巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性が司祭になることが不可能である根拠について(byドワイト・ロングネッカー神父)

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女性司祭ーー存在論的奇形性(ontological disfigurement)及びキリスト論的歪曲(Christological distortion)という惨劇

(写真:Feminism and the Catholic Priesthood: What’s the Root of the Matter?

 

目次

  

『カトリック教会のカテキズム』1577項

 

1577 「洗礼を受けた男子のみが聖なる職階に有効に叙せられることができます。*1

イエスは十二人の使徒団を形成するために男子を選びましたし*2、使徒たちが自分たちの任務の後継者となる協力者たちを選んだときも同様でした。*3

司祭たちが祭司職で結ばれている司教団が、キリストの再臨のときまで十二使徒団を再現し、具現するのです。教会はキリストご自身によるこの選択に従う義務があると考えています。したがって、女性が叙階されることはありえません。*4

 

女性が司祭になることが不可能である根拠(byドワイト・ロングネッカー神父)

 


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ドワイト・ロングネッカー神父。ペンシルベニア州の福音主義家庭に生まれる。ボブ・ジョーンズ大学を卒業後、オックスフォード大学で神学を研究。その後、聖公会司祭として叙階され、ケンブリッジ大学の助任司祭、及びワイト島の教区司祭として司牧活動に専念。1995年、ローマ・カトリックに改宗。ロングネッカー神父の改宗に至る信仰道程は、Patrick Madrid ed., Surprised By Truth: 11 Converts Give the Biblical and Historical Reasons for Becoming Catholic, 2016の中に収録されている。(写真*5

 

「あらゆる議論は神学的議論である。」

 

G・K・チェスタートンがかつて言いました。「あらゆる議論は神学的議論である。」それゆえ、女性の叙階(及びその他どんな議論をする際にも)私たちは、そこにおいて一体どのような形態の議論が作られているのか、そして、カトリック信者にとり不可欠な諸真理はどこに存在しているのか、という点に常に気を配る必要があります。

 

 

女性叙階を推進しようとしている人々は大概、以下に挙げる三つの形態の議論を用いています。すなわち、功利主義(Utilitarianism)感情主義(Sentimentalism)、人権活動主義(Civil Rights)です。

 

①「功利主義」を基盤にした議論

 

功利主義を基盤にした議論は次のように展開されます。

 

「ジェーンもまた奉仕職において秀でており、むしろ男性よりも優れているほどです。彼女は神学の学位も取っています。彼女は偉大な説教者です。彼女は気配りのできる司牧者であり、主の良いしもべです。女性たちはどんな職業であっても、男性たちと全く同等に善くこなせるということが証左されています。私たちは良い司祭を必要としています。ですから、こういった女性たちは偉大な司祭になり得ます。」*6

 

②「感情主義」を基盤にした議論

 

感情主義を基盤にした議論は次のように展開されます。

 

「サリーは本当にすばらしい人です。彼女は愛に溢れ、ユーモア精神にも富み、善良です。そんな彼女を司祭にならせようとしないあなたがたはなんと残酷で愛に欠けていることでしょう!それは余りにも不公平であり人を傷つけます。サリーの母親は教会の支柱であり、彼女は本当にすばらしいクリスチャン女性です。〔彼女を司祭に認めないことにより〕あなたはご自分がどれだけ彼女を傷つけているのかお分かりですか?あなたの言動が、どれだけ彼女の心に痛みを与えているのかお分かりですか?」

 

③「人権活動主義」を基盤にした議論

 

人権活動主義を基盤にした議論は次のように展開されます。

 

「女性と男性は平等です。あなたがたは女性たちを否定することにより、彼女たちに対する差別を行なっています。彼女たちへの司祭叙階を拒むことにより、あなたがたは女性を二級市民として取り扱っているのです。」*7

 

カトリック教会の議論

 

こういった議論はより大きい議論の一部でもあり得ますが、カトリック教会の中においては余り影響力を持っていません。なぜなら、カトリック教会はそもそもスタート地点において異なる前提をもって出発しているからです

 

私たちは神学からスタートし、神学の真理がその他全ての諸決定を統治しています。ですから、功利主義的/センチメンタル的/人権活動的問いは、市民社会においては重要であっても、カトリック教会内で諸決定が下される際には優先順位的にはとても低いのです。

 

男女の創造からスタートする

 

司祭職を男性だけに保持することに関するカトリック議論は、男女の創造からスタートします。

 

男性も女性も、神の目に等しい価値を持つ存在として造られました。男女共に神のかたちに似せられて造られたのです。それゆえ、アダムとエバは私たちに両性が平等であることを示していますが、それはまた同時に相補性(complementarity)をも指し示しています。*8

 

アダムとエバの例は、人間条件内におけるセクシュアリティーの持つ深遠なる側面を反映するものとして、イエス・キリストによっても、聖パウロによっても、そして途切れることのないキリスト教聖伝の中においても用いられています。

 

私たちは単に無性(a-sexual)なる人間ではありません*9。私たちは同一(identical)ではないのです。私たちの人間性は内在的に男性性、もしくは女性性に結び付いています

 

そしてこの性的アイデンティティーは「自分が誰であるか」という事だけでなく、「自分がどのような者として存在すべく〔神に〕意図されているのか」ということにも関わっています。

 

それゆえ、私たちの人間アイデンティティー(そして男性性、女性性)は、私たちの永遠の行先にも関わっています。私たちのセクシュアリティーは間違いでもなく、偶然でもなく、取るに足りない詳細でもありません。

 

さらに、アダムとエバ像は、両性の間における適切にして自然な関係を描いています。神は彼らに「生めよ、ふえよ。」と命じられ、それゆえに、彼らは結婚の理想像をも映し出しています。男性と女性は互いのために造られており、両者は婚姻の秘跡を通し男性、女性として満たされます。

 

それゆえ、一人の男性は、彼が夫であり父親である時に最も豊満に男性であり、一人の女性は彼女が妻であり母親である時に最も豊満に女性であると言うことができるでしょう。追記:この段落には、神に献身した独身者やシングルの方々に関する言及が抜け落ちていることに気づきました。明日、このテーマについてのより踏み込んだ記事を書く予定です。よろしくお願い致します。〕

 

これは、自然的ー超自然的条件であり、新しい生命をもたらすこの愛の関係が創造の秩序の中心であり、人間存在および人生の中心にあります。またこれは教会の土台であり、人間社会の土台でもあります。

 

叙階と人間のセクシュアリティーの神秘、そして救済の経綸ーーイエスと御母

 

こういった男女理解は、女性叙階を巡るより広範にわたる議論において非常に重要なものとなってきます。なぜなら、ここから、「人間セクシュアリティーの神秘を通し、いかに救済の経綸が働いているのか」に関する理解が開示されてくるからです。

 

私たちはこれを、イエス・キリストと彼の御母との間の関係に見ることができます。聖パウロは1コリント11章で次のように言っています。「ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。(11、12節)」

 

Julius Schnorr von Carolsfeld - Annunciation - WGA21011 - Julius Schnorr von Carolsfeld - Wikipedia

受胎告知(出典) 

 

新約聖書およびカトリック霊性の歴史が示しているのは、乙女マリアが、御子が為した贖罪に関わる御行為を密に共有していたということです。「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」*10

 

「第一のアダムと第一のエバ」、「第二のアダムと第二のエバ」

 

第一のアダムと第一のエバが、人間であることの意味、そして男性、女性であることの意味を示しているのと同様、第二のアダムおよび第二のエバは、いかにして人が贖われた人間(それゆえ、贖われた男性たちおよび贖われた女性たち)であることができるのかを、私たちに示しています。*11

 

処女マリアは協働者としてキリストの贖罪的御業の中で輝いていますが、彼女はそれをまさしく、フルに女性として行い、フルに母親として行なっています。偉大なる大祭司であるキリストは、贖罪の御業を男性として為し遂げ、フルに男性として御子として行なっています。

 

ここにおける両者のセクシュアリティーは偶然の産物ではなく、彼らの存在アイデンティティー、そしてそれらが救済にもたらす上で非常に重要な意義を有しています。

 

典礼の中における司祭の役割

 

それゆえ、ここから私たちは、典礼の中における司祭の役割に導かれます。司祭は「もう一人のキリスト(alter Christus)」です。*12

 

彼はキリストの役割を果たし、キリストは、ユーカリスト的犠牲の行為の中において司祭を通し働かれます。男性として彼のセクシュアリティーは重要です。なぜなら、彼は贖罪に関わるこの行為にーー彼が人間であるというだけでなく、キリストと同様、彼が男性であるという事実ーーをもたらしているからです。

 

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出典

 

他方、女性たちは(女性として母として)乙女マリアが為されたように、贖罪的犠牲において参与しています。従って、「女性が司祭になる」というのは、「男性が母親になる」というのと同様、不可能なことです

 

今日この教えが、ある人々にとって非常に腹立たしいものであり*13、また別の人々にとっては不可解なものであるということを私は十分に承知しています。また全ての女性が母親であるわけではないということも十分に理解しています。

 

にも拘らず、これが、人間生活、信仰、救済のご計画における根本的構造として教会がその歴史を通し継続して教えてきた基本的な神学的モデルである事実は動きません。

 

神によって聖定された自然秩序を人間が勝手にいじろうとする時

 

自然秩序に由来しているこれらの根幹諸真理を私たち人間が勝手にいじろうとする時*14、私たちはその行為により自らを非常に危険な状況に置くことになります

 

なぜなら、それらの秩序は創造主なる神ご自身によって聖定されたものであり、それらは私たちの善、そして人類全体の善のために授与されているものだからです。

 

ではどのようにして人々は‟これらの根幹諸真理を勝手にいじろう”としているのでしょうか。実に、現在、社会全体がこれらの根幹諸真理に敵対し、戦いを挑んでいます。全ての性的諸罪はこれら根幹諸真理を侵害しています。なぜなら、それらは結婚および家庭の土台を侵害しているからです*15*16

 

女性叙階を推進しようという現行の動きは、そういった一連の攻撃の一環であり、それが故に、私たちはこれからも引き続き、この動きに抵抗していきます。*17

 

なぜならここで問われているのは、ただ単に、「ジェーンが良い説教者になるだろう」とか、「叙階しないことにより、サリーの気持ちを傷つける」とか、「フェアーではない」とか、いった事ではないからです。

 

それは、そういった諸主張よりも、ずっとずっと広大なものであり、実に、創造の秩序の所与性および救済に関する神的経綸に不可欠な一部であるために、教会はいかにしても女性を司祭として叙階することはできないのです

 

ですからカトリックの教えは明白です。「教会は司祭として女性を叙階する権威を持っていません。」*18 

 

ー終わりー

 

*1:CIC, can. 1024.

*2:管理人注: 

*3:Cf. Mk 3:14-19; Lk 6:12-16; 1 Tim 3:1-13; 2 Tim 1:6; Titus1:5-9; St. Clement of Rome, Ad Cor. 42, 4; 44, 3:PG 1, 292-293; 300.

*4:Cf. John Paul II, MD 26-27; CDF, declaration, Inter insigniores: AAS 69 (1977) 98-116.*註の部分の引用元:Second Edition Catechism of the Catholic Church, Revised in Accordance with the Official Latin Text Promulgated by Pope John Paul II. sec. 1577 (VI. Who Can Receive This Sacrament?).

*5:訳注:ロングネッカー神父と同様、聖公会内でのフェミニズム問題によりカトリックに改宗した聖公会司祭たちの証し。

*6:訳注: 

*7:訳注:

*8:訳注:

*9:訳注:

*10:訳注:『カトリック教会のカテキズム』721 この上なく聖なる神の母、終生おとめであるマリアは、時が満ちた時点での御子と聖霊の派遣による何ものにも代えがたいすばらしい成果なのです。救いの計画の中で初めて、御父は御子と聖霊とが人間の間に住むことのおできになる住まいを見つけられます。ご自分の霊がこれを整えられたからです。この意味で、教会の伝承はしばしば、知恵に関するもっとも美しい聖書のテキストをマリアに当てはめて解釈しています。マリアは、典礼の中で「英知の座」として示され、たたえられています。マリアのうちに、霊がキリストと教会とにおいて成し遂げようとされる「神の偉大なわざ」が現れ始めたのです。

722 聖霊は、マリアを恵みによって準備されました。「神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ 2・9)いるキリストの母は、「恵みに満ちあふれたかた」でなければなりませんでした。マリアは、無償の恵みによって、人々の間でもっともつつましいかた、全能者のえもいわれぬたまものをもっとも素直に受け止めることができる者として、原罪の汚れなく宿られました。ですから、天使ガブリエルがマリアに、「シオンの娘」として、「喜びなさい」とあいさつしたのは、まことにふさわしいことでした。マリアが、永遠の御子を懐妊したときに歌った賛歌の中で、聖霊において御父にささげた感謝は、実は神の民全体、つまり全教会の感謝なのです。

723 聖霊はマリアにおいて、御父のいつくしみ深い計画を実現されます。マリアは聖霊によって神の御子を懐妊し、出産します。そして、おとめでありながら、聖霊と信仰との力によって比類のない母となります。

724 聖霊はマリアにおいて、おとめの子となられた御父の御子を現されます。マリアは神の決定的な顕現の「燃える柴」なのです。聖霊に満たされたマリアは、みことばを自分のからだから生まれた人間として示し、「貧しい人人」と諸国民の初穂となる人々に御子を知らせます。

725 聖霊はマリアを通して、神の慈愛(神の「善意」)の的である人々をキリストとの交わりに迎え入れ始められます。謙虚な人たちが、いつも真っ先にキリストを迎えています。羊飼い、占星術の学者たち、シメオン、アンナ、カナの夫婦、そして最初の弟子たちがそうです。

726 霊のこの働きの終わりに、マリアは、あの「婦人」、「すべていのちあるものの母」である新しいエバ、「全キリスト」の母となります。マリアはまさにこのような資格で、聖霊降臨の朝、霊が教会の誕生とともに始めようとする「終わりの時代」の始まりに、「心を合わせて熱心に祈〔る〕」(使徒言行録 1・14)使徒たちの問にいるのです。

*11:訳注:

*12:訳注:『カトリック教会のカテキズム』1548 叙階された奉仕者が教会的奉仕を果たすときには、キリストご自身がそのからだの頭、その群れの牧者、あがないのいけにえの大祭司、真理の師としてご自分の教会に現存されます。叙階の秘跡の力によって司祭は頭であるキリストの代理者として(in persona Christi Capitis)行動するという教会の教えには、以上のような意味があります (Cf. LG 10; 28; SC 33; CD 11; PO 2; 6. 22。) 「〔奉仕を果たすのは〕同じ祭司イエス・キリストであり、奉仕者はその代理をしているだけです。実に、奉仕者は、司祭職への聖別を受けることによって大祭司に似たものとなり、キリストご自身の力と名により行動できるようになるのです」(Pius XII, encyclical, Mediator Dei: AAS, 39 (1947) 548. 23。)

「キリストはすべての祭司職の源です。事実、旧約の祭司はキリストの前表であり、新約の祭司はキリストの代理者として行動するからです」(St. Thomas Aquinas, STh III,22,4c. 24。)

1549 教会の頭であるキリストの現存は、叙階された者、とくに司教と司祭の役務を通して信者共同体の中で目に見えるものとなります (Cf. LG 21. 25。)

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アンチオケの聖イグナチオの美しいことばによれば、司教は父である神の生きている像(テユポス∙トゥー∙パトロス;τύπος του Πατρός)のような存在なのです。(St. Ignatius of Antioch, Ad Trall. 3,1:SCh 10,96; cf. Ad Magn. 6,1:SCh 10,82-84. 26.).

*13:訳注:

*14:訳注:

*15:訳注:

*16:訳注: 

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ジェームズ・マーティン神父は2017年8月29日にヴィラノヴァ大学で行なわれた講義の中で、ミサに出席するアクティブな同性愛実践者に向かい言いました。「今後10年以内に、教会の中であなたが、パートナーもしくはあなたの夫にキスできるようになることを私は待ち望んでいます。参照

*17:訳注:

*18:訳注:1994年にヨハネ・パウロ二世は次のように明言しています。 “Therefore, in order that all doubt may be removed regarding a matter of great importance, a matter which pertains to the Church’s divine constitution itself, in virtue of my ministry of confirming the brethren (cf. Lk 22:32) I declare that the Church has no authority whatsoever to confer priestly ordination on women and that this judgment is to be definitively held by all the Church’s faithful.” (Ordinatio Sacerdotalis, 4). 引用元