巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ルターと自然法(by ティモシー・ゴードン)

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Dr. Timothy Gordon, Ph.L., J.D., M.A.

 

目次

 

Timothy Gordon, Natural No Maas: The disintegration of the concept of all law in Luther, Aug 12, 2018(拙訳)

 

はじめにーー主意主義をめぐるカトリシズムとプロテスタンティズムの世界観の違い

 

今年はプロテスタント宗教改革501年目ですが、私たちは未だに、議論の余地なきことを互いに議論し合っているように思います。

 

ほとんどの人は、古典的プロテスタンティズムがキリスト教における主意主義的形態であるということを認めています。

 

古典的プロテスタンティズムは、人間意志および神的意志に関しラディカルに異なる見解を提示しているキリスト教表現であるため、それは、(主意主義を採らない)カトリシズムとは、宗派の違いとしてだけではなく、根本的に異なる世界観という観点においても違っています。

 

プロテスタンティズムはどのようなプロセスを経てそこにたどり着いたのでしょうか。そしてそれは、プロテスタンティズムの自然法との関わりにおいてどのような事を含意しているのでしょうか。

 

ルターは人間自由の擁護者なのだろうか?

 

多くのプロテスタントは、自らの世界観から導き出される平易な諸結論を今日に至るまで拒否し続けています。

 

例えば、昨年の10月、ウォール・ストリート・ジャーナルは、この特集欄で、ルターを「人間自由に関する最も偉大なる擁護者の一人」と称賛しています。しかし、これは本当でしょうか。ーー生涯に渡って彼が「奴隷意志論(Bondage of the Will)」の立場を堅持していたにも拘らず、です。

 

そもそも「プロテスタント自然法」というものは存在するのか否か

 

そしてここから始まり、私たちの間で、「そもそもプロテスタント自然法というものが存在するのか否か」についての論争が始まりました。私は論文や著書の中で、そのようなものは存在しないという論を展開しています。それに対し、ヒルスデール大学のコーリー・D・マース教授は、マルティン・ルターは自然法を是認していた、と反論しています。

 

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Korey Maas教授、ヒルズデール大歴史学科准教授(出典

 

公正を期するために言いますと、ルターは確かに自然法について多くを言及しています。(ですが彼は誤った‟自然法”の定義をしています。)

 

つい最近、マース教授は、「ルターと自然法ーーゴードン流快刀乱麻(らんま)を断つ*1」というタイトルの、パンチの効いた、そして時に混乱した内容の論考を、ルターの名にかけて書き、反撃を試みています。

 

本稿*2で私は、ーーアリストテレス・トマス的用語を用いるならーー、「矛盾が学術的破滅をもたらしている」ということを論証したいと思います。ルター版自然法は定義矛盾しており、彼が ‟自然法” と呼んでいるものは、決定的余白によって的を外しています。

 

そしてこの命題は、ーールターが神の意志、人間意志、および日々の習慣的徳(habituated virtue)だと考えていたところのものーーを検証することによって明らかになってくると思います。

 

ルター、唯名論、主意主義

 

この立場に立っているのは、ロバート・R・ライリーや自分を始めとするカトリック論者だけではありません。現にルター派の学者であるトマス・D・ピアーソンは、The Journal of Lutheran Ethics誌(2007年12月号)のあの衝撃的論文*3の中で、同様の事を主張し、次のように言っています。

 

「確かにルターは著述の多くの箇所で、自然法に関する直接的言及をしています。しかし彼の言う自然法とは、ーー唯名論運動以前に存在していたーー古典的自然法理論に関する伝統的装置の痕跡すら残していません。」

 

そしてピアーソンは、ルターの唯名論に関し、次のような要約をしています。「ルターとメランヒトンーーそしてさらにはルター派神学の実践一般ーーは、甚大な仕方で、古典的自然法の伝統から離脱しています。」

 

唯名論は、(人間精神の中で作り出されたカテゴリー化を仮定しつつ)現実秩序内における客観的、普遍的、永久的諸原理の存在を否定しました。唯名論運動は、後期スコラ哲学から生じ、初期プロテスタンティズムにて生育していきました。

 

ピアーソンは、中世唯名論に関するこれまでの描写の多くは近年の学術研究により、歪曲されたものであることを指摘しています。しかしながら、神的理性よりも神的意志に対する唯名論の重大なる強調は、今に至るまで堅固に残存しています。そして「理性」よりも「意志」というこの強調は、自然法に関する唯名論的バージョンに決定的影響を与えています。

 

神の意志および被造物の意志に適用され、唯名論はダイレクトに主意主義(voluntarism)に導かれます。この主意主義は、(「神の意志」に対する「神の知性」の首位性という)伝統的秩序のアンチ・トマス主義的逆転であり、これはキリスト教倫理の転覆をもたらします。なぜなら、知覚可能な(intelligent)創造主なしには、被造物は、知覚可能ではあり得ないからです。

 

ピアーソンは次のように続けています。「仮に神的法が、神の理性よりも神の意志に由来しているのだとしたら、『人間知性こそが(神的法より来る)自然法を直観する上での明白な手段である』ということを肯定するための原因が不在だということになってしまいます。」そしてこれが、ルターの最終的倫理拒絶を理解する上での要石です。

 

ですから、カトリックの見解によると、神の意志は神の知性に追随し、従って、自然法は、「ロゴス中心の永久法を架け橋に、神的法より来るものである」ということになります。それに対し、ルターの宗教改革に先立つこと2世紀の間に勃興してきた主意主義的見解は、このモデルを頭越えした上で、「神の意志は神の知性に先立つ」と主張しています。

 

そしてもしも被造物がロゴスからではなく、盲目な意志から発出しているのであれば、神的法と人間の法を結ぶ二つの橋(最初は、神的法と自然法を結ぶ永久法、そして二番目は永久法と人間の法を結ぶ自然法)は、堀の中に崩壊してしまうことになります。

 

そのような反転は、①ロゴスである神に関するヨハネ理解だけでなく、②理性的にして知覚可能な(intelligible)創造に関する諸教理、および、③人間知性が倫理的善として指定するものを習慣化させることを可能にせしめている良心的人間意志に関する諸教理をも分解します。創造主の知性を転覆させることで、被造物全体は倒錯していきます。

 

換言しますと、自然法は、ロゴス中心にして、アンチ主意主義的な創造主観に依拠しています。なぜなら、それなしには、自然法に関する次の三点が崩壊してしまうからです。

 

ー被造の自然は、(人間のための)倫理的自由の場を提供していない、ということになる。

ー被造の自然は(人間にとって)知覚不可能ということになる。

ー被造の自然は(人間に対し)明確にして、行動志向の目的を開示していないということになる。

 

ルターの自然法観

 

ルターの自然法観に関し、ピアーソンは次のように書いています。

 

「自然法および衡平法は、主として〔そして時には排他的に〕数多くの特定の社会諸目的を成し遂げる上で、ルターにとって価値を持つものでした。(例:正義が堅持されるために公共治安維持をすること等。)」

 

また彼は次のようにも言っています。「ルターの懸念は、自然法から導き出される手段的効果のことであって、倫理的/民事的公正を確立させる必要不可欠な出発点としての自然法の安置にあったのではありませんでした。仮にある状況下、自然法に訴えることで、有害なる社会的諸結果が生じてしまったのだとしたら、その際には自然法が悪いということになります。」

 

換言しますと、ルターの唯名論的形而上学および主意主義的神観において用いられている、‟自然法”という彼の用語は、愛に関する聖書の掟によってぼんやり提示されている応急同意の規則に還元されるような実際的原則であるに過ぎない、ということになるかと思います。

 

ピアーソンは言っています。「『自然法は永久法を経由して神的法より来る』というアクィナスの確信をルターが共有していたことを示すものは何一つありません。ルターにとり、神的法は全く異なる機能を持っていたのです。」

 

後半の文は、神的法に関するルターの主意主義的見解を熟慮してのものでしょう。つまり、それは、聖書の中で排他的に公布されている諸命令の半理性的一セットであり、人に盲目的従順を要求しつつも、いつでもリバーシブルなものなのです。

 

トマス・アクィナスにとっては、もちろん、神というのは単一者(single being)であり、その本質(essence)および存在(existence)は同一です。

 

神の本質はロゴスですから、理論的に言って、神は御自身を矛盾させることはできない(or 矛盾させない)というのは確かに真です。しかしながらそういったスコラ主義的概念に対する言及なしには、ルターのような思想家たちは、程度の差こそあれ、ある種の主意主義に自らを陥らせてしまうことになります。

 

人間意志と人間知性

 

簡潔に言って、それが理由で、ルターは、いわゆる「(全体として)自由意志の否定者である」と言われているのです。ルターは「意志が生来、規範を矯正すべく一致させることができると述べるのは間違っている」と書いています*4

 

また彼は次のようにも言っています。「原罪というのが本当に意味しているのは何かというと、人間本性が完全に堕落したということである。そして知性は暗くなったために、我々はもはや神を知ることも、神の聖意図を知ることも、神の御業を理解することもできなくなったのである。」*5

 

しかし公正を期するために申しあげますと、マース教授の回答の中に記述されていた妥当なる救済論的区別に照らして考えてみた時、自分は確かに、ルターは「自由意志全般(in toto)の否定者だったと言うよりは、ルターは「統合失調症的な否定者だった」と言うべきだったのかもしれません。

 

次に挙げるのがルターの混乱の源です。ーールターはある箇所において、救済論的決定論とその明白なバージョンとの間を区別しています。(*後者の引用の例。)しかし、他の箇所では、その区別が完全に欠落しています。(*前者の引用の例)

 

後者において、それはルターの中におけるアーチ形の決定論のように聞こえます。さらに、注意深くみていきますとーー特に上述した、ルターのアグレッシブな唯名論的、主意主義的諸傾向を考え合わせるとーールターの、狭小ではなく広範なる決定論が支配的法であるように思われます。

 

曖昧性の事例に関しては、文脈に当たらなければなりません。そして、人間意志に関する‟応用”倫理状況におけるルターの見解をみますと、彼の立場が、「人間本性は‟完全に”堕落している」という見解とかなり一致していることに気づきます。例えば、ルターは、生涯に渡る独身制の不可能性を主張し、それには「天使的力や天の徳」が必要であると言っています。*6

 

また、ソラ・フィデの支持者であるルターにとって、性的衝動はすでに救済とは無関係であるという点も押さえておく必要があります。マース教授等の支持者はそれを認めないかもしれませんが、そのような諸衝動は、「意志は、それ自身を伍しい理性(recta ratio)に適合させる能力に欠けている」というルターの思想との間にはるかに深い関係を持っています。

 

ルターの『スコラ哲学的神学に対する論駁(Disputation Against Scholastic Theology)』が出版されてわずか100年余の間に、ドルト信仰基準は、次のような結論を下すに至りました。

 

「この〔自然法〕は、救いに至らしめる神の知識および真の回心に人を導くのに全く十分ではないために、彼は、自然的かつ民事的(civil)な事柄においてさえもそれを正しく用いることができない。 *7

 

換言しますと、プロテスタントの人々でさえも、「救済論と実際的理性の使用との間の相違は、ある意味、度合の違いであって、種類の違いではない」ということを認めているようにみえます。しかし彼らは滅多にそれを認めません。

 

マース教授のようなルター派の人々は、なぜ自分たちの世界観がこれほどまでに一貫して自然法に対置しているのか手をもんでいます。なぜなら、ルターを始めとする改革者たちは、救済論の領域における倫理的知覚可能性を否定していただけでなく、大規模な形で倫理をも否定していたからなのです。

 

尚、ルターがやや譲歩し、語調を和らげ、人間知性は堕落によって完全に暗くなったというわけではないと言っている箇所であってさえも、彼は、人間知性によって知覚されるものとしての自然を、ーーせいぜい‟わずかに解読できる(impotently scrutable)” であるに過ぎないと表現しています。

 

ルターはさらに、「人は独身性という自然的徳を論じることはできても、その人の意志はその真理命題を結実に至らしめることはできない」とまで言い切っています。

 

もちろん、これがルターの見解が決定論的であるか否かを判断する決定打にはなりませんが、強固に証左的なものであると言うことはできると思います。ルターは貞操を有徳なものとして肯定していましたので、いかにして彼はその実行可能性を否定し得たのでしょうか。

 

ルターの「奴隷意志論」は、(エラスムスに対する彼の論駁における)制限された使用法よりも、より円大な意味領域を持っていたように思われます。

 

習慣と法の役割

 

マース、ピアーソン、両氏が言っているように、(メランヒトン、カルヴァン、ツヴィングリと同様)ルターは、著述の至る所で、自分が自然法を受容していると主張しています。

 

しかしその他の宗教改革者たちと同様、ルターもまた、自然法の命脈そのものである、徳倫理学(Virtue Ethics)および倫理的習慣化に対し激しく抗議し、次のように言っています。「実質、アリストテレスの倫理学全体は、恵みに対する最悪の敵である。*8

 

J・デール・チャールズが説明しているように、「ルターの観点からみると、徳にかなった習慣や行動パターンは、恵みや身に余る恩恵と和解し得ないのです。ルターの思考の中には、いかなる種類の人類学的オプティミズムもそこに入る余地がありません。」*9

 

習慣化された徳の持つ中心的役割に関するルターの拒絶に関するその他の事例をいくつか挙げます。

 

「トマス〔・アクィナス〕は多量の異端内容を書いている。トマスは、アリストテレス統治の責めを負っており、神聖な教理の破壊者である。*10

「『人間の性向は、二極の内のどちらかを自由に選択できる』という言明は間違っている。実に、人間の性向は自由ではなく、捕らわれの身にあるのだ。*11

「倫理的徳というものには、プライドか悲しみか、つまり、罪が常につきまとうのである。*12

「われわれは、義なる行ないをすることによって義人になるのではなく、義とされることにより、われわれは義なる行ないをするのである。*13

 

ここで是非とも留意したいのが、ルターは『Disputation』の中で、救済論について言及していたわけではないという点です。これは重要です。彼は習慣形成や徳に関することに言及しており、それはルターだけでなく、アリストテレス本人にとっても救済に関わるテーマではありませんでした(=non-salvific)。

 

それゆえ、ソラ・フィデの主唱者であるルターが、カトリック救済論を軽視すべく、ここでアリストテレスの徳倫理学についてあれこれ議論しているのはとんだお門違いであると言わねばなりません。

 

ルターにとっては、不誠実な人であっても容易に有徳的諸習慣を身に着けることができる。けれども、依然としてその人は救われていないこともあり得る、となるはずですよね?それならばなぜ彼はこれほどまでにインクを大量に消費しつつ、アリストテレスの(救済論に関係しない)、習慣化を通した徳に関する倫理学の不毛性について説き続けているのでしょう。

 

(メランヒトン、カルヴァン、ツヴィングリと同様)ルターは、人間の法の持つ積極的価値を是認しようとしており、これがーーピアーソンが指摘しているようにーールターが‟自然法”と呼んでいるところのものに相当するようです。

 

法がすべての人の心に書かれているというコモン・センスおよび聖書を前提しつつ、ルターは、「(法なしには)それが良心の懸念となるまでの長い間、人は法について教え実践しなければならなくなるだろう」と記しています。

 

しかしながら、習慣化(habituation)を糾弾することにより、統合失調症的なルターは、自然法と共に、人間の法の価値を矛盾させる羽目に陥っています。ーーそれは偶発性としかみなされない二重矛盾です。

 

なぜでしょうか。その理由は次のようになります。ーーアリストテレスおよびトマスにとり、法は、(アリストテレスが呼ぶところの)「偶有的徳(“accidental virtue”)」を培う力を持っているに過ぎず、そこで正しい行ないが実行されるわけですが、そこにはありとあらゆる間違った理由/動機があり、「いかにして義人がそれを行なうのか」という点と調和しない仕方でそれらは実行されています。

 

偶有的徳(アレテー)を奨励することにより、正当的に作られた法は、市民たちを真の徳へと導き始めることが可能になりますが、後者が習慣化だけでなく、(その行為の動機や状況が全きものとされるべく)倫理的媒介により意図的な目的が要求されない限り、真の徳には達し得ません。

 

真の徳を計る試金石は、「それ自身ゆえに正しい事を為すことから結果的に得られる純粋な喜びだ」とアリストテレスは言っています。この意味において、徳は「行為ではなく習慣である」というあの有名な格言があるわけです。

 

アリストテレスは言います。「しかるに、人格のアレテー〔=徳〕はそうではなく、技術(テクネー)習得の場合と似て、私たちはまずその行為を行うことによってアレテーを身につけるのである。つまり、『それを行うためには事前に身につけておく必要のあるもの』を習得するのも、私たちがそれを自ら行うことによってなのだ。」 *14 

 

彼はまた次のようにも言っています。「アレテーにおいても事情は変らない。なぜなら、人と人との間で何らかのやり取りを行うことで、私たちは正しいか正しくない人間になっていくのである。また、恐ろしいと思える事柄があったとして、それを恐れのままにビクビクしながら行うか、恐怖心を抑え平然と行うかのどちらかに習慣づけることによって、勇敢な人間になったり、臆病な人間になったりもするのだ。」*15

 

ルターは『Disputation』の第40項において、上記のアリストテレスの言明に言及しており、そこにおいて、「我々は正しい行ないをすることによって義人になるのではない」という先述の大胆な結論に至っています。

 

反復ーー習慣化ーーを通し、アリストテレスートマス的自然法の核心は、かつて機械的、偶発的に、人間の法制によって強制されていたものが真の徳(アレテー)に成長していく様を開示しています。

 

そして有徳的行為が偶発的なものから真なるものへと移行していくにつれ、それは媒介者により、より良く動機付けされ、文脈化され、理解されていくようになります。しかし、ルターにとってはそうではありませんでした。

 

結論

 

正当的に作られた法、および、私的にして意図的な習慣化育成により、偶有的徳は、現実的に真の徳になり得ます。しかし、ルターは知性と意志の間の相互作用に関するアリストテレス・トマス的な包括的主張を否定しています。この理由ゆえに、自然法に関するルター解釈は、‟偶有的”バージョンに過ぎないということができるでしょう。

 

最終的に、徳を生成させる習慣に対するルターの拒絶は、自然法に関する彼の見解だけでなく、人間に関する彼の実定法見解をも無効にしています。

 

著名なロバート・ライリーが述べているように、ルターの唯名論的・主意主義的な自然法 ‟是認” は、ただ単に実際的理性の有用性に対する消極的な非否認に過ぎず、それ以上のなにものでもありません。

 

そしてこれは基本的に、五感覚に関する、より筋骨たくましいバージョンの是認であるに過ぎず、徳をはく奪され、何ら目的を果たしていません。リチャード・ドーキンズでさえも、自然に関する彼のゴテゴテした査定の中でほとんど同じことを認めています。

 

習慣の役割なしにはーーそしておそらくこれが「恩寵は自然を完成する」というトマスの指摘するところのメカニズムそのものでしょうーー自然法は「人間の法」と「神的法」の間に、本来そうするべく意図されている〈橋〉を架けることができません

 

これが自然法の本質です。つまり、物質的なものと霊的なものの間の〈橋〉。そしてその要石は徳です。

 

もしもあなたが ‟自然法” と呼んでいるところのものが、上よりの「神的法」ーー及び下にある「徳の生成」に付随する人間の法とコネクトしていないのであれば、あなたのその‟自然法”はなにか全く違うものである、ということになります。

 

最後になりますが、学術的寛容に関するマース博士の批判について再考したいと思います。私は今あえて申し上げます。プロテスタントとカトリックが相互交流することのできる最も学術的にして最も賢明なる方法は、私たちが直接会って顔をつき合わせながら、互いにこのようなテーマをディベートすることではないかと。

 

そして両陣営が共に友好的な精神の内にある時、(時として書面を通したディベートでは誤って読み込み誤解してしまいがちな)侮蔑や愚弄の類は、斥けられるでしょう。

 

さらに、こういった直接顔をつき合わせたディベートは、教皇ベネディクト16世のRegensburg Address(⇒私たちの別たれた兄弟たちと、愛の内に公にディベートする)精神とも見事に一致しており、また、それが高等教育機関としてのuniversitasの本来の精神なのではないかと思います。

 

私はそのような場を提案致します。打ち解け、活発で、フェアーな環境の中、今年の秋、マース教授のおられるヒルスデール大学でそのような機会を持てたらと願います。

 

ー終わりー

 

関連記事

↓本稿とは相反する古典的プロテスタントの立場からの論考

↓ルターの「十字架の神学」について

↓プロテスタントの認識論について

↓「信仰」と「理性」の関係について

↓本稿の内容と呼応する形で、カルヴァン大学のジェームズ・K・A・スミス教授が「習慣」について語っています。

*1:Korey Maas, Luther and Natural Law: Cutting Gordon’s Knots

*2:それからこの記事においても。

*3:“Luther on Natural Law”

*4:英文:“it is false to state that the will can by nature conform to correct precept” Disputation #6

*5:Luther’s Works, vol. 1: 114

*6:Werke: Weimerar Ausgabe 6, 441

*7:Protestant Canons of Dort, 1619

*8:Disputation Against Scholastic Theology, #41

*9:Charles, “The Protestant Reformers and the Natural Law Tradition”, FN 7

*10:Luther’s Works, 32: 258

*11:Disputation #6

*12:Disputation #38

*13:Disputation #40

*14:超訳『ニコマコス倫理学』第2巻 第1章(Ethics, Book II, Chapter I).

*15:同上。