英国国教会(アングロ・カトリック)出典
目次
- はじめての教会訪問
- アングロ・カトリックの視点でみた教会観を知る
- 公同性に関するアングロ・カトリシズム自身の基準が分枝論を排除してしまわないだろうか?
- 「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」を探し求めて
Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, 2016(抄訳)
はじめての教会訪問
調べてみると、なんとアパートから1.5キロ以内の近距離に、伝統的アングリカン・チャーチ(聖公会)があることが分かりました。
この共同体は、どちらかといえば、アングロ・カトリック的傾向の強い教会でした。つまりどういう事かと言いますと、聖公会の中でも、アングロ・カトリック色の強い共同体は、プロテスタント宗教改革「以後」の英国国教会と、宗教改革「以前」の英国国教会の間の連続性に力点を置いているのです。
そこで私はこの教会に行ってみることにしました。初めて足を踏み入れた日の印象を私は生涯忘れることができません。
その日は平日の昼間で、ちょうど聖餐式が行なわれているところでした。薄暗く、ほのかな灯に照らされたゴシック式の聖堂。中に入ると辺り一面、御使い、聖人に伴われた主イエスの像(image)が描かれたステンド・グラスで覆われていました。
私は跪きました。前方をみると司祭が東の方を向き*1、主祭壇の前に立っており、祭壇にはキリストの磔像、聖櫃(せいひつ)が備えられていました。そして司祭はアングリカン・ミサ典書から聖体拝領文を読み上げていました。*2
礼拝が終わった後、私は司祭の所に話に行き、手短に自分の現在の状況を説明しました。そしてその後も引き続き、私はこの教会に通い、司祭との話し合いを続けました。
彼は私に、「サクラメント的教会」に参入するためには「真剣なコミットメント」が要求され、人は「使徒継承をもつ司教によって堅信礼を受けない限り」聖餐を受けることはできないと言いました。
アングロ・カトリックの視点でみた教会観を知る
その後の話し合いや研究を通して分かってきたのは、アングロ・カトリックの視点からいうと、教会(Church)というのは地域的な次元において位階的(hierarchical)であり、それはこの地上において主として、ユーカリスト的公会において顕現しています。
そして司教、ないしは(司教から叙階され、司教とコミュニオンにある)presbyterがそういった公会を統轄しています。(このようにして、アングロ・カトリシズムはアンティオケの聖イグナティオスの教えに倣っています。)
アングロ・カトリシズム(出典)
また(アングロ・カトリシズムによると)普遍教会は次の二つの中に顕現します。
①司教と一致しているそれぞれの地域公会の中において。
②そういった全ての公会の相互コミュニオンの中において。
アングロ・カトリックの信者たちはさらに、普遍(もしくは公同的)教会は、三つの分枝に別たれている(①ローマ・カトリック、②東方正教、③アングリカン)という分枝論("branch theory")を信奉しています。
アングリカンの分枝論(出典)
そしてこれら三つの分枝が共通に持っているのは、使徒継承を保持してきた司教制および教会のサクラメント的生活における豊満性です。
他方、三つの分枝を互いに分け隔てているものは、教会論的、文化的諸相違および、さまざまな教義上の、そして慣習上の意見の不一致です。
こうして私はこの教区のメンバーになり、アングロ・カトリック教徒になりました。なぜそうする決心をしたのかという点に関してですが、以下三つの理由を挙げたいと思います。
まず第一点目は、聖堂および典礼の中に深く刻み込まれている聖さという美に対する偽りなき証ゆえです。
それから二番目の理由ですが、アングロ・カトリックであることは、「公同的キリスト者("catholic")」であるための純粋なる道であると考えたゆえです。
私は思いました。こういったあり方は、(1世紀でストップした上で、再び16世紀以降のマルティン・ルターやジャン・カルヴァンやその他の誰かの始めた運動をピックアップするというようなあり方ではなく)キリスト教揺籃期から現在に至るまでの一貫した教会生活の豊満性を受容するーーこれを意味するのではないかと。
アングロ・カトリックは、「最初の千年期における別たれていない一致教会」の教えを受容し、そこにとどまると主張しています。キリスト教史における最初の千年に対する高まる関心および気づきとも相まり、これは私の内で、アングロ・カトリシズムを支持する重要な要素になりました。
それから三番目は、教会論におけるアングロ・カトリックの分枝論("branch theory")です。
(三つの分枝教会間の長年に渡る不一致/教義的相違という事実と共に)この分枝論が保証しているのは、(アングロ・カトリック諸共同体を含め)現在、存在している可視的キリスト教共同体のいかなる教えといえども私はそれを、ーーそれ自体キリストのお建てになった普遍教会の確定的教義として受け入れる必要はないということです。
それゆえ、私は、
①「歴史における正統性」を、「歴史における別たれていない一致教会」無しに持することができ、且つ、
②真理の識別において、あるいは、三つの分枝教会の間でいろいろと意見が分かれている諸事項に関し「真理は知り得ない」と判断することにおいて、自分自身の私的裁定に依拠することができました。
しかし、三番目のこの理由は、スウィングドアのようなものだったと思います。このシステムにより、人は容易にアングリカン・コミュニオンに導き入れられる一方、そこから出ていくこともまたいとも簡単にできてしまうのです。
スウィング・ドア(出典)
公同性に関するアングロ・カトリシズム自身の基準が分枝論を排除してしまわないだろうか?
皮肉なことに、アングリカンの分枝論に組み込まれている教導権的教えから離れた個人的自律(personal autonomy)は私に、分枝論それ自体に疑問を付するという「自由」をも授与していました。なぜなら、論そのものの性質により、分枝論は拘束力を持つ信仰箇条とみなされ得ないからです。*3
可視的にして統一された権威的普遍教会がかつて存在し、尚且つ、別たれた教会(Church)の内の二つの真正なる‟分枝”(①カトリック教会、②正教会)は現在も双方が共に自らの教会を、「一つの教会」と自己理解しているという事実は、アングロ・カトリック教徒をして否応なく、次の問いを自問せしめざるを得ないでしょう。
ーーすなわち、「公同性に関するアングロ・カトリシズム自身の基準はもしや分枝論を排除してしまわないだろうか?」と。*4
「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」を探し求めて
さらに教会史の観点からの問い(「教会からのシスマ(分裂)*5」がいつ頃から「教会の諸分枝」になったのだろう?)、そして聖書神学的観点からの問い(果たして「キリストは分割されているのだろうか?("is Christ divided?")」は次第に私を次の理解に導いていきました。
すなわち、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会(Μία Αγία Καθολική και Αποστολική Εκκλησία)」は、ーーたしかにシスマによって痛手を受けてはいるもののーー依然として自身の全体的存在および働きの内にとどまっており、それゆえ、キリストが使徒的教会に授けられた御約束(「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれている。」マタイ16:19)は今日に至るまで普遍的次元において実際に適用可能であると。
そして分割された教会(a divided church)も不可視的教会(an invisible church)も、普遍的次元でつないだり解いたりすることはできないように思われました。
しかし私の想定する「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」が実際に見い出され得る実体であるのかどうかは未だ定かではありませんでした。
但し、一つ確かだったのは、仮にそれが実際に見い出されるとして、そのような「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」とフル・コミュニオンに入っていくことは実質上、(アングロ・カトリシズムを含めた)あらゆる形態のプロテスタンティズムの破棄を意味するということでした。*6
なぜなら、さまざまなプロテスタント教団教派(そして無教派)は大部分において、自らがキリストの建てた一つの普遍教会であるという自己主張さえしていないのが常であり、(カルト諸宗派の幾つかを含め)そういった自己主張をしている二、三の教派は明白に、歴史の舞台に遅れて登場してきた集団です。それゆえ、それらのグループが1世紀に建てられた普遍教会であることはどだい不可能な話です。
このようにしてカトリック教徒になる以前の段階で、私はプロテスタント教徒であることを終えました。*7
リトルジカルな礼拝やユーカリストに関してですが、「普遍教会および、(普遍教会とフル・コミュニオンにある)地域諸教会を探したい」という私の願いは、より完全により深くキリストと一つにされたいという内的願いと同一のものでした。
私は思いました。仮にユーカリストが真にキリストの御体および血であり、教会(Church)が真に「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」「真理の柱また土台」(エペソ1:23、1テモテ3:15)、神秘体、キリストの花嫁であるのなら、その時、キリストを愛する者は、それらを得、自分の内にしっかりとそれを保とうと全力を尽くすだろうと。
ーーそう、良い真珠を見つけた商人や、畑に隠された宝を発見した人のように(マタイ13:44-46)。
ー【その4】に続くー