巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

セオトコスーー真の自由への導針(by ヨルゴス・カプサニス掌院、アトス山修道士)

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アトス山(Ἅγιον Ὄρος)修道院群

 

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ヨルゴス・カプサニス掌院(写真右)。アトス山グレゴリウー修道院元院長。2014年召天。出典

 

Fr. George Kapsanis, Theotokos: Guide to True Freedom(全訳)

 

キリスト降誕祭の講話、1986年

 

特に今年、私たちは、キリスト降誕祭の晩課の中でも最も美しいイディオメラ(Idiomelon)の一つに注目していきたいと思います。

 

おおキリスト、汝に何を奉献差し上げたらよいのでしょうか。

ーー私たちのために人としてこの地上に顕現してくださった御方に。

汝によって造られたあらゆる被造物は汝に感謝を捧げています。

御使いたちは汝に讃歌を捧げ、天空は星々を捧げています。

東方の博士は山羊を、羊飼いは、驚異と畏敬を。

地は洞窟を、荒野は飼い葉おけを。

そして私たちは汝に乙女(童女)である御母を奉献します。

おお、永遠なる神、われらを憐れみたまえ。

 

あらゆる神の被造物は、主の受肉ゆえにキリストに感謝を捧げ、感謝の贈物を主に捧げる必要性を感じています。御使いたちは讃歌を捧げています。彼らはキリストの受肉を待ち望んでいました。なぜなら御使いたちは人類を愛しており、神から隔絶された人間の有様に心を痛めていたからです。

 

キリストの受肉と復活により、善き御使いたちは自らの善性の内に堅く立てられることになります。すなわち、聖性、罪のなさ、さらには至福(beautitude)および栄光が彼らの永久的状態になるのです。

 

理性を持たない被造物はーー人類の堕落及びいのちの源泉である御父としての創造主との隔絶後、人間に継承された腐敗からーー人と共に解放されることを切実な思いで待ち望んでいます(ローマ8:19参)。

 

理性を持つ人間の苦しみはさらに深刻なものです。人は自らの解放を切望しています。それゆえに、人類は、人となられた御方であるキリストに対し、最高の贈物を捧げます。ーー乙女なる主の御母を。

 

実際、私たち人間が捧げることのできる贈物の中で、これ以上に栄誉あるものは他にありません。パナギア(pan aghia; παναγία;マリア)はすでに自身を完全に神に捧げており、最も清い器として、自身の胎に彼女の息子であり彼女の神を迎え入れる備えができていました。

 

ですから、受胎告知において、大天使ガブリエルがマリアにあなたはキリストの母になるということを告げた時、彼女は神への全き信頼の内に次のように言うことができたのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)。

 

受胎告知出典

 

もしも彼女が自らを神に奉献していなかったのなら、私たちは乙女マリアを神に奉献することはできなかったはずです。そして乙女マリアの為したこの自由奉献こそ、神の受肉を可能にせしめました。

 

なぜなら神は私たち人間の同意なしに受肉することにより、私たちの自由を侵害することをお望みになられないからです。乙女マリアは私たちの代表として神の前に立ち、神に対し「はい。」とお答えすることができました。

 

彼女の行為は特別な責務、愛、そして自由の行為でした。彼女は神ご自身が持しておられないものーー人性ーーを授与しました。それにより、人が持していなかったものーーセオシース(θέωσις, Theosis)ーーを神が授与するためです。

 

それゆえ、キリストの受肉は、人間に対する神の自由提供行為であるだけでなく、乙女マリアを通した、人から神への自由奉献でもあるのです。

 

こういった双方向における自由こそ愛が愛であるための必要条件です。神ご自身、いかなる必要性も無しに自由に提供され、乙女マリアもまた、いかなる強制も無しにその贈物を自由に受け取っています。

 

もしも乙女マリアが、自らの自由を満喫するべく(神および人への自己奉献ではなく)自分自身のエゴイスティックな満足を重視していたのだとしたら、彼女は神と協働することはできなかったでしょう。

 

出典

 

ですから乙女マリアは常にあらゆる時代のクリスチャンから祝福を受けるにふさわしく、特に‟すべての人のテオシースの由”として、降誕節のこの時期は尚更重要です。また彼女は真の自由に至る道を私たちに指し示しています。

 

現代人は悪魔に欺かれ、ーー古のアダムとエバが騙されたようにーー「わが身の自由は、己の自律性の内にある。」と思い込み、また、神の対する反逆の内に自由があると錯覚しています。

 

こういったエゴイスティックな態度により、人は、神とだけでなく、同胞である他の人間とも真の交わりの可能性を喪失しています。そして彼は耐えがたい孤独の中で孤児として生き、実存的虚無の中を通らされています。

 

薬物を服用している若者は、もしも彼が自らの虚無感をそれらの薬物で満たそうとする試みを止めることができたら、服用をやめることができると私は確信しています。

 

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出典

 

パナギアである乙女マリア、そして受肉した御子は、愛の自由へと私たちを招いています。この自由は十字架から発生しています。

 

これは自分たちの情欲を満足させるような容易な道ではなく、犠牲、奉献、そしてエゴイズムに対する勝利へと至らしめる険しい道です。

 

キリストの福音および私たちギリシャ正教の伝統より受け継がれてきたこの自由ゆえに、私たちは、例えば、中絶を許可するような諸機関を受諾することはできません。こういった諸機関は、愛による自由を歪曲し、(生きる道としての)エゴイズムの‟自由”を導入しています。

 

しかし乙女マリアおよび御子によって開始された愛の自由を選び取っている私たち正教クリスチャンの前には大いなる闘争が待ち構えています。

 

なぜなら私たちはこの世の流れに抗しつつ、この自由を獲得するべく格闘せねばならないからです。この闘争は十字架です。ーーしかし、これはまた喜びを伴った格闘でもあります。なぜならそれは私たちを復活へと導き入れるからです。

 

現在あなたがたが通らされているこの闘争のただ中にあって、飼い葉おけの中にお生まれになった私たちの救い主イエス・キリストが、祝福された御母であり私たちの母であるセオトコスを通し、あなたがたに主の恵みと祝福を賜わってくださいますように。

 

ー終わりー

 

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