って礼拝を捧げるシャーロッテにある小さなこじんまりとしたローマ・カトリック教会などを夢想していました。

 

しかしながら二年、三年と経つ内に、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会は、教会法においても、私の心の中においても、自分の〈ホーム〉になっていきました。

 

私の生来的ロマン主義は次第に(破壊されることなく)より具体的にしてより建設的なものに引き上げられていきました。ーーすなわち、聖バシレイオス教会の同胞信者たちと共なる、この特定教会の典礼生活への参入です。

 

東方典礼カトリック教徒として、私たちは、①ローマとの一致、そして②私たち自身の伝統、その両方にコミットしています。私たちには固有の典礼(ビザンティン典礼)、神学、霊性、霊操、歴史があり、その大半を東方正教会と共有しています。

 

しかし、アングロ・カトリシズム経由のプロテスタンティズムからカトリック教会に来た者として/西ヨーロッパの血を引く北米人として/長きに渡る中世期の崇敬者として(特に聖トマス・アクィナス)、私はこれまでも、そしてこれからも、西方伝統、東方伝統、その両方によって養われ、造形されていくと思います。

 

これら二つの伝統を、教皇ヨハネ・パウロ二世は「二つの肺」にたとえていますが、その通り、両者は歴史を通し使徒たちより私たちに受け継がれている、相互を豊かにする聖伝の諸側面なのです。

 

ー【最終回】へ続くー